第59話 似合わないと思うたび、あなたは似合うと言ってくれる
ホテルラウンジを出たあとも、私はまだ少しだけ落ち着かなかった。
さっきよりはずっと楽だ。
でも、完全に自然体でいられたとは言えない。
きれいな場所に自分が浮いて見える感じが、まだ胸のどこかに残っている。
「少し歩こうか」
恒星くんが言う。
「……うん」
ホテルの隣には、手入れの行き届いた小さな庭園みたいなスペースがあった。
植え込みとベンチと、静かな水音。
人も少なくて、少しだけ現実感が戻ってくる。
私はベンチに座って、小さく息を吐いた。
「疲れた?」
恒星くんが聞く。
「……少しだけ」
「ごめん」
「何で」
「緊張させた」
その言い方に、私は首を振った。
「そうじゃない」
「……」
「嫌だったわけじゃない」
「……」
「ただ」
少しだけ、言葉を探す。
「やっぱり、似合わない気がした」
その瞬間、恒星くんの表情が少しだけ変わった。
困ったような、でも、何かを決めたような顔。
「栞」
「何」
「似合わないって、誰が決めたの」
「……」
「私が」
「じゃあ、それ外して」
あまりにもまっすぐな言い方で、私は言葉を失った。
「……」
「少なくとも俺は、似合わないと思ってない」
「……」
「むしろ」
彼は少しだけ笑う。
「今日ずっと、きれいだなって思ってた」
私は反射的に視線を逸らした。
「そういうの」
「うん」
「今言うの、ずるい」
「今だから言う」
「……」
「だって、場違いだと思ってる栞に」
「……」
「ちゃんと違うよって言いたいから」
その言い方が、少しだけ切実で、私は息を止めた。
「きらびやかな場所に“似合う人”って、たしかにいるかもしれない」
「……」
「でも、俺が一緒にいたいのは栞だよ」
「……」
「今日、ここで見たかったのも、場に馴染む栞じゃなくて」
「……」
「こういう場所で少し緊張しながらも、ちゃんと隣にいてくれる栞」
私は目の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
どうしてこの人は、私がいちばん不安になるところに、いちばん欲しい言葉を置いてくるんだろう。
似合わない。
場違い。
その感覚を、そのまま否定するんじゃなくて、“それでも私だからいい”と言ってくる。
「……」
「栞」
「何」
「似合わないんじゃない」
「……」
「俺にとって意味がある」
その言葉で、私の中の何かが、少しだけほどけた。
“合っているかどうか”じゃなくて。
“意味があるかどうか”。
それはたぶん、今の私に必要な見方だった。
◇ ◇ ◇
「……泣きそう」
気づけば、そうこぼしていた。
恒星くんが少しだけ目を細める。
「泣かせたいわけじゃない」
「分かってる」
「……」
「でも」
私は小さく笑った。
「たぶん、そういうこと言われると弱い」
「……」
「ずっと、“似合うかどうか”で考えてたから」
そこまで言うと、恒星くんは少しだけ手を伸ばして、私の手を取った。
やわらかい手つなぎ。
でも、その温度が今日はやけに深く沁みる。
「じゃあ、少しずつ変えて」
「何を」
「基準」
「……」
「栞がいるから、俺には意味がある」
「……」
「そこからでいい」
私は頷くことしかできなかった。
好きだ。
やっぱり、どうしようもなく。
こういうとき、まっすぐ救ってくれるところまで含めて。
「……恒星くん」
「何」
「今日」
「うん」
「連れてきてくれてよかった」
その一言に、恒星くんの表情がふっとやわらぐ。
「うん」
「……」
「そう言ってくれて、よかった」
しばらく、静かな時間が流れた。
でも、その沈黙は気まずくない。
むしろ、少しだけあたたかい。
次の瞬間だった。
恒星くんが、つないでいた私の手をそっと持ち上げる。
「……?」
私は小さく首をかしげた。
そして、その手の甲に。
ごくやわらかく、短いキスが落ちた。
「……っ」
私は完全に息を止めた。
額じゃない。
手の甲。
でも、その動作はあまりにも自然で、あまりにもきれいで。
さっきまでのホテルラウンジよりも、ずっと心臓に悪かった。
「……恒星くん」
「うん」
「今の」
「うん」
「……反則です」
やっとそれだけ言うと、彼は少しだけ困ったように笑った。
「ごめん」
「全然ごめんって顔じゃない」
「たしかに」
「……」
「でも、今の栞に」
「うん」
「ちゃんと届く形で、好きって言いたかった」
私はもう、それ以上何も言えなかった。




