第49話 はじめて自分から伝える“好き”は、恋人になってからが本番でした
その日、私は朝からずっと落ち着かなかった。
理由ははっきりしている。
昨日、自分の中で決めたからだ。
次こそ、自分から“好き”を言うと。
たったそれだけ。
でも、今の私にはそれがとんでもなく大きい。
好き。
付き合う前に、一度だけちゃんと言った。
でも、あれは告白に近い“好き”だった。
自分の気持ちを相手に届けるための、勇気を振り絞った一言。
今日言いたいのは、それとは少し違う。
恋人になってからの“好き”。
今の関係の中で、自分から渡す“好き”。
それが、思っていた以上に難しい。
「……無理かも」
朝、鏡の前で私は小さくつぶやいた。
でも、すぐに首を振る。
無理じゃない。
やる。
だって、言いたいのだ。
恒星くんはずっと待ってくれていた。
急かさずに。
でも、ちゃんと受け取る準備だけはいつもしてくれていた。
それを、私は知っている。
だからこそ今日は、自分から言いたかった。
「栞ー」
母の声が下からする。
「朝ごはんー」
「今行くー」
返事をしながら、私は最後にもう一度鏡の中の自分を見た。
黒縁眼鏡。
少しだけ緊張した顔。
でも、逃げたいだけの顔じゃない。
大丈夫。
怖いけど、ちゃんと前に進みたい顔をしている。
◇ ◇ ◇
教室へ入ると、ひまりが私を見るなり、すぐに察した顔になった。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日だ」
「何が」
「決行日」
「ひまり」
「図星でしょ」
私は鞄を机に置いて、小さく息を吐いた。
「……そんなに分かる?」
「分かるよ」
ひまりは前の席に座って頬杖をつく。
「今日はもう、“言うって決めた人の顔”してる」
「……」
「怖い?」
「うん」
「でもやめたくはない?」
「……うん」
「じゃあ大丈夫」
「何で」
「それが一番ちゃんとしてる恋だから」
ひまりはそう言って、少しだけやわらかく笑った。
「うまく言おうとしなくていいよ」
「……」
「栞の言葉で言えばいい」
「それ、前にも聞いた」
「でしょ」
「……」
「たぶん、それが一番効くから」
私はその言葉に、小さく頷いた。
そうだ。
うまく言えなくてもいい。
きれいじゃなくてもいい。
ただ、ちゃんと自分から言いたい。
◇ ◇ ◇
朝のホームルーム前、恒星くんはいつも通り教室へ来た。
目が合う。
その瞬間、やっぱり胸が跳ねる。
でも今日は、その跳ね方の奥に、少しだけ覚悟もあった。
「おはよう」
「……おはよう」
私が返すと、恒星くんは少しだけ目を細めた。
「今日」
「……何」
「なんか違う」
「何が」
「顔」
私は思わず少しだけ視線を逸らした。
「……そんなに分かるんですか」
「分かるよ」
「……」
「何か、決めてる顔」
図星だ。
でも、今日はもうごまかしきれない気がした。
「……少し」
そう言うと、恒星くんはそれ以上は聞かなかった。
ただ、ほんの少しだけやわらかく笑う。
「そっか」
「……」
「じゃあ、待ってる」
その一言が、今日の私にはやけに深く響いた。
待ってる。
何をとは言わない。
でも、たぶん彼はもう少しだけ分かっている。
私が何かを渡そうとしていることに。
◇ ◇ ◇
授業中、私はほとんど上の空だった。
黒板の文字は目に入っている。
ノートも取っている。
でも頭の中ではずっと、放課後のことを考えていた。
どこで言うか。
どう切り出すか。
最初の一言は何にするか。
でも考えれば考えるほど分からなくなる。
たぶん、いざその場になったら、全部飛ぶのだろう。
それでもいい。
ちゃんと伝われば。
その結論に何度も戻ってきて、私はどうにか授業時間をやり過ごした。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひまりは私のお弁当箱を見ながら、妙にやさしい声を出した。
「食べれてる?」
「……一応」
「えらい」
「何で」
「大事な話の前に倒れられても困る」
私は少しだけ笑ってしまった。
「ひまり」
「何」
「放課後」
「うん」
「たぶん呼ぶ」
「うん」
「そのあと、もし」
「うん」
「私が変な顔してても笑わないで」
ひまりは一瞬だけ黙って、それから小さく頷いた。
「笑わないよ」
「……」
「たぶん泣くけど」
「何で」
「ずっと見てたから」
その言い方が、少しだけ胸に沁みた。
ほんとうにそうだ。
ひまりは最初からずっと見ていた。
私が“私なんて”に縮こまっていたところから、少しずつ前へ出ていくまでを。
だから今日は、ちゃんといい形で終えたいと思った。
◇ ◇ ◇
放課後。
私は帰りのホームルームが終わったあと、一度深呼吸してから席を立った。
ひまりが小さく拳を握る。
私はそれに小さく頷き返す。
廊下に出ると、恒星くんが少し離れた窓際に立っていた。
たぶん、私が来るのを待っていたのだろう。
目が合う。
その瞬間だけ、少しだけ表情がやわらぐ。
「栞」
「……うん」
「どうしたの?」
私は一歩、近づく。
いつものように、少しだけ距離を置いて立つ。
でも今日は、それだけじゃ足りない気がした。
「……少し」
私は言った。
「話したい」
恒星くんはすぐに頷く。
「うん」
「屋上の手前」
「……」
「踊り場、行ってもいい?」
「いいよ」
その返事が静かで、やさしい。
私たちは並んで階段を上がった。
足音だけが、小さく響く。
何度か通った踊り場なのに、今日は前よりずっと特別な場所に見えた。
◇ ◇ ◇
窓の外は、夕方の色に変わり始めていた。
光はまだあるのに、空の端は少しだけ群青が混ざっている。
恒星くんが、数歩離れた場所で立ち止まる。
「来た」
小さく言う。
「……うん」
「話したいこと?」
私は頷く。
でも、すぐには声が出ない。
喉が少し乾いている。
心臓がうるさい。
でも、ここまで来たのだ。
「……私」
ようやく声を出す。
「うん」
「付き合う前に、一回ちゃんと言った」
「……」
「好き、って」
恒星くんは何も言わずに聞いてくれている。
その沈黙が、今日もありがたかった。
「でも」
私は続ける。
「恋人になってからの“好き”って」
「うん」
「前よりずっと近くて」
「……」
「前よりずっと恥ずかしくて」
「……」
「だから、言いたいのにずっと言えなかった」
少しだけ息を吸う。
「でも」
「うん」
「ちゃんと、自分から言いたくて」
「……」
「ずっと待ってもらってるの分かってたから」
「……」
「今日は、自分で言いたいと思った」
そこまで言ったところで、恒星くんがほんの少しだけ息を止めたのが分かった。
でも、まだ何も言わない。
待ってくれている。
今日も、ちゃんと。
私はそのことに少しだけ救われながら、言葉を続けた。
「……恒星くん」
「うん」
「好き」
言えた。
たった二文字。
でも、自分から、ちゃんと。
その瞬間、胸の奥が熱くなる。
怖い。
でも、それ以上に、やっと渡せた、と思った。
「前より」
私は小さく続ける。
「もっと好き」
「……」
「名前呼ぶだけでも嬉しいし」
「……」
「手つなぐとまだ緊張するし」
「……」
「嫉妬されるのも、ちょっと嬉しいし」
「……」
「額のキス、まだ引きずってるし」
そこまで言うと、恒星くんが少しだけ目を伏せた。
たぶん、かなりきている。
「だから」
私は最後のひと押しみたいに、言葉を出す。
「ちゃんと、好きです」
言い終わった瞬間、肩の力が少し抜けた。
でも同時に、返事を待つ数秒が、ものすごく長く感じる。
恒星くんはしばらく何も言わなかった。
ただ、まっすぐ私を見ていた。
それから、ほんの少しだけ息を吐いて、目元をやわらげる。
「……だめだ」
「何が」
「今、すごく幸せ」
その言葉に、胸がまたぎゅっとなる。
「俺」
恒星くんがゆっくり言う。
「ずっと待ってた」
「……」
「でも、待つの全然嫌じゃなかった」
「……」
「栞が、自分で言いたいって思ってくれるの、たぶん分かってたから」
私は少しだけ目を見開いた。
そんなところまで見えていたんだ、と、少しだけ悔しい。
「……」
「でも、今こうしてちゃんと聞けたの」
恒星くんは少しだけ困ったように笑う。
「思ってたより、ずっと嬉しい」
私は頬が熱くなるのを感じながら、小さく笑った。
「……ひまりが」
「うん?」
「“言わないと彼氏死ぬよ”って言ってた」
恒星くんは一瞬だけ黙って、それから本気で笑った。
「それ、だいぶ正しいかも」
「……」
「今日言ってくれなかったら、たぶんちょっとずつ弱ってた」
「何それ」
「好きって、やっぱりほしいから」
その正直さが、あまりにもこの人らしくて、私は少しだけ笑いながら目を伏せた。
「……じゃあ」
「うん」
「ちゃんと元気になりましたか」
「うん」
「かなり」
「……」
「むしろ、今ちょっと危ないくらい」
その言い方に、私は少しだけ顔を上げる。
恒星くんの表情はやわらかい。
でも、その奥にある熱は、前より隠れていなかった。
「……栞」
「何」
「今日の“好き”」
「……」
「一生覚えてる」
その言葉に、私はまた心臓が跳ねる。
でも、今日は逃げない。
「……私も」
「うん?」
「今日のこと」
「……」
「ずっと覚えてたい」
そう言うと、恒星くんの表情が、また少しだけ崩れた。
嬉しそうに。
困ったみたいに。
ほんとうに、幸せそうに。
◇ ◇ ◇
しばらく静かな時間が流れたあと、恒星くんが一歩だけ近づいた。
「……栞」
「何」
「今日は」
「うん」
「頑張ったご褒美、もらっていい?」
その聞き方がずるい。
でも、意味は分かる。
私は少しだけ息を止めて、それから、小さく頷いた。
「……少しだけなら」
「うん」
「ほんの少しだけ」
「分かってる」
恒星くんはそう言って、ほんとうにやわらかく、頬にキスをした。
額じゃない。
唇でもない。
でも、それだけで十分すぎるくらい甘かった。
「……っ」
私は思わず目を閉じる。
頬が熱い。
心臓がうるさい。
でも、嫌じゃない。
むしろ、嬉しくて仕方ない。
「……反則」
小さく言うと、恒星くんがすぐ近くで少し笑った。
「ごめん」
「全然ごめんって思ってない」
「うん、たぶん今かなり嬉しい」
「……」
「今日の栞、ほんとにだめ」
「何が」
「好きすぎる」
その言葉に、私はもう何も言えなくなる。
たぶん今の私は、まともに顔を見られないくらい真っ赤だ。
でも、その赤さまで全部、今日の大事な記憶になる気がした。
◇ ◇ ◇
帰り道。
階段を下りて、校門を出て、駅へ向かうまでの時間が、今日はいつもより少しだけ浮いていた。
地面にちゃんと足はついているはずなのに、心だけが少しふわふわしている。
言えたからだ。
やっと、自分から。
「ねえ」
恒星くんが言う。
「何」
「今日のこと、瀬名さんに言う?」
「……」
「その顔は言うね」
「……全部は言わない」
「全部じゃなくても、たぶんばれる」
「それはそう」
少しだけ笑う。
そういう軽いやり取りができるくらいには、今の私は満たされていた。
改札の前で立ち止まる。
別れるのが少しだけ惜しい。
でも、その惜しさも今日は甘い。
「また明日」
恒星くんが言う。
「……うん」
「栞」
「何」
「今日はほんとにありがとう」
「……」
「待っててよかった」
そのひと言に、私は少しだけ目を細めた。
「……私も」
「うん?」
「言えてよかった」
そう返すと、恒星くんはやわらかく笑った。
その笑顔を見て、私は今日一日の全部が報われた気がした。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の窓に映る自分は、少しだけ赤くて、でもすごくやわらかい顔をしていた。
はじめて自分から伝える“好き”は、恋人になってからが本番でした。
たぶん、本当にそうなのだと思う。
告白よりずっと近くて。
告白よりずっと恥ずかしくて。
でも、そのぶん、もっと深くて、もっと甘い。
そして私は今日、その甘さをちゃんと自分の手で渡せた。
「……ほんとに、言えたんだ」
小さくつぶやくと、胸の奥がまたあたたかくなる。




