第46話 キスひとつで、恋人の距離はまた少し変わる
額にキスをされてから、私は明らかに少しおかしかった。
少し、ではないかもしれない。
かなり、かもしれない。
朝、目が覚めた瞬間に思い出して。
学校へ向かう道でもふと思い出して。
授業中、ぼんやり黒板を見ているときでさえ、急にあの感触がよみがえってきて、そのたびに胸の奥がじんわり熱くなる。
額。
たったそれだけ。
唇じゃない。
なのにどうして、あんなにも特別なんだろう。
やわらかくて、短くて、でもあまりにも大事にされている感じがあって。
思い出すたび、私はまだ少しだけ息が浅くなる。
「……ほんとに、だめだな」
朝、鏡の前で私はまた小さくつぶやいた。
黒縁眼鏡をかけて、髪をまとめて、制服のリボンを直す。
見た目はいつもの私なのに、中身だけが昨日までよりずっと落ち着かない。
恋人になる前は、名前で呼ばれるだけでこんなに心臓がうるさいなんて思わなかった。
恋人になったあとも、手をつなぐだけで大事件だと思っていた。
でも、どうやらまだまだ先があったらしい。
たったひとつ、額にキスをされただけで。
私の中のいろんなものが、また少しだけ変わってしまった気がする。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、ひまりが一秒で異変に気づいた。
「おはよ」
「……おはよう」
「はい、来ました」
「何が」
「昨日の余韻、まだ全身に残ってますの顔」
「やめて」
「無理」
ひまりは前の席に座って、頬杖をつく。
「今日、朝からずっとぼんやりしてる」
「……」
「額?」
私は危うく鞄を落としかけた。
「何で分かるの」
「分かるよ」
「何で」
「だって、その話してからずっと栞、ちょっとだけ顔がふわふわしてるもん」
「……」
「嫌じゃなかったんでしょ」
私は小さく視線を落とした。
「……嫌じゃなかった」
「うん」
「びっくりしたけど」
「うん」
「……うれしかった」
ひまりは少しだけにやっとした。
「知ってる」
「何で」
「その顔」
もう最近、全部それで済まされている気がする。
でも、否定できないのが悔しい。
「で?」
ひまりが続ける。
「今日、会ったらまた意識するやつ?」
「……たぶん」
「いや、絶対でしょ」
「……」
「目、合わせられる?」
「分からない」
「じゃあ今日は一条くんが死ぬほど楽しそうだね」
「ひまり」
「何」
「そういう実況ほんとやめて」
「でも事実になりそう」
その予想は、たぶんかなり当たっていた。
◇ ◇ ◇
ホームルーム前。
教室の入り口が少しだけざわついて、私は反射みたいに顔を上げた。
恒星くんがいる。
いつも通りの制服姿。
でも目が合った瞬間、私は昨日のことを一気に思い出してしまった。
額に触れたやわらかい感触。
近かった顔。
少しだけ低い声。
「……っ」
私はほとんど反射で視線を落とした。
だめだ。
これ、まともに見たら本当に無理だ。
でも、そんな私の前に、恒星くんは当然みたいに来る。
「おはよう」
「……おはよう」
どうにか返す。
でも、声は少しだけ固かったかもしれない。
恒星くんは一瞬だけ黙って、それから少しだけ口元をゆるめた。
「今日」
「……何」
「分かりやすすぎる」
「……」
「昨日のこと、まだ引きずってる顔」
私は思わず眼鏡の位置を直した。
図星すぎる。
「……恒星くんこそ」
「うん?」
「ちょっと、楽しそう」
「うん」
「認めるんですね」
「だって、栞がその反応だから」
さらっと言われて、私はもう何も言い返せなくなった。
「……」
「ねえ」
恒星くんが少しだけ声を落とす。
「昨日の、ほんとに嫌じゃなかった?」
その問いに、私は一瞬だけ息を止めた。
昨日も聞かれた。
でも今日、もう一度聞くということは、それだけ気にしているということだ。
「……嫌じゃなかった」
私はゆっくり言った。
「うん」
「むしろ」
「……」
「かなり、引きずってる」
そう言うと、恒星くんが一瞬だけ言葉を失ったみたいに目を見開いた。
次の瞬間、ほんとうに嬉しそうに笑う。
「……それ、かなりうれしい」
「最近それしか言ってない」
「本当にそうだから」
「……」
「俺だけじゃなかったんだ」
その一言に、私は少しだけ胸があたたかくなる。
彼も昨日のことを引きずっていたのかもしれない。
そう思うと、今の落ち着かなさも、少しだけ特別に思えた。
◇ ◇ ◇
一時間目と二時間目の間の休み時間。
私は廊下の窓際で、提出物の確認をしていた。
そこへ、恒星くんがやってくる。
もう最近はそれが自然になってきているのに、今日はやっぱり少しだけ特別に感じる。
「手伝う」
「……大丈夫」
「知ってる」
「じゃあ」
「でも、話したいから」
その言い方がもうずるい。
私は少しだけため息をついて、手元の紙を整えた。
「何を」
「昨日の続き」
「……」
「栞が思ってるより、俺あれ気にしてる」
「何を」
「どう受け取られたか」
私は少しだけ目を伏せた。
そうだろうと思う。
恒星くんは、こういうことをしたあとに平然としている人じゃない。
ちゃんと、私の気持ちの方を見ようとする人だ。
「……ほんとに嫌じゃなかった」
私はもう一度、ちゃんと言う。
「うん」
「びっくりしたし」
「うん」
「すごく意識したし」
「うん」
「今日もまだ、そこ熱い気がする」
そこまで言うと、恒星くんが小さく息を止めた。
「……栞」
「何」
「今、それはだいぶ危ない」
「何が」
「俺の方が」
あまりにも正直な言い方で、私は少しだけ笑ってしまう。
「……そんなに?」
「そんなに」
「……」
「今日、朝からずっと」
「うん」
「もう一回したいって思ってた」
私は本気で固まった。
廊下だ。
昼休み前だ。
まわりに人もいる。
なのに、この人は。
「……恒星くん」
「うん」
「そういうの、学校で言わないでください」
「ごめん」
「……」
「でも本当だから」
いつもの返し。
でも今日は、その“本当”がいつも以上に重く響く。
私は少しだけ視線を逸らして、窓の外を見た。
春の光はやわらかいのに、胸の中だけが忙しすぎる。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひまりにその話をしたら、案の定ものすごく喜ばれた。
「うわ」
「だからその反応」
「いや、だって」
ひまりはお弁当を持ったまま、完全に面白がっている顔だった。
「一条くん、もう“次”のこと考えてるじゃん」
「……」
「で、栞は?」
「何が」
「嫌じゃなかった?」
「……嫌じゃない」
「うん」
「でも」
「うん」
「言われると、ほんとに無理」
「何が」
「心臓」
ひまりは机に突っ伏した。
「かわいい」
「何で」
「だって完全に恋してる人の反応じゃん」
「……」
「でもさ」
ひまりは少しだけやわらかい声になる。
「それって、ちゃんと“触れられること”が嬉しいってことでもあるよね」
私は少しだけ黙った。
嬉しい。
たしかに、それもある。
怖さだけじゃない。
恥ずかしいだけでもない。
彼に触れられることが、ちゃんと特別で、ちゃんと嬉しい。
そのことを、私はたぶん、昨日より今日の方がはっきり分かっていた。
「……うん」
小さく頷くと、ひまりは満足そうに笑った。
「よし」
「何が」
「恋人レベル、また一段階上がった」
「勝手にレベル制にしないで」
「でも事実だよ」
私は返す言葉をなくして、小さくため息をついた。
でも、そのため息には少しだけ笑いも混ざっていた。
◇ ◇ ◇
放課後、恒星くんと一緒に帰る途中。
駅までの道は昨日より少しだけ静かだった。
でも、その静けさが嫌じゃない。
話さなくても、隣にいるだけで少し落ち着く。
それが前より自然になってきている気がする。
「ねえ」
恒星くんが言う。
「何」
「今日は昨日より、ちゃんと隣にいる感じする」
「……」
「栞が」
私は少しだけ歩幅を整えた。
「……昨日より」
「うん」
「落ち着いてるから?」
「それもある」
「……」
「あと、昨日のこと、ちゃんと共有できたから」
その言い方に、私は少しだけ目を上げた。
共有。
たしかにそうだ。
ただキスされた、だけじゃない。
そのあとどう思ったか、どう感じたかを、ちゃんと二人で言葉にできた。
だから今のこの落ち着きがあるのかもしれない。
「……恒星くん」
「何」
「昨日の」
「うん」
「嫌じゃなかった、って」
「うん」
「何回も言わせてごめんなさい」
そう言うと、恒星くんは少しだけ笑った。
「何回でも聞きたいからいい」
「……」
「その代わり」
「何」
「次は、もう少しちゃんと準備したい」
「準備?」
「うん」
「何の」
「……」
「……」
「キス」
私はその場で立ち止まりそうになった。
でも、ぎりぎりで踏みとどまる。
「……恒星くん」
「うん」
「今さらっと言いましたよね」
「うん」
「……」
「だめ?」
その聞き方はずるい。
だめかどうかなんて、今の私にはすぐに言えない。
「……今は」
私はようやくそう言った。
「今は?」
「……まだ、心臓が追いついてない」
恒星くんは少しだけ目を細めて、それからやわらかく頷いた。
「分かった」
「……」
「じゃあ、追いつくまで待つ」
「……」
「でも、追いついたら教えて」
私はもう、それ以上返せなかった。
顔が熱い。
でも、嫌じゃない。
その未来を少しだけ想像してしまった自分がいるから、余計に困る。
◇ ◇ ◇
帰りの電車に乗る前、ホームで並んで立ちながら、私はふと自分の額に触れた。
もちろん、もう何も残っていない。
でも、思い出すたびそこが少しだけ熱い気がする。
キスひとつで、恋人の距離はまた少し変わる。
そういうことなのだと思った。
たった一瞬。
でも、その一瞬が、こんなにも長く心に残る。
そして、その余韻を二人で共有できることが、前よりずっと大事に思えた。
「……ほんとに、すごい」
小さくつぶやくと、恒星くんがこちらを見る。
「何が?」
「……何でもない」
「栞、最近“何でもない”のとき、だいたい甘いこと考えてる」
「恒星くん」
「何」
「それ、ずるいです」
「知ってる」
私は少しだけ笑って、それからホームに入ってくる電車を見た。
昨日までより、今日の方が少し近い。
たぶん、そうやって一つずつ、恋人になっていくのだ。




