第51話 二人だけの秘密みたいだった恋が、少しずつ外へにじんでいく
学校という場所は、思っていたよりずっと空気に敏感だ。
誰かと誰かが仲良くなったこと。
視線の向きが少し変わったこと。
名前の呼び方が前より近くなったこと。
そういう、言葉にするには小さすぎる違和感みたいなものを、案外みんなよく見ている。
恋人になってからの私は、そのことを少しずつ思い知り始めていた。
昨日、恒星くんと決めた。
学校では少し控えめに。
でも、二人きりでは我慢しない。
その“ちょうどいいところ”を、二人で探していこうと。
たぶん、それは正しい。
私には必要なルールだと思う。
でも、正しいと分かっていても、実際にやるとなると別の種類の難しさがあった。
控えめにする。
それはつまり、今まで無意識にしていたやわらかい視線とか、自然な距離とか、そういうものを少し意識して抑えるということだからだ。
それって、思っていた以上に難しい。
◇ ◇ ◇
朝、教室へ入ると、私はまずひとつ深呼吸した。
今日は少し気をつける。
昨日そう決めたのだから。
ひまりが私を見るなり、すぐに察した顔になる。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日はちょっと固めだね」
「そう?」
「うん。“ちゃんと控えめにしよう”って決意してる顔」
私は鞄を机に置いて、小さく息をついた。
「そんなに分かりやすい?」
「分かるよ」
ひまりは前の席に座って、頬杖をつく。
「で、昨日ルール決めたんでしょ」
「……うん」
「学校では控えめ、放課後は甘い、みたいな?」
「……」
「当たり?」
「……だいたい」
ひまりは少しだけ笑った。
「いいんじゃない?」
「そうかな」
「うん。栞が無理しすぎない範囲で、でもちゃんと一条くんを遠ざけすぎないなら」
その言い方が、今の私にはありがたかった。
そうだ。
遠ざけすぎたくない。
それだけは、昨日ちゃんとはっきり分かったことだ。
そのとき、教室の入り口が少しだけざわついた。
私は反射みたいに顔を上げそうになって、でも、途中でほんの少しだけ思いとどまった。
……こういうところから、だ。
でも、上げないのも不自然だろうか。
いや、そんなことを考えている時点でもう不自然だ。
結局、私は普通を装って顔を上げた。
恒星くんがいる。
目が合う。
ほんの少しだけ、向こうの目元がやわらぐ。
その変化にすぐ反応したい自分を、私は慌てて抑えた。
だめだ。
ここでいつもみたいに空気をやわらかくしすぎたら、昨日の意味がなくなる。
「おはよう」
恒星くんが近づいてきて言う。
「……おはよう」
私は、できるだけ落ち着いた声で返した。
その瞬間、彼の表情がほんの少しだけ止まる。
あ、と思った。
きっと向こうも分かったのだ。
私が少しだけ意識して距離を置いていることに。
「今日」
恒星くんが小さく言う。
「うん」
「ちゃんと控えめだ」
「……」
「えらい」
「褒めないでください」
「どうして」
「余計に意識するので」
そう返したら、彼は少しだけ笑った。
でも、その笑い方はいつもより控えめだった。
たぶん、彼も合わせてくれている。
そのことに少しだけほっとして、少しだけさみしくなる。
やっぱり、近かったものを少し遠ざけるのは、思っていたより胸にくる。
◇ ◇ ◇
一時間目のあと、先生に頼まれて私はプリントを職員室に運ぶことになった。
教室を出ようとすると、恒星くんが自然に立ち上がりかける。
たぶん、また「手伝う」と言うつもりだったのだろう。
でも、そこで彼は一瞬だけ動きを止めた。
昨日の約束を思い出したのだと思う。
その一瞬が、なぜか私にはすごく分かった。
「……大丈夫」
私は小さく言った。
“手伝わなくて大丈夫”という意味と、“分かってる”という意味を少しだけ込めて。
恒星くんも、その意味を受け取ったみたいに小さく頷いた。
「うん」
たったそれだけのやり取りなのに、周りから見たらきっと何でもない。
でも私たちの間では、ちゃんと会話になっていた。
私はそれを少しだけ嬉しいと思った。
でも同時に、ほんの少しだけ物足りなくも感じる。
前なら、あの人はたぶん迷わず立ち上がって、自然に半分持ってくれた。
今は、それをしない。
しないでくれている。
私のために。
それが優しいのに、少しだけさみしいなんて、私はやっぱり面倒くさい。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひまりにそのことを話すと、案の定すぐに見抜かれた。
「はい」
「何」
「今の栞、“控えめにするって言ったけど、ちょっとさみしいです”の顔」
「……」
「図星」
私は紙パックのジュースを持ったまま、少しだけ目をそらした。
「……だって」
「うん」
「やってほしくないわけじゃない」
「うん」
「でも、やりすぎて見られるのは困る」
「うん」
「でも、急に全部引かれるとそれはそれで」
「うん」
「……嫌」
ひまりは小さく笑った。
「正直でよろしい」
「何それ」
「いや、でもそこ大事だよ」
ひまりはストローをくるくるしながら言う。
「栞、前なら“恥ずかしいから控えてほしい”だけで終わってたと思う」
「……」
「今は、“でも遠いのは嫌”ってちゃんと言えてる」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
たしかに、そうかもしれない。
私は前より、ちゃんと“欲しい距離”を考えている。
遠いだけでもだめ。
近すぎても困る。
その真ん中を探したいと思っている。
「……難しい」
小さくつぶやくと、ひまりはあっさり頷く。
「そりゃそう」
「そんな簡単に」
「だって、恋人って距離の調整ずっとするもんでしょ」
「……」
「まあ、でもさ」
ひまりが少しだけやわらかい声になる。
「一条くんなら、その辺ちゃんと合わせてくれるでしょ」
私はすぐに頷けなかった。
でも、心の中ではもう答えが出ていた。
合わせてくれる。
たぶん、ちゃんと。
ただ、だからこそ私は、“合わせてもらうだけ”にしたくないのかもしれない。
◇ ◇ ◇
午後の授業が終わったあと、私は廊下の窓際でぼんやり外を見ていた。
放課後になれば、昨日のルールの後半が始まる。
二人きりでは我慢しない。
その切り替わりを思うと、少しだけ楽しみで、少しだけくすぐったかった。
「栞」
後ろから名前を呼ばれて、私は振り向く。
恒星くんだった。
でも、まだ校舎の中だ。
彼はきちんと少しだけ距離を保ったまま立ち止まる。
「……何」
「今日」
「うん」
「頑張ってたね」
「……」
「控えめ」
私は少しだけ視線を落とした。
「……分かりました?」
「うん」
「そんなに?」
「うん」
恒星くんは少しだけ笑う。
「でも、途中からちょっとさみしそうだった」
「……」
「そこまで分かるんですか」
「分かるよ」
そう言われると、もう何も隠せる気がしない。
「……少しだけ」
私は観念して小さく言う。
「さみしかった」
「うん」
「だって」
「うん」
「急に、前より遠くなる感じがして」
そこまで言うと、恒星くんの表情がやわらいだ。
ほんの少しだけ、安心したみたいに。
「俺も」
「……え」
「手伝いたかったし」
「……」
「もっと普通に近づきたかった」
「……」
「でも、栞が気にしてるの分かってたから」
その言葉に、私は少しだけ喉の奥が熱くなる。
やっぱり、彼も同じだったのだ。
我慢していたのは私だけじゃない。
「……じゃあ」
私は少しだけ勇気を出した。
「学校の中でも」
「うん」
「全然ゼロにしなくていいのかも」
「……」
「ほんの少しなら」
「……」
「普通に、でいい」
言いながら、自分でもその言葉がかなり大事だと分かった。
見られるのは恥ずかしい。
でも、完全に隠したいわけじゃない。
自然に近くいるくらいなら、たぶん、きっと大丈夫。
恒星くんはしばらく私を見て、それからやわらかく頷いた。
「分かった」
「……」
「じゃあ、“少しだけ普通”にする」
「何その言い方」
「大事でしょ」
私は少しだけ笑ってしまった。
少しだけ普通。
少しだけ近い。
その曖昧さが、今の私たちにはちょうどいいのかもしれない。
◇ ◇ ◇
校門を出たところで、恒星くんは本当に“我慢をやめた”。
でも、昨日までみたいな一直線な甘さではない。
少しだけ、やわらかい。
並んで歩く距離が自然に近い。
人が少なくなったところで、当たり前みたいに私の鞄を半分持つ。
そして駅前のベンチへ着くころには、もう私はすっかり朝よりずっと楽になっていた。
「……やっぱり」
私がぽつりと言うと、恒星くんがこちらを見る。
「何」
「放課後の方が、好き」
「それ、かなりうれしい」
「またそれ」
「だって本当だから」
彼は少しだけ身体をこちらへ向ける。
「昼間、我慢してた分」
「……」
「会えたときの破壊力がすごい」
「……」
「栞は?」
私は少し迷って、それでも頷いた。
「……同じ」
その返事に、恒星くんが少しだけ目を細めた。
「じゃあ」
「うん?」
「やっぱり、放課後は大事にしないと」
「……それ、前も言ってました」
「うん」
「毎回言うんですか」
「大事だから」
その一言に、私はまた胸の奥がやわらかくなる。
二人だけの秘密みたいだった恋が、少しずつ外へにじんでいく。
それはまだ少し恥ずかしい。
でも、全部を秘密のまま抱えているのも違う。
その間の、ちょうどいい場所。
それを二人で探していけるのなら、たぶん大丈夫なのだと思えた。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私は窓に映る自分を見ていた。
恋人になったあとの現実は、ただ甘いだけじゃない。
見られること。
にじんでいくこと。
外の世界に少しずつ関係が触れていくこと。
そういうものも一緒にやってくる。
でも、それを怖がるだけじゃなくて、ちゃんと“どうしたいか”を考えられるようになってきた。
それは、たぶん少しだけ成長なのだと思う。
「……少しずつ、慣れていくのかな」
小さくつぶやく。
たぶん、そうだ。
恥ずかしさも、嬉しさも、二人で少しずつ。




