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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第60話 手の甲のキスなんて、少女漫画でも心臓に悪いです

 その夜、私は自分の右手ばかり見ていた。


 もちろん、もう何も残ってはいない。

 でも、残っていないはずなのに、そこだけがずっとあたたかい気がする。


 手の甲にキス。


 そんなの、現実で起きるものなんだろうか。

 少なくとも、少し前までの私なら絶対に信じていなかった。

 少女漫画の中だけの出来事だと思っていた。

 でも今日、それはほんとうに私の身に起きた。


「……むり」


 ベッドの上で、私はまた小さくつぶやいた。

 何がむりかって、全部だ。


 あの庭園の静けさも。

 似合う、じゃなくて意味があると言われたことも。

 そのあとで手の甲にキスされたことも。

 全部が甘すぎて、心臓に悪すぎる。


 しかも問題なのは、それを思い出すたびに、顔が熱くなるだけじゃなくて、少しだけ嬉しくなってしまうことだった。


   ◇ ◇ ◇


 翌朝、教室へ入ると、ひまりが私を見るなり机に突っ伏した。


「何」

「顔」

「何」

「手の甲」

「ひまり」

「図星」

 私は鞄を置いて、少しだけため息をついた。

 もう最近、この親友には何も隠せない。


「……そんなに分かる?」

「分かるよ」

「……」

「だって、今日の栞」

 ひまりは顔を上げて、にやにやしながら言う。

「ずっと片手を大事そうにしてる」

 私は思わず自分の右手を見た。

 たしかに、朝から何回か無意識に触れていたかもしれない。


「……」

「はい、確定」

「……」

「で?」

「何」

「どうだったの」

「……何が」

「手の甲キス」

 私は返す言葉がなくなった。


「……」

「栞」

「……かなり」

「かなり?」

「心臓に悪かった」

「うん」

「でも」

「うん」

「……うれしかった」

 そこまで言うと、ひまりは天井を仰いだ。

「無理。少女漫画越えてる」

「何で」

「だって、手の甲だよ?」

「……」

「しかも一条くんでしょ?」

「……」

「そりゃ引きずるわ」

 私は何も言い返せなかった。


 引きずっている。

 それはもう、かなり確かだった。


   ◇ ◇ ◇


 一時間目のあと、恒星くんが私の机のそばへ来た。


「おはよう、の続き」

「……何それ」

「今日はまだちゃんと話してないから」

 そのやわらかい言い方だけで、私はもう昨日を思い出しかける。


「……おはよう」

「うん」

 彼は少しだけ目を細める。

「今日」

「……何」

「やっぱり思い出してる」

「……」

「手の甲」

 あまりにも直球で、私は完全に固まった。


「……恒星くん」

「うん」

「朝からそれは」

「ごめん」

「全然ごめんって思ってない」

「うん」

「……」

「でも、気になったから」

 その言い方が少しだけ低くて、私はまた視線を逸らす。


「……思い出してる」

 観念して小さく言うと、恒星くんがほんの少しだけ息を止めた。


「……それ」

「……」

「かなりうれしい」

「最近そればっかり」

「本当にそうだから」

「……」

「昨日のこと、ちゃんと残ってるんだって分かるから」

 私はそれ以上何も言えなくなる。


 残っている。

 それはたしかにそうだ。

 手の甲だけじゃなくて、昨日の言葉も、表情も、ぜんぶ。


「……恒星くんのせいです」

 小さく抗議すると、彼が少しだけ笑った。

「知ってる」

「……」

「でも、嬉しいならよかった」

「……それは」

「うん?」

「……否定しないです」

 その返しに、恒星くんは本当にうれしそうに笑った。


   ◇ ◇ ◇


 昼休み。

 私はひまりに、今朝のやり取りまで全部話すことになった。


「うわ」

「だからその反応」

「いや、だって」

 ひまりはお弁当箱を持ったまま本気で楽しそうだ。

「今日ずっと思い出してる?って聞くの、かなり強い」

「……」

「で、“恒星くんのせいです”って言ったの?」

「……」

「栞」

「……言った」

 ひまりは机に突っ伏して笑った。

「もう無理」

「何で」

「それ、彼氏側からしたら最高でしょ」

「……」

「好きな彼女が、自分のキス引きずってて、そのせいで落ち着いてませんってことだよ?」

 言い換えられると余計に恥ずかしい。

 私は顔を覆いたくなった。


「……ほんとにやめて」

「でも事実」

 ひまりは少しだけやわらかく笑う。

「よかったね」

「……何が」

「触れられること、ちゃんと嬉しいって思えるようになってる」

 その言葉に、私は少しだけ黙った。


 そうだ。

 少し前までの私は、そういうもの全部に対して、まず“怖い”が先だった。

 今は違う。

 びっくりするし、心臓に悪いし、全然平気じゃない。

 でも、それと同じくらい、嬉しい。


 それはたぶん、恋人としての距離がちゃんと自分の中に入り始めているということなのだろう。


   ◇ ◇ ◇


 放課後、駅までの道を一緒に歩きながら、私は何度か右手を見そうになった。

 もちろん、何も残っていない。

 でも、見るだけで思い出してしまう。


「今日」

 恒星くんが言う。

「うん?」

「右手、何回見た?」

 私は本気で息を止めた。

「何で分かるんですか」

「見てたから」

「……」

「今日は特に、そこ気にしてるなって」

 この人は本当に、細かいところまで見すぎる。


「……恒星くん」

「何」

「昨日、ちょっとやりすぎです」

「そう?」

「そうです」

「でも」

 少しだけ目を細める。

「嫌じゃなかった」

「……」

「……それは、そうですけど」

「うん」

「だから余計に困るんです」

 そう言うと、恒星くんは少しだけ笑った。


「じゃあ」

「何」

「困るくらいには、これからもちゃんと大事にする」

「……その言い方、ずるい」

「知ってる」

 私は小さくため息をついた。

 でも、ため息の奥に少しだけ笑いも混じっていた。

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