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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第58話 彼氏の世界を見に行く日、私はずっと場違いな気がしている

 その日、私は待ち合わせの十分前に駅へ着いていた。


 少し早すぎるくらいの時間だったけれど、家にいても落ち着かなかったのだから仕方がない。

 鏡の前で何度も服を直して、髪を整えて、眼鏡の位置まで確認して、それでもまだ足りない気がしていた。


 今日は、恒星くんが言っていた“彼の世界をちゃんと見せる”日だ。


 もちろん、いきなり一条家へ連れていかれるわけではない。

 そこまで直接的な話ではないと、ちゃんと先に言われていた。

 でもそれでも、今日の外出はいつものデートとは少し違う。


 少しだけ格式のある場所。

 少しだけ、私の知らない空気が流れている場所。


 そういうものを思うだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。


「……逃げない」


 小さくつぶやいて、私は改札の向こうを見た。


 恒星くんがこちらに気づいて、やわらかく笑う。

 その笑顔はいつも通りで、少しだけほっとする。


「おはよう」

「……おはよう」

「来てくれてありがとう」

「……誘われたので」

「その返し、好き」

 こういうところは相変わらずだ。

 少しだけ胸の緊張がほどける。


「今日は」

 恒星くんが歩き出しながら言う。

「そんなに身構えなくていい」

「……」

「怖いなら、怖いって途中で言って」

「……うん」

「無理に全部見せるつもりはないから」

 その言い方が、思っていたよりずっとやさしかった。


 でも、だからこそ余計に思う。

 彼は本当に、私をちゃんと自分の世界へ入れようとしているのだと。


   ◇ ◇ ◇


 連れていかれたのは、駅から少し離れた場所にあるホテルラウンジだった。


 高層ホテルの一階。

 ガラス張りの広い空間。

 落ち着いた照明。

 足音が響かない絨毯。

 低く流れるピアノの音。


 私は入口を入った瞬間、思わず呼吸を浅くした。


 きれいだ。

 すごく。

 でも、その“きれい”は、私が今まで自分から入っていく種類の場所ではない。


「……」

「大丈夫?」

 恒星くんがすぐに聞く。


「……うん」

 反射的に答えたけれど、たぶん全然大丈夫な顔ではなかったのだろう。

 彼は少しだけ近づいて、声を落とした。


「栞」

「何」

「今は、俺しか見なくていい」

 その一言で、私は少しだけ息を吐けた。


 そうだ。

 ここがどれだけ場違いに感じても、隣にいるのは恒星くんだ。

 それは変わらない。


 案内された席は窓際だった。

 景色のいいラウンジで、平日の午後だからか人も少ない。

 静かで、きれいで、どこまでも整っている。


 店員さんの物腰もやわらかくて、メニューひとつ開くのにも緊張する。


「何飲む?」

 恒星くんが自然に聞く。

「……」

「困ってる?」

「少し」

「じゃあ、紅茶系にする?」

「……うん」

「ケーキは?」

「……」

「無理に頼まなくていい」

「……でも」

「うん?」

「こういうところで頼まないのも、逆に変な気がして」

 言うと、恒星くんが少しだけ笑った。

「その感じ、分かる」

「……」

「じゃあ、半分こにする?」

 その提案に、私は少しだけ救われた。

「……うん」


   ◇ ◇ ◇


 注文を済ませてからも、私は少しだけ肩がこわばっていた。


 背筋を伸ばしすぎている気がする。

 カップを持つ手にも力が入る。

 ラウンジの客層や、店員さんの丁寧さや、全部が“場違いかもしれない”を刺激してくる。


「栞」

「……何」

「そんなに頑張らなくていい」

 恒星くんが小さく言う。

「分かる?」

「……少し」

「肩、上がってる」

「……」

「あと、カップ持つ手に力入ってる」

 そんなところまで見えてしまうのか。

 私は少しだけ恥ずかしくなって、カップをテーブルに戻した。


「……だって」

「うん」

「やっぱり、こういう場所、慣れてない」

「うん」

「恒星くんは自然だけど」

「……」

「私は、なんか」

 言葉を探して、それでも出てきたのは正直なものだった。

「場違いな気がする」

 それを聞いた恒星くんは、すぐには何も言わなかった。

 でも、困らせた顔でもなかった。


「そっか」

 少ししてから、そう言う。

「……うん」

「でも」

 彼は私をまっすぐ見る。

「俺は、栞だから連れてきた」

 その言葉に、私は一瞬だけ息を止めた。


「場に合う人を連れてきたわけじゃない」

「……」

「栞に、俺の一部を見てほしかったから」

「……」

「それに」

 少しだけ目を細める。

「こういう場所でも、栞が栞のままでいてくれる方が、俺はうれしい」

 私は何も言えなくなった。


 場に合う人。

 そういう基準で考えていたのは、たしかに私の方だった。

 でも彼は、そうじゃない。

 “私だから”連れてきたと言う。


 その言葉が、思っていた以上に深く胸に落ちた。


   ◇ ◇ ◇


 ケーキが運ばれてきて、私たちは半分ずつ取り分けた。

 何でもない動作なのに、ここでは少しだけ特別に見える。


「おいしい?」

 恒星くんが聞く。

「……うん」

「よかった」

「……」

「ちょっとだけ、顔が戻った」

「……戻ったって」

「さっきまで、かなり頑張ってたから」

 私は少しだけ笑ってしまった。


「……ばれてる」

「全部は無理でも、ある程度は」

「……」

「栞が無理してるとき、やっぱり分かる」

 その言い方に、私はまた少しだけ救われる。


 完璧に馴染めなくてもいいのかもしれない。

 少し緊張していても。

 少し場違いに感じていても。

 それを分かったうえで、ここにいていいと言われているのだから。


 でも同時に、そう言われれば言われるほど、余計にちゃんと隣にいたいと思ってしまう自分もいた。

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