第50話 彼氏彼女の空気、クラスメイトは意外と見逃してくれない
恋人になってから、私はずっと“二人の関係”のことばかり考えていた。
恒星くんと名前を呼び合うこと。
一緒に帰ること。
手をつなぐこと。
少しずつ、少しずつ、恋人らしくなっていく時間。
でも、その“二人の関係”は、本当は最初から二人だけのものではなかったのかもしれない。
学校という場所にいる限り、私たちはずっと誰かの視界の中にいる。
名前を呼ぶ声も、目が合う一瞬も、自然に手伝いに来てくれる距離感も。
そういうものは、自分で思っている以上に外へにじんでしまうのだ。
そのことを、私はこの日、思っていた以上にはっきり知ることになった。
◇ ◇ ◇
朝、教室の扉を開けた瞬間から、空気が少し違った。
いや、正確には、私の方が“違い”に敏感になっていたのかもしれない。
でも、それにしても、いくつかの視線が少しだけこちらへ向いた気がした。
「……?」
私は一瞬だけ足を止めたけれど、すぐに気のせいだと思い直して自分の席へ向かった。
ひまりが私を見るなり、やれやれとでも言いたげな顔になる。
「おはよ」
「……おはよう」
「ついに来たね」
「何が」
「“周りがちょっと気づき始めてるかも”期」
私は鞄を机に置く手を止めた。
「……え」
「え、じゃないよ」
ひまりは頬杖をついて、いつもの軽い口調で続ける。
「遅いくらい」
「そんなに?」
「そんなに」
私は少しだけ喉が乾くのを感じた。
「……何か、ばれてる?」
「“付き合ってる”って断言するほどじゃないと思う」
「……」
「でも、“あの二人なんか前より近くない?”くらいは、そろそろ」
その言葉に、私は視線を机の木目に落とした。
そりゃそうかもしれない。
付き合う前から、恒星くんはわりと分かりやすかった。
付き合ったあとも、私たちは急に冷たくなることなんてできなかった。
名前を呼び合って。
目が合えば少しだけやわらかくなって。
放課後には自然に一緒に帰っている。
それで、何も見抜かれないと思う方が甘いのかもしれない。
「……恥ずかしい」
思わず小さくつぶやくと、ひまりがちょっとだけ笑った。
「うん、分かる」
「……」
「でも、今のは“嫌”じゃなくて“恥ずかしい”なんだね」
私は答えられなかった。
でも、たぶんその通りだった。
嫌ではない。
ただ、まだ心が追いつかないだけだ。
“二人だけのもの”みたいに大事にしていた空気を、外側から見られることに。
◇ ◇ ◇
ホームルーム前。
恒星くんが教室に入ってくる。
私はそれだけで、やっぱり少しだけ反応してしまう。
目が合った瞬間、彼の表情がほんの少しやわらぐ。
その“ほんの少し”を、今までは私だけが知っているような気がしていた。
でも、もしかしたら、もうそうじゃないのかもしれない。
「おはよう」
恒星くんが机のそばまで来て言う。
「……おはよう」
私が返した瞬間、近くの席の女子がちらっとこちらを見た。
ほんの一瞬。
でも、今の私にはそれがやけに大きく感じる。
恒星くんはたぶん気づいていない。
あるいは、気づいていても気にしていない。
そのくらい自然に、机の上の私の筆箱の位置を少し直してから言った。
「今日、一時間目のあと委員会の紙持ってくね」
「……うん」
「忘れないで」
「……忘れません」
それだけの、ほんとうに普通のやり取り。
でも、普通すぎるからこそ、余計に“慣れてる”感じが出るのかもしれない。
私は少しだけ落ち着かなくなって、眼鏡の位置を直した。
「どうしたの」
恒星くんが小さく聞く。
「……何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「……」
「栞?」
そこで、後ろの席から誰かが「朝比奈さん、消しゴム落ちた」と声をかけてきた。
私はほっとしたような、でも少しだけ残念なような気持ちでそちらを向いた。
会話が切れて助かった。
けれど、切れたことに少しだけ物足りなさを覚えている自分にも気づく。
最近の私は、ほんとうに面倒だ。
◇ ◇ ◇
一時間目の休み時間、委員会のプリントを渡しに廊下へ出た私は、そこで小さな“違和感”をもう一度感じた。
廊下の端で立ち話をしていた女子二人が、私たちがすれ違うときに少しだけ視線を寄越したのだ。
しかも、私ではなく――たぶん、私と恒星くんをセットで。
考えすぎかもしれない。
でも、今朝からもう何度目かの感覚だった。
プリントを渡し終えて教室へ戻る途中。
私はたまたま購買前で麗華と会った。
九条麗華は私を見るなり、一拍おいて、静かに言った。
「朝比奈さん」
「……おはようございます」
「最近、少し大変そうね」
その一言に、私は思わず目を見開いた。
「何が」
「周りの目」
あまりにも直球で、私は返す言葉を失う。
麗華は淡々と続ける。
「あなたが思っているより、学校という場所は細かい変化に敏感よ」
「……」
「特に、普段目立つ人間が関わっているとね」
その“目立つ人間”が誰を指しているかなんて、言われるまでもない。
「……やっぱり、分かるんですか」
小さく聞くと、麗華は少しだけ肩をすくめた。
「少なくとも、私には分かるわ」
「……」
「でも、他の人間はまだ“確信”じゃない」
「……」
「ただ、“近い”“やわらかい”“前と違う”くらいの違和感が積み重なっているだけ」
その分析があまりにも正確で、私は少しだけくらくらした。
そうか。
まだ何かを決定的に見られたわけじゃない。
でも、空気はもうにじんでいるのだ。
「麗華さんは」
私は少し迷ってから言った。
「そういうの、気になりますか」
麗華は一瞬だけ目を細めた。
それから、少しだけやわらいだ声音で言う。
「気になるというより、遅かれ早かれ、とは思っていたわ」
「……」
「彼、あなたに対しては分かりやすすぎるもの」
私はその言葉に、顔が少しだけ熱くなるのを感じた。
「……私も、ですか」
小さく聞くと、麗華は即答した。
「ええ」
「……」
「お似合いよ、と言ってほしいなら言うけれど」
「麗華さん」
「冗談よ」
でも、その目は少しだけやさしかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
私はひまりと一緒に中庭の隅にいた。
「やっぱり」
私はジュースのパックを持ったまま言う。
「ちょっと見られてる感じ、ある」
「うん」
ひまりは驚かない。
「まあ、あると思う」
「……」
「でも今のところ、“察し始めた人がいる”くらいじゃない?」
「……」
「というか、一条くんが前よりだいぶ隠してない」
私は思わず顔を上げた。
「そんなに?」
「そんなに」
ひまりは真顔で頷く。
「前も十分分かりやすかったけど、今は“彼氏として自然に気にかけてる”のが外から見ても分かる」
「……」
「名前の呼び方とか、プリント手伝うときの距離とか、あと見てる目」
そこまで具体的に言われると、私は反論もできない。
「……どうしよう」
思わず本音がこぼれる。
「どうしたいの」
ひまりが聞く。
「……分かんない」
「隠したい?」
私はその問いにすぐには答えられなかった。
隠したい。
でも、それは恋人であることを否定したいわけじゃない。
ただ、まだ見られることに慣れていないだけだ。
「……見られるのは恥ずかしい」
私は小さく言った。
「うん」
「でも」
「うん」
「だからって、急に遠くなるのは」
「うん」
「……それは嫌」
言いながら、自分で少しだけ胸がぎゅっとなる。
そうだ。
私はもう、恒星くんとの距離が急に遠くなるのは嫌だ。
たとえそれが“周りの目”のためだとしても。
「じゃあ、答え出てるじゃん」
ひまりが言う。
「え」
「“見られるのは恥ずかしいけど、遠いのは嫌”なんでしょ」
「……」
「なら、二人でちょうどいいところ探せばいいだけ」
その言い方は簡単だけれど、たぶん本質だった。
◇ ◇ ◇
放課後。
私は少しだけ迷った末に、自分から恒星くんを呼び止めた。
「……話したい」
そう言うと、恒星くんはすぐに頷く。
「うん」
校舎裏の、人通りの少ないベンチ。
私たちはいつものように少しだけ距離を空けて座った。
「どうしたの」
恒星くんが静かに聞く。
その声音がやさしすぎて、私は少しだけ勇気を出せた。
「……最近」
「うん」
「ちょっと、見られてる感じがする」
恒星くんは黙って私を見る。
驚いたような顔ではない。
たぶん、少しは気づいていたのだろう。
「……」
「それで」
「うん」
「私、まだ」
言葉を探す。
「恋人って見られるのに、あんまり慣れてない」
「……」
「恥ずかしいし」
「うん」
「ちょっとだけ、怖い」
そこまで言って、私は少しだけ視線を落とした。
「でも」
「うん」
「だからって、恒星くんが遠くなるのは嫌」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
これはかなり本音だった。
恒星くんはしばらく何も言わなかった。
でも、その沈黙は重くない。
ちゃんと受け取って、考えてくれている沈黙だ。
「……そっか」
やがて彼が言う。
「うん」
「嫌なら、学校ではもっと抑える」
「……」
「それはできる」
その言い方に、私は少しだけ呼吸が止まる。
できる。
でも、そうしてしまうとたぶん私は寂しくなる。
「……でも」
恒星くんが続ける。
「隠すために遠くなるのは、俺も嫌」
私は思わず顔を上げた。
その言葉は、たぶん私が一番聞きたかったものだった。
「……」
「栞が恥ずかしいなら、そこは合わせたい」
「……」
「でも」
彼は少しだけ目を細める。
「恋人なのに、わざと遠くなるのは、ちょっと違うと思う」
私は少しだけ目を伏せた。
嬉しかった。
たぶん私は、同じことを思っていたのだ。
「……じゃあ」
私は小さく言う。
「学校では、少しだけ控えめ」
「うん」
「でも」
「うん」
「二人きりのときは」
「……」
「我慢しない」
そこまで言うと、恒星くんがほんの少しだけ笑った。
「それ、かなりいい」
「……」
「じゃあ、そのルールにしようか」
「……うん」
「学校では少し控えめ」
「うん」
「でも」
彼の声が少しだけやわらかくなる。
「二人きりでは我慢しない」
その繰り返しが妙に甘く聞こえて、私は少しだけ顔が熱くなった。
「……恒星くん」
「何」
「今、ちょっと楽しそう」
「うん」
「認めるんですね」
「だって、放課後の栞は独り占めしていいってことでしょ」
「……」
「かなりうれしい」
私はもう、それ以上何も言えなかった。
やっぱりこの人は、ほんとうに嬉しいを隠さない。
でも、その素直さに救われるのも本当だった。
◇ ◇ ◇
帰り道、恒星くんは本当に“我慢しない”を実行した。
校門を出て少し歩いたところで、自然に私の手を取る。
あまりにも当然みたいに。
「……っ」
「我慢しない、って言ったから」
その言い方がずるい。
でも、ルールを口実にしているだけじゃなく、本当に嬉しそうなのが分かるから、私は手を離せなかった。
学校では控えめ。
でも二人きりでは我慢しない。
そのルールは、思っていた以上に私の心を軽くした。
外の視線を気にする自分も否定しなくていい。
でも、恋人らしい甘さを諦めなくてもいい。
それだけで、すごく救われる。
「……ちょうどいいかも」
小さくつぶやくと、恒星くんがこちらを見る。
「何が」
「今の」
「……」
「ちゃんと、二人だけの時間は二人だけのものって感じ」
そう言うと、恒星くんの表情がやわらいだ。
「うん」
「……」
「秘密みたいで大事だね」
その言葉が、胸にすとんと落ちる。
そうか。
私はたぶん、こうしたかったのだ。
全部隠したいわけじゃない。
でも、全部を外へ広げたくもない。
大事だからこそ、まだ少し秘密みたいに抱えていたい。
「……うん」
小さく頷くと、恒星くんは手をつないだまま少しだけ笑った。
「じゃあ、放課後はもっと大事にしないと」
「……それ以上甘くなるのは困ります」
「どうして」
「心臓が持たないので」
「それは、たぶん俺も一緒」
私は少しだけ笑ってしまう。
そうだ。
きっと彼も同じなのだ。
だから、この“ちょうどいい距離”を一緒に作っていける。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私は窓に映る自分を見ていた。
彼氏彼女の空気は、意外と外に見えてしまう。
でも、それが嫌だからといって、恋人であることまで小さくしたくはない。
私はまだ恥ずかしい。
でも、遠くなるのは嫌だ。
その矛盾を、今日ちゃんと口にできたことが少しだけ嬉しかった。
そして、それを“じゃあ二人でちょうどいいところを作ろう”と受け取ってもらえたことも。
「……少しずつ、だな」
小さくつぶやく。
恋人になるって、ただ甘いだけじゃない。
二人にしか分からない距離を、少しずつ一緒に決めていくことでもあるのだと思った。




