第55話 彼氏の家の車が迎えに来るだけで、恋の難易度が跳ね上がる
その日の放課後、私はたまたま委員会の片づけで遅くなっていた。
教室のゴミを分別して、プリントをまとめて、最後に先生へ提出して。
いつもならもっと早く終わるのに、その日に限って細々した用事が重なった。
「ごめん、朝比奈さん、これも職員室に」
「……はい」
そう返しながら、私は少しだけ時計を見る。
恒星くんには、今日は少し遅くなるかもしれないと一応メッセージを送ってある。
でも、たぶん待っている。
そう思うと少しだけ急ぎたくなる。
職員室から出てきたころには、もう校舎の廊下に夕方の色が落ちていた。
私は鞄を持ち直して、小走りに昇降口へ向かう。
でも、靴を履き替えて外に出た瞬間、足が止まった。
校門の少し手前。
ちょうど車寄せのあたりに、黒い車が停まっていた。
つやのある、長めの車体。
無駄のない静かな存在感。
テレビや映画でしか見たことのないような、いかにも“そういう車”。
そして、その横に、恒星くんが立っていた。
「……」
私は思わず息を止める。
見たことのない光景ではない、のかもしれない。
でも、私にとっては初めての“現実”だった。
黒塗りの車。
制服姿の彼。
運転席の前に立つ、きちんとしたスーツ姿の男性。
それが、あまりにも自然に成立している。
その瞬間、昨日まで“考えすぎ”と思おうとしていたものが、一気に現実味を持った。
一条恒星は、こういう世界の人なのだ。
ただ好きな男の子。
ただ恋人。
それだけではくくれない背景が、ちゃんとそこにある。
「栞」
私に気づいた恒星くんが、すぐに表情をやわらげた。
そのやわらぎ方はいつもの彼だ。
でも、その背後の車が、今日の私にはどうしても大きすぎた。
「……お疲れさま」
「うん。お疲れさま」
「……待ってたんですか」
「途中まで」
恒星くんが少しだけ苦笑する。
「今日は迎えが来る日だったから」
その言い方もまた自然すぎて、私はうまく返せなかった。
スーツ姿の男性が、こちらへ軽く会釈する。
「お迎えに参りました、恒星さま」
その声は落ち着いていて、余計なものがひとつもなかった。
恒星さま。
その呼び方だけで、胸の奥が少しひやりとする。
「……」
「栞?」
恒星くんが小さく呼ぶ。
私は慌てて瞬きをした。
「……何」
「顔、固い」
「……」
「びっくりした?」
私は少しだけ迷って、それでも頷いた。
「……うん」
嘘はつけなかった。
黒塗りの車を前にして、平気な顔なんてできない。
むしろ、これで平気だったら、自分でも少し怖い。
「乗ってく?」
恒星くんがごく自然に言う。
「送れる」
その一言で、私は余計に混乱した。
乗ってく?
それを、こんなにも当たり前みたいに言うのか。
私にはそれが、あまりにも遠いものだった。
「……いや」
私は小さく首を振る。
「大丈夫」
「遠慮しなくていいのに」
「……」
「栞?」
「……今日は、電車で帰る」
そう答えると、恒星くんは少しだけ黙った。
たぶん、私の戸惑いを感じ取ったのだろう。
「そっか」
やわらかく言う。
「無理しなくていい」
その言葉がやさしいのに、私はどうしてか少しだけ胸が苦しくなった。
無理しなくていい。
それはきっと本気の気遣いだ。
でも、その言葉の裏にある“私には当たり前でも、栞にはそうじゃないかもしれない”という前提が、今日の私にはあまりにも鮮明だった。
「じゃあ」
恒星くんが小さく言う。
「また連絡する」
「……うん」
「気をつけて」
私は頷いて、その場を離れた。
背中に車のドアが閉まる音がして、胸の奥が少しだけ重くなる。
振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん余計に現実になってしまう気がしたから。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私はスマホを何度も見ていた。
恒星くんからは、すぐにメッセージが来た。
『さっき、ごめん。急にびっくりさせたよね』
『嫌な感じだったらほんとにごめん』
その文字は、いつもの恒星くんだった。
やさしくて、気づいてくれていて、私の顔の変化をちゃんと拾ってくれている。
でも、私はすぐに返信できなかった。
何て返せばいいのか、分からなかったのだ。
嫌な感じだったわけじゃない。
ただ、現実だった。
彼の家の現実。
私とは違う世界が、ちゃんと存在しているという現実。
『大丈夫』
それだけ打って、少し止まる。
でも、それでは足りない気もする。
かといって、今の気持ちを全部そのまま文字にするのも違う気がした。
『ちょっとびっくりしただけ』
結局、それだけ送った。
恒星くんからはすぐに返信が来た。
『そっか。帰ったらまた話そうか』
やさしい。
やさしいのに、そのやさしさが今は少しだけ痛い。
私はスマホを閉じて、窓の外を見た。
流れていく夕景が、少しだけ遠く感じる。
◇ ◇ ◇
その夜。
私はベッドの上でスマホを握ったまま、なかなか返信ができずにいた。
恒星くんからは、寝る前に短いメッセージが届いていた。
『今日はびっくりさせてごめん』
『また、ちゃんと話したい』
それに、私はすぐ返せなかった。
話したい。
私もそう思う。
でも、その前に自分の中で少し整理したかった。
黒塗りの車。
恒星さま、という呼び方。
そして、ごく自然にその中へ戻っていく彼。
私はたぶん、今日初めて“彼の家の現実”を真正面から見たのだと思う。
好きとか、恋人とか、そういう甘い言葉の外側にある、ちゃんとした現実を。
「……やっぱり、遠い」
小さくつぶやく。
でも、その“遠い”は、好きじゃなくなったという意味ではない。
むしろ逆だ。
好きだからこそ、その遠さが怖い。
私は結局、その夜の返信を少しだけ遅らせた。
ほんの数十分。
でも、私たちの最近のやり取りの温度からすると、それは十分に“少し遅い”に入る時間だった。
送ったのは、短い言葉だけ。
『うん。またちゃんと話したい』
それだけで精一杯だった。




