第53話 恋人の家柄を、私はまだ“現実”として知らない
恋人になってから、私は少しずつ“恒星くんのことを知っている”と思うようになっていた。
好きな飲み物。
笑うとき、少しだけ目元がやわらぐこと。
私が無理していると、思っているより早く気づくこと。
独占欲を隠しきれないとき、声がほんの少し低くなること。
そういう、二人のあいだのことは、前よりずっと知っている。
でも、それとは別に。
私はまだ、彼の“外側の世界”をほとんど知らなかった。
分かっているつもりだったのだ。
財閥の御曹司で、家が特別で、きっと私とは違う景色の中で育ってきた人なのだと。
でも、それはずっと、物語の設定みたいなものだった。
現実として、まだちゃんと重さを持っていなかった。
その重さが、少しずつ、でも確実に輪郭を持ち始めたのは、この日のことだった。
◇ ◇ ◇
朝のホームルームで、担任が何枚かのプリントを配りながら言った。
「来月、系列校合同のキャリア講演会がある。外部から企業の人も来るから、希望者は申込書を出しておけ」
教室の空気が少しだけざわつく。
進路とか就職とか、そういう現実味のある話題は、なんとなくみんなを少しだけ大人しくさせる。
私は配られたプリントを受け取りながら、ぼんやり講演会の案内欄を見ていた。
そこにはスポンサー企業や協力団体の名前がずらっと並んでいる。
その中のひとつに、見覚えのある名前があった。
一条グループ。
私の指先が、ほんの少しだけ止まる。
もちろん、別に驚くことじゃないのかもしれない。
恒星くんの家の名前なのだから、学校行事に関わっていても不思議じゃない。
でも、“知っている人の家の名前がこういうところに普通に載っている”という事実が、急にずしっと胸に落ちてきた。
「すご」
後ろの席の男子が小さくつぶやく。
「一条グループって、ここも噛んでんのか」
「そりゃ系列校だしな」
「いやでも、改めて見ると規模でかいな」
そんな会話が、何気なく耳に入ってくる。
私は視線をプリントから上げられなかった。
規模がでかい。
そうだ。
私はそれを“知っていた”はずなのに、ちゃんと感じたことがなかった。
「……」
胸の奥が少しだけ、ざわつく。
そのとき、斜め向こうの席から視線を感じた。
顔を上げると、恒星くんと目が合う。
彼は、ほんの少しだけ首をかしげた。
たぶん、私の顔が少し変わったのだろう。
でも今は、それに笑い返す余裕がなかった。
◇ ◇ ◇
一時間目の休み時間。
ひまりは私の机に頬杖をついて、すぐに聞いてきた。
「何か気にしてる」
「……」
「一条くん関係」
「……」
「図星」
私はため息をついて、プリントを指でなぞった。
「これ」
「講演会?」
「うん」
「何かあった?」
「……名前」
「一条グループ?」
ひまりがあっさり言い当てる。
私は小さく頷いた。
「今さらなんだけど」
「うん」
「こういうのに、普通にあるんだなって」
「……」
「知ってたはずなのに」
「うん」
「急に、現実っぽくなった」
ひまりは少しだけ黙った。
ふざけた顔をせず、ちゃんと聞いてくれている。
「そっか」
「……」
「学校では普通に一緒にいるから、忘れがちだった?」
「……うん」
私は小さく答える。
「名前呼んで」
「うん」
「一緒に帰って」
「うん」
「そういうことしてると」
「うん」
「恒星くんが特別な家の人だってこと、時々ちょっと薄くなる」
「……」
「でも、こういうの見ると」
「うん」
「やっぱり、遠い世界の人なんだって思う」
そこまで言うと、ひまりはジュースのパックをくるくる回しながら、小さく息を吐いた。
「それ、たぶん普通にくるやつだね」
「……」
「むしろ今まで現実味なかった方が不思議かも」
「……」
「でもさ」
ひまりがこちらを見る。
「それで“だからやめよう”ってなるんじゃなくて」
「……」
「“ちゃんと怖い”って思えるだけ、今の栞は前進してるよ」
私は少しだけ目を伏せた。
前の私なら、そこで引いていたかもしれない。
“やっぱり無理だ”と、自分から距離を置いたかもしれない。
でも今は違う。
怖い。
でも、だからすぐ諦めたいわけではない。
そこが、たぶん少しだけ変わったところなのだと思う。
◇ ◇ ◇
二時間目が終わったあと、廊下に出ると、恒星くんが待っていた。
「栞」
「……何」
「今、少し話せる?」
「……うん」
人の流れから少し外れた窓際まで歩く。
恒星くんは私の顔を見て、静かに聞いた。
「朝から、ちょっと違う」
「……」
「何かあった?」
私は少し迷った。
でも、ここで隠しても、たぶん彼には分かる。
それに、今までみたいに“私ひとりで勝手に飲み込む”のも違う気がした。
「……講演会のプリント」
「うん」
「見た」
「……うん」
「一条グループ、普通に載ってた」
そこまで言うと、恒星くんの表情が、ほんの少しだけ静かになる。
たぶん、すぐに分かったのだろう。
私が何に揺れたのか。
「……そっか」
「うん」
「今さらみたいで変だけど」
「変じゃない」
「……」
「そう思うの、自然だよ」
その返しが予想よりずっとやさしくて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「私」
「うん」
「知ってたはずなのに」
「うん」
「こうやって目の前に出されると」
「……」
「やっぱり、恒星くんって普通の人じゃないんだなって思う」
言ってから、自分で少しだけ苦しくなる。
普通じゃない、なんて。
好きな人に向かって言いたい言葉じゃない。
でも、今の私にはそれがいちばん近かった。
「……栞」
恒星くんが静かに名前を呼ぶ。
「俺は、栞の前では普通でいたいと思ってる」
「……」
「でも」
少しだけ目を伏せる。
「家とか、周りのことまで全部消せるわけじゃない」
私は何も言えなかった。
そうだ。
消せるわけじゃない。
彼がどこの誰なのかも、その家がどれだけ大きいのかも、好きになったからってなくなるわけではない。
「……怖い?」
恒星くんが聞く。
その問いに、私は少しだけ黙ったあと、小さく頷いた。
「……少し」
「うん」
「今はまだ、何がどうってわけじゃない」
「うん」
「でも」
私はプリントの端を思い出す。
「私の知らない世界が、ちゃんとあるんだなって」
「……」
「それが、少しだけ」
「うん」
「現実になった感じ」
恒星くんはしばらく何も言わなかった。
でも、それは気まずい沈黙じゃない。
ちゃんと聞いてくれている沈黙だ。
「……ありがとう」
やがて彼が言う。
「何が」
「今、それ言ってくれて」
「……」
「気づけてよかった」
私は少しだけ目を見開いた。
「気づく?」
「栞が、そういうところで不安になるかもしれないって」
その言葉に、私は胸の奥が少しだけ熱くなる。
ああ、と思う。
この人は、たぶんこういうところでも同じなのだ。
私が何に揺れるかを知りたい。
そして、できるならちゃんと受け止めたいと思ってくれている。
「……まだ」
私は小さく言う。
「答えが欲しいとかじゃない」
「うん」
「ただ、ちょっとだけ怖かった」
「うん」
「それだけ」
恒星くんは、ほんの少しだけやわらかく笑った。
「じゃあ、それだけ覚えておく」
「……」
「栞がそういうことで怖くなるって」
私はその言葉に、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひまりにその話をしたら、彼女は少しだけ真面目な顔になった。
「そっか」
「……」
「それ、たぶんこの先何回か来るよ」
「……やっぱり?」
「うん」
「だって、一条くんの家のことって、付き合ったからって急に消える問題じゃないし」
「……」
「でも」
ひまりは私を見る。
「今の栞、ちゃんと怖がれてるだけえらいよ」
「何で」
「前なら“やっぱ無理”で終わってたから」
それは、私自身も少し思っていたことだった。
私は前より、ちゃんと残ろうとしている。
怖いと思っても、その場にいたまま考えようとしている。
それはたぶん、恋人になった今の私の、いちばん大きな変化だ。
◇ ◇ ◇
放課後。
今日の空気は、いつもより少しだけ静かだった。
甘くないわけじゃない。
でも、昨日までみたいな軽いふわふわではなく、もう少し深いところに触れている感じがする。
駅までの道を並んで歩きながら、恒星くんがふいに言った。
「栞」
「何」
「今日、ちゃんと話せてよかった」
「……うん」
「俺、たぶん」
「……」
「栞が思ってるより、自分のこと普通だと思ってたかも」
その言葉に、私は少しだけ顔を上げた。
「……」
「でも、栞が不安になるなら」
「……」
「それはもう、ちゃんと現実なんだって分かった」
私はその言い方に、少しだけ胸がきゅっとなる。
彼も、今までそこまで意識していなかったのかもしれない。
自分にとって当たり前のものが、私にはそうじゃないこと。
それが、少しずつ二人の問題になっていく。
「……恒星くん」
「何」
「ごめんなさい」
「何が」
「楽しいデートのあとに、急にこういうこと」
そう言うと、恒星くんは少しだけ眉を下げた。
「それ、謝らないで」
「……」
「楽しいままだけでいられるなら、それが一番かもしれない」
「……」
「でも、恋人って」
少しだけ笑う。
「たぶん、そうじゃない日も一緒に持つことでしょ」
私はその言葉に、しばらく何も返せなかった。
そうだ。
ただ甘いだけなら簡単だ。
でも、少しずつ現実が混ざってきたときに、ちゃんと一緒に考えられるかどうか。
それが、今の私たちに来始めているのかもしれない。
「……うん」
小さく頷くと、恒星くんが少しだけ目を細めた。
「だから」
「うん?」
「怖くなったら、また言って」
「……」
「そのたび、ちゃんと聞く」
その言葉は、今日の私にとって何よりの救いだった。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私は窓に映る自分を見ていた。
恋人の家柄を、私はまだ“現実”として知らない。
たぶん、これからもっといろんな形で知っていくのだと思う。
そのたびに、また少し怖くなるかもしれない。
それでも、今の私は前みたいにそこで終わりたくなかった。
好きだから。
隣にいたいから。
ちゃんと怖がりながらでも、考え続けたい。
その気持ちが、今日は前より少しだけはっきりしていた。




