第52話 放課後だけ甘いの、ずるいけど最高です
学校では少し控えめに。
でも、二人きりでは我慢しない。
昨日そう決めたはずなのに、そのルールは思っていた以上に私の心を振り回した。
朝、教室で目が合う。
でも、前みたいにすぐそばへ来て、当たり前みたいに距離を詰めたりはしない。
名前を呼ぶ声も少しだけ抑えめで、笑い方もほんの少しだけ外向きだ。
それは、たしかにちょうどいい。
見られて恥ずかしいと思う私のために、恒星くんがちゃんと加減してくれているのが分かる。
でも。
だからこそ、放課後に会った瞬間、その反動がすごいのだ。
「……これ、ほんとにずるい」
朝、駅へ向かう道を歩きながら、私は小さくつぶやいた。
何がずるいって、昼間に少しだけ我慢したぶん、放課後が前よりもっと甘く感じることだ。
会いたいと思う時間が増える。
名前を呼ばれたいと思う回数も増える。
そして、会えた瞬間に、その全部が一気に押し寄せる。
たぶん私はもう、かなりその感じが好きになり始めていた。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、ひまりが私の顔を見るなり、少しだけ目を細めた。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日は何」
「何が」
「“今日も放課後を楽しみにしてます”の顔」
「ひまり」
「図星」
私は鞄を机に置きながら、ため息をついた。
ほんとうにこの親友には、隠し事ができる気がしない。
「……そんなに分かりやすい?」
「分かるよ」
ひまりは頬杖をついて、楽しそうに言う。
「昨日、“学校では少し控えめ”にしたんでしょ?」
「……うん」
「で、放課後めちゃくちゃ甘かったんでしょ?」
「……」
「はい確定」
私は思わず視線を逸らした。
たしかにそうだった。
昨日、校門を出た瞬間の空気の変わり方は、正直かなり危なかった。
学校の中で少しだけ抑えていたぶん、放課後の恒星くんはいつもより少しだけ近かった。
でも、いやらしい強さじゃない。
我慢してたぶん、やっと息がしやすくなったみたいな、やわらかい甘さ。
「……反動がすごい」
私がぽつりと言うと、ひまりは机に突っ伏した。
「無理。最高じゃん」
「何が」
「昼間は視線だけで、放課後に一気に甘いとか」
「……」
「少女漫画でも強い」
「私の人生をそういう評価で語らないで」
「でも事実でしょ」
否定できない。
そこが悔しい。
「今日もそうなりそう?」
ひまりが聞く。
「……たぶん」
「よろしい」
「何が」
「栞がもう放課後に甘くなるの、ちゃんと期待してること」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
期待している。
たしかにそうかもしれない。
少し前までの私なら、放課後に会うことすら“どうしよう”でいっぱいだった。
今は違う。
恥ずかしいし、心臓に悪いのに、それでも会いたいと思っている。
それって、かなり大きな変化だと思う。
◇ ◇ ◇
午前中、恒星くんはほんとうに“少し控えめ”を守っていた。
名前を呼ぶ回数は減らない。
でも、呼び方の温度が少しだけ抑えられている。
プリントを渡すときも、以前みたいに当たり前みたいに手を添えたりはしない。
距離も、近いけれど近すぎない。
でも、それがかえって落ち着かない。
一時間目のあと、私は黒板の消し跡を見ながら、ぼんやりそんなことを考えていた。
すると、斜め向こうから恒星くんの視線を感じる。
顔を上げると、やっぱり目が合った。
彼はほんの少しだけ笑った。
でもすぐに前を向く。
……それだけ。
たったそれだけなのに、胸の奥がきゅっとなる。
前ならそこで終わっていた。
今は違う。
その“一瞬だけやわらぐ顔”の続きが、放課後に来ることを、私はもう知ってしまっている。
「……だめだな」
小さくつぶやきながら、私はノートを閉じた。
◇ ◇ ◇
昼休み、私は購買のパンを持って中庭のベンチに座っていた。
ひまりは別の友達に呼ばれて、今日は珍しく私ひとりだ。
ひとりでいると、余計に考えてしまう。
今日の放課後、何を話そうとか。
昨日より少し自然に名前を呼べるかな、とか。
そういうことばかり。
「栞」
不意に名前を呼ばれて、私は肩を揺らした。
顔を上げる。
恒星くんだった。
「……何」
「隣、いい?」
「……うん」
彼は私のすぐ隣ではなく、少しだけ距離を残して座った。
それが、今の私たちの“学校では控えめ”の形なのだと分かる。
「今日」
恒星くんが小さく言う。
「うん」
「ここまで、わりとうまくできてる」
「……何が」
「控えめ」
私は少しだけ笑ってしまった。
「そうかも」
「でも」
「うん」
「ちょっと我慢してる」
その言い方があまりにも正直で、私は息を止める。
「……」
「名前呼ぶのも」
「……」
「もっと近づくのも」
「……」
「全部」
私はパンの袋をぎゅっと持ち直した。
そういうことを、昼休みの中庭で、そんな静かな声で言うのは本当にやめてほしい。
でも、やめてほしいのに嬉しい自分がいる。
「……私も」
小さく返すと、恒星くんの表情が少しだけやわらぐ。
「うん」
「我慢してる」
「そっか」
「……」
「じゃあ、今日は放課後会ったら」
「……」
「ちょっと覚悟して」
その一言で、私は完全に言葉を失った。
「……恒星くん」
「うん」
「そういう予告、かなり心臓に悪いです」
「知ってる」
「……」
「でも本当に我慢してるから」
その返しが甘すぎる。
私はもう、それ以上何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
午後の授業は、その予告のせいでほとんど集中できなかった。
“今日は放課後会ったら、ちょっと覚悟して”
なんなんだろう、それは。
何をどう覚悟しろというのだ。
でも、聞き返したところで、たぶんこの人は具体的なことを言わない。
そういうところが余計にずるい。
三時間目の休み時間、教科書を落として拾おうとしゃがんだとき、向こうから恒星くんがこちらを見ていた。
目が合う。
いつもよりほんの少しだけ、笑い方が危ない。
ああ、たぶん、ほんとうに我慢しているのだ。
そのことが分かった瞬間、私の方まで少しだけ落ち着かなくなった。
放課後が楽しみで、でも怖い。
そういう相反する気持ちがずっと胸の中にある。
◇ ◇ ◇
ようやく帰りのホームルームが終わった。
私は鞄を持ちながら、思わず小さく息を吐く。
長かった。
今日の一日は、放課後を待つ時間としては長すぎた。
ひまりが振り返って、にやっとする。
「行ってらっしゃい」
「……何その顔」
「いやあ、今から甘くなる二人を思うと」
「ひまり」
「はいはい。でも、ちゃんと楽しんできな」
その言い方が少しだけやさしかった。
私は小さく頷いて、教室を出た。
校門の近く。
いつも待ち合わせみたいになっている場所に、恒星くんはもういた。
でも、校舎の敷地内だからか、まだ少しだけ外向きの顔をしている。
目が合っても、すぐには近づいてこない。
その距離が、逆に今はもどかしい。
私が校門を出た瞬間だった。
恒星くんの表情が、ほんの少しだけ変わる。
外向きの整った顔から、いつものやわらかい顔へ。
「栞」
名前を呼ばれる。
その一声だけで、私はもう昼間の我慢がどれだけあったのかを思い知る。
「……何」
「やっと会えた」
その言い方があまりにもまっすぐで、私は言葉に詰まった。
「昼も会ってました」
「それは学校の中」
「……」
「今は違う」
そう言いながら、彼は自然に私の隣へ並ぶ。
距離が、昼よりずっと近い。
それだけで、胸の奥がふっとほどけるのを感じた。
「……ずるい」
思わずつぶやくと、恒星くんが少しだけ笑う。
「何が」
「昼間我慢したぶん、急に近い」
「うん」
「認めるんですね」
「だって、本当に我慢してたから」
その返しに、私はもう笑うしかなかった。
校門を出て、少し人通りの少ない道へ入ったところで、恒星くんが当たり前みたいに私の手を取る。
「……っ」
「だめ?」
「だめじゃないですけど」
「うん」
「……昼間の分、急すぎます」
「今日ずっと我慢してた」
「……」
「名前呼ぶのも、手に触れるのも」
その言い方が、あまりにもずるい。
我慢してた、なんて言われたら、手を離してほしいとは思えない。
「……私も」
小さく認めると、恒星くんが少しだけ目を細めた。
「うん」
「昼間」
「うん」
「ちょっとさみしかった」
「……」
「でも」
「うん」
「今、すごく落ち着く」
その言葉に、恒星くんの指先がほんの少しだけ強くなる。
「それ、かなりうれしい」
「またそれ」
「だって本当に」
私は少しだけ笑いながら、でもちゃんと手を握り返した。
◇ ◇ ◇
駅前のベンチに座ってからも、今日はずっと空気が甘かった。
昼の中庭では少し離れて座ったのに、今は隣の距離がずっと近い。
同じ人なのに、時間帯と場所が変わるだけでこんなにも違うのかと思う。
「ねえ」
恒星くんが言う。
「何」
「今日、昼間ずっと名前呼ぶの我慢してた」
私は思わず彼を見た。
「……そんなに?」
「うん」
「だって、呼びたいのに周りいたから」
「……」
「今、ちょっといっぱい呼んでもいい?」
「……恒星くん」
「だめ?」
その聞き方は反則だ。
私はすぐに答えられず、少しだけ視線を落とした。
「……少しだけなら」
「少しだけなんだ」
「……」
「栞」
やわらかく呼ばれる。
たったそれだけで胸が熱い。
「……何」
「今日の反応、全部好き」
「……」
「昼間ちょっとさみしそうだった顔も」
「……」
「今、やっと落ち着いてる顔も」
「……」
「全部、俺しか知らない感じがしてうれしい」
私はその言葉に、しばらく何も返せなかった。
そうか。
放課後だけ甘い、ということは。
昼間の私と、放課後の私を、ちゃんと彼だけが知っているということでもある。
その事実が、どうしようもなく甘かった。
「……秘密みたい」
気づけば、そんなことを言っていた。
「うん」
恒星くんがすぐに頷く。
「だから好き」
「……」
「放課後の栞、ちょっとだけ俺だけのものみたいで」
「……その言い方、危ないです」
「知ってる」
でも、その危なさに私はもう前ほど怯えなくなっていた。
それが支配じゃないと分かるから。
大事にしたい独占欲だと、少しずつ知ってきたから。
「……ずるいけど」
私は小さく言う。
「何」
「最高です」
そう言った瞬間、恒星くんが本気で黙った。
私は自分でも何を言ってるんだろうと思ったけれど、撤回はしなかった。
だって本当だった。
昼間我慢したぶん、放課後に近づく感じ。
秘密みたいに大事にされる感じ。
それが、困るくらい好きだった。
「……今の」
恒星くんがようやく言う。
「かなりだめ」
「何が」
「好きすぎる」
私はもう、顔を上げられなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道、私は窓に映る夜の自分を見ていた。
放課後だけ甘いの、ずるいけど最高です。
今日の私は、それをちゃんと認めてしまった。
見られるのは恥ずかしい。
でも、二人きりになった瞬間に空気が変わるのは、やっぱり特別で、やっぱり好きだ。
恋が外へにじんでいくのは少し怖い。
でも、だからこそ、二人だけの時間はもっと甘くなる。
そのバランスが、今の私たちにはちょうどいいのかもしれない。




