第57話 “遠い人”に戻りそうで、怖くなっただけでした
昨日の帰り道のあと、私は少しだけ眠りやすかった。
不安が消えたわけじゃない。
でも、“遠い人に戻るつもりはない”と、あんなにまっすぐ言われたことが、胸のどこかに静かに残っていたからだと思う。
それは未来の保証ではない。
きっと、そう簡単な話ではないのだろう。
でも、少なくとも今、彼がどういう気持ちで私の隣にいるのかは、ちゃんと伝わった。
私はそれだけで少しだけ救われていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、教室へ入ると、ひまりがすぐにこちらを見た。
「おはよ」
「……おはよう」
「昨日より顔が戻ってる」
「何その言い方」
「“ちゃんと話せた後の顔”ってこと」
私は少しだけ笑ってしまった。
「……うん、話せた」
「どうだった」
「……」
「栞」
「遠い人に戻るつもりはない、って」
そこまで言うと、ひまりは一瞬だけ目を見開いて、それからにやっとした。
「強」
「……」
「それ、かなり効いたでしょ」
「……うん」
「だよね」
ひまりは頬杖をついたまま、小さく息を吐く。
「やっぱり、本人に聞くのが一番早い」
「……」
「勝手に脳内会議で悪い方へ行く前に、ちゃんと聞く」
その通りだった。
私はまた、自分で勝手に距離を広げかけていたのだと思う。
「でも」
私は小さく言う。
「たぶん、また怖くなる」
「うん」
「別のことで」
「うん」
「それでも、前よりは」
「うん?」
「言える気がする」
ひまりは少しだけやわらかく笑った。
「いい傾向」
「何その先生みたいな」
「いやでも本当に」
彼女はジュースのパックを持ち直す。
「栞、恋愛下手だったのが、ちょっとずつちゃんと恋人になってきた」
「……」
「それ、かなりすごいことだからね」
私は少しだけ目を伏せた。
すごい、なんて思ったことはなかったけれど、ひまりにそう言われると、少しだけ前へ進めている気もした。
◇ ◇ ◇
朝のホームルーム前。
恒星くんが教室に入ってくる。
目が合った瞬間、昨日までより少しだけやわらかく笑えた気がした。
向こうもそれに気づいたのか、目元がふっとほどける。
「おはよう」
「……おはよう」
「今日、顔が違う」
「……」
「少しだけ、安心した顔」
私は小さく息を吐いて、ほんの少しだけ笑う。
「……そうかも」
「よかった」
その“よかった”が、今日の私にはすとんと落ちた。
変わらないものもある。
でも、昨日ちゃんと話したことで変わったものも、たしかにある。
そう思えた。
◇ ◇ ◇
一時間目のあと、廊下へ出ると、恒星くんがすぐ隣まで来た。
でも、学校の中だから、距離はちゃんと少しだけ控えめだ。
「栞」
「何」
「昨日の続き、ひとつだけ」
「……うん」
「次は」
「次?」
「俺の世界、ちゃんと見せる」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
「……見せる?」
「うん」
「びっくりさせる形じゃなくて」
「……」
「ちゃんと、栞が怖くならないように」
「……」
「俺の方から」
私はすぐには答えられなかった。
それはたぶん、やさしい提案だ。
でも同時に、少しだけ新しい緊張も呼び起こす。
彼の世界を、ちゃんと見る。
それはきっと、昨日の車みたいな一瞬の断片より、もっと現実味がある。
「……怖い?」
恒星くんが静かに聞く。
私は少し迷ってから、正直に答えた。
「……少し」
「うん」
「でも」
私は視線を上げる。
「勝手に遠いって思うよりは、ちゃんと見た方がいい気もする」
その返事に、恒星くんがやわらかく笑った。
「うん」
「……」
「そう言ってくれてうれしい」
「またそれ」
「本当にそうだから」
私は少しだけ苦笑した。
でも、今日はその“うれしい”が前よりやわらかく受け取れた。
◇ ◇ ◇
昼休み、私はひまりにその話をした。
「へえ」
「……」
「“俺の世界、ちゃんと見せる”」
「……うん」
「強いね」
「そうかな」
「うん」
ひまりはかなり真面目な顔で頷く。
「逃げないってことじゃん」
「……」
「自分の家のことも、背景も、全部ひっくるめて見せるって」
私は少しだけ黙った。
たしかにそうだ。
見せたくないなら、もっと軽く流すこともできたはずだ。
でも恒星くんは、昨日の私の不安を受けて、“じゃあちゃんと見せる”と言った。
それは、彼なりの誠実さなのかもしれない。
「……どうしよう」
私は小さくつぶやく。
「何が」
「ちょっと怖い」
「うん」
「でも」
「うん」
「少しだけ、見たいとも思う」
ひまりはにやっとした。
「それでいいじゃん」
「そんな簡単に」
「簡単じゃないけど」
彼女は肩をすくめる。
「好きな人の世界、見たいと思うの普通」
「……」
「怖いのも普通」
その“普通”が、今はありがたかった。
◇ ◇ ◇
放課後。
いつもの帰り道は、昨日までよりほんの少しだけ空気が軽かった。
深刻な話をした翌日なのに、不思議だった。
でもたぶん、ちゃんと言葉を交わしたぶん、余計な誤解や脳内の悪い想像が減ったのだろう。
駅前のベンチに座ると、恒星くんが小さく言った。
「栞」
「何」
「昨日、ちゃんと言えてよかった」
「……うん」
「俺も」
少しだけ目を細める。
「遠い人に戻るつもりなんて、ほんとにないから」
私はその言葉に、小さく息を吸った。
昨日も聞いた。
でも、今日聞くと、また少し違う。
繰り返し言ってもらえることが、少しずつ安心になる。
「……じゃあ」
私は小さく言う。
「私も、すぐに遠いって決めつけないようにする」
恒星くんがこちらを見る。
「うん」
「怖くなっても」
「うん」
「ちゃんと、まずは聞く」
「……」
「その方が、きっといいから」
そう言うと、恒星くんはほんとうにやわらかく笑った。
「それ、すごくうれしい」
「またそれ」
「今日は何回でも言うかも」
私は少しだけ笑ってしまう。
遠い人に戻りそうで、怖くなっただけでした。
それが今の私の正直な結論だった。
でも、戻らないとちゃんと知れたことも、今の私には大きい。
好きだからこそ揺れる。
でも、その揺れを二人で越えていけるなら、たぶん私は前より少し強くなれる。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の窓に映る自分は、昨日より少しだけやわらかい顔をしていた。
恋人になるって、たぶん、ただ甘いだけじゃない。
こうして何度も、“好き”の外側にある怖さと向き合うことでもある。
でも、好きだから、逃げたくない。
そう思えることが、何より大事なのかもしれなかった。




