第54話 あなたの世界に、私はちゃんと入っていけますか
恒星くんの家の名前が、学校のプリントに当たり前みたいに載っている。
たったそれだけのことなのに、その一行は私の中にずっと引っかかったままだった。
今までだって、分かっていたはずなのだ。
彼が特別な家の人だということくらい。
学校内で浮くくらい整っていて、育ちのよさがにじんでいて、それでも嫌味じゃないくらい自然で。
そういう全部が、もともと“普通の男子高校生”とは少し違っていた。
でも、私はそれをずっと“恒星くんの一部”として受け取ってきた。
彼自身の輪郭の中の、少し遠い色みたいなものとして。
けれど最近、それが“彼の背景”として少しずつ現実味を帯び始めている。
家柄。
世界。
私の知らない人間関係。
そして、たぶんこれから先も簡単には消えない外側の事情。
そういうものを思うたび、胸の奥が少し冷たくなる。
「……私でいいのかな」
帰り道、駅のホームでそうつぶやいてしまってから、私は慌てて唇を閉じた。
誰かに聞かれたわけじゃない。
でも、その言葉を自分の口から出した瞬間、思っていた以上に重く響いてしまった。
私でいいのかな。
今だけじゃなく、この先も。
恋人として、ちゃんと隣に立っていていいのかな。
その問いには、まだ答えがなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、私はいつもより少しだけ無口だった。
母には「今日は静かね」と言われたし、父には「考え事か?」と聞かれた。
どちらにも適当にごまかしたけれど、たぶん表情に出ていたのだと思う。
教室に入ると、ひまりがすぐに顔を上げた。
「おはよ」
「……おはよう」
「まだ引きずってる」
「何を」
「一条家の現実味」
私は返す言葉を失った。
「そんなに分かりやすい?」
「分かるよ」
ひまりは前の席に座って、少しだけ真面目な顔になる。
「昨日より、ちょっと深いとこで悩んでる顔してる」
私は鞄を机に置いて、小さく息をついた。
「……ねえ」
「何」
「もし」
「うん」
「すごく好きでも」
「うん」
「世界が違いすぎたら、だめになることってあるのかな」
ひまりはすぐには答えなかった。
少しだけ考えて、それから言う。
「あるかないかで言えば、あるんじゃない?」
「……」
「でも」
彼女は私を見る。
「今の栞が背負う話ではないとも思う」
「……」
「だってまだ高校生だし、今は“好きで一緒にいたい”の段階でしょ」
「……うん」
「なのに、急に将来の家の釣り合いまで全部抱えたら、そりゃ重いよ」
私は机の端を指でなぞった。
たしかにそうだ。
私はまだ、何か現実の壁が目の前にあるわけでもない。
なのに、自分から先回りして怖がっている。
「でもさ」
ひまりが続ける。
「先回りして勝手に苦しくなるの、栞の悪い癖」
「……」
「気になるなら、本人に聞けばいいじゃん」
「まだ、そこまでじゃない」
「じゃあ、今は“怖い”って自覚しておけば十分」
その言い方は雑みたいで、でも少しだけ救いがあった。
全部に答えを出さなくてもいい。
今はただ、自分が少し怖いと思っていることを認めるだけでもいいのかもしれない。
◇ ◇ ◇
午前中、恒星くんはいつも通りだった。
朝の挨拶。
廊下ですれ違うときのやわらかい目。
授業の合間にちらりと向けられる視線。
そのどれもが前と変わらないのに、今日の私はそこへ素直に手を伸ばしきれなかった。
好きだ。
ちゃんと好きだ。
でも、その好きの向こう側に急に広い世界が見えてしまって、少しだけ足が止まる。
一時間目の終わり、ノートを閉じたところで、恒星くんが教室の後ろから私を見ていた。
目が合う。
彼は少しだけ首をかしげる。
たぶん、“今日少し違う”と気づいている。
私は小さく笑ってみせた。
でも、それがきっといつもより薄い笑いだったことも、自分で分かった。
◇ ◇ ◇
昼休み、私は珍しくひとりで図書室へ逃げ込んだ。
逃げ込む、という表現がいちばん近い。
本の匂いのする静かな空間にいると、少しだけ呼吸がしやすい。
机に肘をついて窓の外を見ながら、私はぼんやり考えていた。
好きでいることは、こんなにも自然なのに。
どうして、その先のことを少し想像しただけで、急に怖くなるんだろう。
恒星くんの家。
私の家。
彼が当たり前だと思っている世界と、私が当たり前だと思っている世界。
その違いを、私はまだ“恋の外側のもの”としてうまく切り離せない。
「栞」
不意に名前を呼ばれて、私は小さく肩を揺らした。
振り返ると、恒星くんが立っていた。
「……どうしてここ」
「探した」
「……」
「今日はちょっと、いなくなる回数多い」
その言い方が責めるのではなく、ただ心配している響きで、私は少しだけ目を伏せた。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
彼は私の向かいの席に座った。
図書室だから、いつもよりさらに声は低い。
「何考えてる?」
私は少し迷った。
でも、ここで何でもないとごまかしても、たぶん今日は余計にこじれる。
「……恒星くんの世界」
そう言うと、彼は一瞬だけ黙った。
「世界?」
「うん」
「……」
「家のこととか」
「……」
「私の知らないところ」
そこまで言うと、恒星くんはゆっくり息を吐いた。
「そっか」
「……」
「昨日の続きだね」
「うん」
図書室の静けさの中、その会話は不思議なくらいまっすぐだった。
「栞」
恒星くんが言う。
「怖い?」
「……」
「少し」
「うん」
「ちゃんと、入っていけるのかなって思う」
それを口にした瞬間、喉の奥が少しだけ詰まった。
“好き”よりもずっと重い問いだ。
でも、今の私の中にはたしかにそれがあった。
恒星くんはしばらく何も言わなかった。
それから、静かに言う。
「今すぐ、全部考えなくていい」
「……」
「でも」
少しだけ目を細める。
「その不安は、俺の知らないところで育てないで」
私は顔を上げた。
「……」
「ひとりで“やっぱり無理かも”まで行かないで」
「……」
「その前に、ちゃんと俺にも見せて」
その言葉が、思っていた以上にやさしく、でもまっすぐに刺さった。
ああ、と思う。
私はまた、少し先回りしすぎていたのかもしれない。
現実が怖い。
でも、その怖さを全部自分の中だけで結論にしようとしていた。
「……うん」
小さく頷くと、恒星くんは少しだけやわらいだ。
「それでいい」
「……」
「今の栞は、未来全部背負おうとしすぎ」
その言い方が、ひまりと少し似ていて、私は少しだけ笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
放課後、いつもの帰り道。
今日は昨日までより少しだけ会話が少なかった。
でも、その少なさは気まずさではない。
お互いに考えたことを静かに持ったまま歩いている感じだった。
駅前のベンチに座ると、私は小さく息を吐く。
夕方の風が少しだけ冷たい。
「ねえ」
私が言う。
「何」
「私、たぶん」
「うん」
「未来まで考えすぎてた」
恒星くんは少しだけ目を細めた。
「うん」
「でも」
「うん」
「考えちゃうくらいには、ちゃんと好きなんだと思う」
そこまで言うと、彼はふっと笑った。
やわらかく。
ちょっとだけ困ったみたいに。
「それ、嬉しい」
「またそれ」
「だって本当に」
私は小さく肩をすくめた。
でも、その“嬉しい”が今日は少しだけ私を楽にした。
不安になることが、全部悪いわけじゃない。
それは、ちゃんと大事に思っているからでもあるのだと、少しだけ受け入れられた気がした。
「……じゃあ」
私は言う。
「今は、全部の答えを出さなくていい」
「うん」
「でも、勝手に諦めるのもしない」
恒星くんはまっすぐ私を見る。
「うん」
「その中間くらいで、いたい」
その言葉に、彼はゆっくり頷いた。
「それが一番いい」
「……」
「栞が、ちゃんと考えながら隣にいてくれるなら、それでいい」
その言い方に、胸の奥が少しだけやわらかくなる。
“ちゃんと分かるまで入れない”じゃなくて。
“分からないままでも、考えながら隣にいる”でいいのかもしれない。
そう思えたことが、今日の私には大きかった。




