第56話 好きだからこそ、あなたの特別さが少し怖い
翌朝、私はいつもより少しだけ眠りが浅かった。
何度も目が覚めたわけではない。
でも、頭の奥がずっと落ち着かなかった。
好きだからこそ、あなたの特別さが少し怖い。
その感情を、昨夜から何度も反芻している。
恒星くん自身が怖いわけじゃない。
むしろ逆だ。
彼は変わらずやさしい。
びっくりするくらい、いつも私の気持ちを見ようとする。
でも、その彼が当たり前の顔で立っていた世界が、私には少しだけ眩しすぎた。
そこへ入っていく自分を想像したとき、胸がぎゅっと苦しくなる。
「……だめだな」
制服に着替えながら、小さくつぶやく。
昨日の私は、あの場でちゃんと“びっくりした”としか言えなかった。
本当はもっと、いろんなものが混ざっていたのに。
怖い。
遠い。
場違いかもしれない。
そんなことを感じてしまう自分も、少しだけ嫌だった。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、ひまりはすぐに私の顔を見た。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日、だいぶ沈んでる」
「……そう?」
「そう」
彼女は前の席に座って、すぐに声を落とした。
「昨日の続き?」
私は小さく頷いた。
「……まだ引きずってる」
「うん」
「車?」
「……うん」
「そっか」
ひまりはすぐには何も言わなかった。
軽口を挟まず、ただ待ってくれる。
その沈黙がありがたくて、私は少しだけ本音を出しやすくなる。
「……私」
「うん」
「好きでいたいのに」
「うん」
「急に、“やっぱり住む世界違うんだな”って思っちゃって」
「……」
「その瞬間、ちょっとだけ」
「うん」
「遠い人に戻った感じがした」
言ってしまった瞬間、自分でもその言葉の痛さに少しだけ息が詰まった。
遠い人。
それは、恋人になる前の彼の位置だ。
憧れていて、近づけなくて、でも目で追ってしまう人。
今はそんな距離じゃないはずなのに、昨日の一瞬で、少しだけその頃の感覚が戻ってきてしまった。
「……」
「ひまり?」
「うん」
「私、やっぱり弱いのかな」
そう聞くと、ひまりは少しだけ眉を上げた。
「弱いんじゃなくて」
「……」
「好きだから揺れるだけ」
「……」
「ていうか、それ見て何も感じない方が不自然でしょ」
その言い方が、少しだけ乱暴で、でも救いになった。
何も感じない方が不自然。
たしかに、そうかもしれない。
私は彼のことが好きで、ちゃんと隣にいたいと思っている。
だからこそ、その背景まで現実味を持った瞬間に、簡単には平気でいられなかったのだ。
「でも」
ひまりが続ける。
「そこで勝手に“やっぱ無理”まで行くのはだめ」
「……」
「話して」
「……」
「ちゃんと本人に」
私は少しだけ目を伏せた。
それが正しいのは、分かる。
分かるけれど、どう切り出せばいいのか分からない。
◇ ◇ ◇
午前中、私は意識して恒星くんを見ないようにしていた。
見ればたぶん、すぐに顔に出る。
しかも今日は、甘い意味じゃなく、少しだけ固い方に。
でも、その“見ないようにしている”こと自体が、たぶんかなり分かりやすかったのだろう。
三時間目のあと、廊下へ出たとき、恒星くんが私の前で足を止めた。
「栞」
「……何」
「今日、ちょっと遠い」
直球だった。
私は思わず視線を逸らす。
「そんなことない」
「あるよ」
「……」
「昨日から」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
やっぱり気づかれている。
「俺」
恒星くんが静かに続ける。
「昨日のこと、ちゃんと話したい」
「……」
「栞が変にひとりで抱える前に」
その言い方があまりにも恒星くんらしくて、胸の奥が少しだけ痛くなる。
やさしい。
でも、今日の私はそのやさしさにすぐには寄りかかれない。
「……放課後」
私はようやく言う。
「うん」
「そのとき」
「分かった」
彼はそれ以上追わなかった。
でも、すぐに離れるわけでもなく、一瞬だけ私を見てから小さく頷いた。
「待ってる」
その一言だけで、胸が少しだけきゅっとなる。
逃げたいんじゃない。
ただ、うまく言葉にする準備がまだ足りないだけなのだ。
◇ ◇ ◇
昼休み。
私はひまりと一緒に中庭のベンチに座っていた。
「呼ばれた」
私が小さく言うと、ひまりはすぐに察した。
「放課後?」
「うん」
「ちゃんと話したいって?」
「うん」
ひまりは小さく頷く。
「まあ、そうなるよね」
「……」
「で、どうする」
「話す」
「うん」
「怖いけど」
「うん」
「逃げたくはない」
そこまで言うと、ひまりは少しだけやわらかく笑った。
「それでいいと思う」
「……」
「栞、今すごいちゃんとしてるよ」
「何それ」
「前ならもう少し一人で抱えて、自滅コースだった」
「……」
「でも今は、怖いままでもちゃんと向き合おうとしてる」
私は小さく息を吐いた。
たしかに、そうかもしれない。
逃げていない。
ただ苦しいだけじゃなく、ちゃんと話そうとしている。
それはたぶん、恋人になった今の私の変化なのだ。
◇ ◇ ◇
放課後。
私は教室に残るひまりへ小さく手を振ってから、廊下へ出た。
心臓がうるさい。
でも、もう決めている。
言う。
ちゃんと、あの車を見て何を思ったのか。
校舎裏の、いつものベンチ。
恒星くんはすでに来ていた。
私に気づくと、少しだけ表情をやわらげる。
でも、その奥にはちゃんと緊張も見える。
「来てくれてありがとう」
「……うん」
「座る?」
「……うん」
ベンチに座る。
少しだけ間を空けて。
その距離が、今の私にはちょうどよかった。
「栞」
「何」
「昨日のこと」
「……うん」
「車?」
私は小さく頷いた。
「……あれ見たとき」
「うん」
「すごく、現実になった感じがした」
「……」
「恒星くんが、ほんとにそういう家の人なんだって」
「……」
「それで」
私は息を吸う。
「ちょっとだけ、遠くなった感じがした」
その言葉を聞いた瞬間、恒星くんの表情が、ほんの少しだけ痛そうに揺れた。
でも、私は続けた。
「好きじゃなくなったとかじゃない」
「……」
「むしろ逆」
「……」
「好きだから」
「……」
「遠く感じるのが怖かった」
言い終わるころには、少しだけ喉が熱かった。
泣きたいわけじゃない。
でも、胸の中のものを出すのは、やっぱり少し痛い。
恒星くんはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり言った。
「……そっか」
「うん」
「それ、言ってくれてありがとう」
「……」
「気づかないままだったら、たぶん俺、普通にまたああいうの見せてた」
私は少しだけ目を上げた。
その顔は、やさしいだけじゃなく、少しだけ真剣だった。
「俺にとっては当たり前でも」
「……」
「栞にはそうじゃない」
「……うん」
「そこ、ちゃんと覚える」
その言葉に、私は少しだけ胸の奥がゆるむ。
分かってほしかったのは、たぶんそこなのだ。
責めたいんじゃない。
ただ、同じ景色に立ったときの私の揺れを知ってほしかった。
「……でも」
恒星くんが少しだけ声を落とす。
「遠い人に戻るつもりはない」
私は思わず顔を上げた。
「……」
「車が来ても」
「……」
「家がどうでも」
「……」
「俺が栞から離れる側になることはない」
その言葉が、あまりにもまっすぐで、私は一瞬だけ息を止めた。
遠い人に戻るつもりはない。
それは、今の私にとって何よりほしい言葉だった。
「……恒星くん」
「うん」
「それ、ずるい」
「知ってる」
「……」
「でも本気」
私は何も言えなくなった。
その本気が分かるからだ。
軽く励ましているわけじゃない。
自分の意思としてそう言っている。
だから、少しだけ、信じたくなる。




