第47話 彼氏が独占欲を隠さなくなると、甘さが危険です
私は最近、ひとつだけ新しく知ったことがある。
一条恒星は、たぶん思っていたより独占欲がある。
もちろん、付き合う前から少しはあった。
私が他の人と話していると、少しだけ不機嫌そうになったり、静かに距離を詰めてきたり。
でもあの頃は、まだ“気のせいかもしれない”と言い逃れできる余地があった。
今は違う。
恋人になってからの恒星くんは、やさしい。
びっくりするくらいやさしい。
私の小さな不安をちゃんと見て、言葉で安心させようとするし、無理に急がせたりもしない。
でも、そのやさしさの奥に、時々すごく分かりやすいものがのぞく。
それが、独占欲だ。
「……だめだなあ」
朝、駅へ向かう道で私は小さくつぶやいた。
何がだめなのかというと、その独占欲を、私は思ったより嫌じゃない、ということだ。
むしろ、ちょっとだけ、うれしい。
そこがかなり危ない。
◇ ◇ ◇
教室へ入ると、ひまりが私の顔を見るなり、いつものようににやっとした。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日は何」
「何が」
「“昨日の続きで、彼氏の独占欲をちょっと思い出してます”の顔」
「ひまり」
「図星」
私は鞄を机に置いて、小さく息をついた。
「何でそんなに分かるの」
「分かるよ」
「……」
「栞、最近ちょっと表情が増えたもん」
ひまりは前の席に座って頬杖をつく。
「で、何があったの」
「……何かあったっていうか」
「うん」
「ちょっと思い返してた」
「一条くんの嫉妬?」
「……」
「図星」
反論できない。
前に他の男子と話していたときに、恒星くんが少しだけ不機嫌そうになったこと。
そのあと、私が“可愛いって思いました”と言ったら、理性が危ないとか言い出したこと。
そういうのを、なぜか時々思い出してしまうのだ。
「栞」
ひまりが急に真面目な顔になる。
「それ、嫌じゃないんでしょ」
「……」
「はい沈黙」
「……嫌ではない」
「うん」
「でも、だから困る」
「何で」
「だって」
私は少しだけ視線を落とした。
「独占欲って、もっと重いとか、怖いとか、そういうイメージだったし」
「うん」
「でも恒星くんのは」
「うん」
「……ちょっと、甘い」
ひまりは一瞬黙って、それから机に突っ伏した。
「だめだ、今日も糖度高い」
「何で」
「それ完全に“彼氏の嫉妬にきゅんとする彼女”じゃん」
「やめて」
「でも事実」
私は何も言い返せなかった。
だって、その通りだったから。
◇ ◇ ◇
一時間目の休み時間、私は先生に頼まれて隣のクラスまでノートを届けに行った。
ほんの数分の用事だ。
廊下に出て、ノートを手にして歩く。
その途中で、たまたま同じ学年の男子――体育祭の実行委員で一緒になったことのある子に声をかけられた。
「あ、朝比奈さん」
「……あ、こんにちは」
「この前の委員会のプリント、先生に出しといてくれた?」
「うん、出したよ」
「助かった。ありがと」
それだけの、ほんとうに普通の会話だった。
なのに、その男子は少し話しやすいタイプらしく、そのまま気軽な調子で続ける。
「そういえばさ、次の委員会また一緒だよね」
「……たぶん」
「朝比奈さんって真面目だから助かるんだよな」
「……そんなことないよ」
「あるって。あと」
彼は少しだけ笑う。
「意外と話すとおもしろいし」
私はどう返していいか分からず、少しだけ困ってしまった。
そのとき。
「栞」
後ろから名前を呼ばれて、私は反射的に振り向いた。
恒星くんだった。
その顔を見た瞬間、私は少しだけ息を止める。
笑ってはいない。
怒っているわけでもない。
でも、明らかに“機嫌がいいとは言えない顔”をしていた。
「先生、探してた」
彼は私を見てそう言う。
声は穏やかだ。
でも、ほんの少し低い。
「……え、ほんと?」
「うん。職員室」
「……分かった」
私は男子の方を見て、小さく頭を下げた。
「ごめん、行かなきゃ」
「あ、うん」
彼は少しだけ気まずそうに笑う。
「じゃあまた委員会で」
「……うん」
そこで会話は終わった。
でも、終わったあとも、胸の奥が妙にざわざわする。
恒星くんは私の横に並んで歩き出した。
でも、職員室の方へ向かう気配はない。
「……先生、探してるって」
私が言うと、恒星くんは前を向いたまま返した。
「嘘」
「……え」
「ごめん」
「……」
「でも、あれ以上話されるの嫌だった」
私は一瞬だけ言葉を失った。
あまりにもはっきりしていたからだ。
ごまかしも、取り繕いもなく。
嫌だった、と。
「……恒星くん」
「うん」
「今の」
「うん」
「かなり彼氏っぽいです」
「彼氏だから」
さらっと返されて、私はもう何も言えなくなった。
◇ ◇ ◇
人通りの少ない階段の踊り場まで来たところで、恒星くんが足を止めた。
「ごめん」
彼がもう一度言う。
「先生のこと、嘘ついた」
「……」
「でも」
少しだけ目を伏せる。
「栞が、ああいうふうに笑ってるの、俺以外に見せられると、ちょっと無理」
私は息を止めた。
笑ってるの。
ああいうふうに。
俺以外に。
そんなふうに、細かいところまで見ていたんだ。
そして、それをちゃんと嫌だと思っていたんだ。
「……」
「引いた?」
恒星くんが少しだけ困ったように聞く。
私は少しだけ首を振った。
「……引いてない」
「ほんとに?」
「……うん」
「じゃあ」
「でも」
私は少しだけためらって、それでも正直に言った。
「ちょっと、うれしい」
言った瞬間、恒星くんが本気で固まった。
「……え」
「だって」
自分でも恥ずかしい。
でも、誤魔化したくなかった。
「彼氏が、そう思うくらい」
「……」
「ちゃんと私のこと、彼女として見てるってことでしょ」
そこまで言うと、恒星くんが小さく息を吐いた。
それは、こらえていたものが漏れたみたいな音だった。
「……栞」
「何」
「今の、かなり危ない」
「何が」
「全部」
その返しに、私は少しだけ笑ってしまう。
でも、笑いながらも胸は熱かった。
彼の独占欲は、怖くない。
少なくとも、今の私には。
それはたぶん、彼がちゃんとやさしいからだ。
ただ縛りたいわけじゃなくて、私のことを大事にしたい中から出てくる感情だから。
「……でも」
恒星くんが少しだけ声を落とす。
「俺以外にそんな顔しないで」
私はもう、心臓がどうにかなるかと思った。
「そんな顔って」
「今の、ちょっと困って、でも笑ってるみたいな顔」
「……」
「好きだから」
あまりにもまっすぐで、私は視線を逸らすしかなかった。
「……恒星くん」
「うん」
「それ、かなり甘い独占欲です」
「そう?」
「そうです」
「でも本音」
「……」
「だめ?」
だめ、なわけがない。
でも、それをそのまま言うのも悔しい。
「……少しだけ」
「少しだけ?」
「心臓に悪い」
そう返すと、恒星くんが少しだけ笑った。
その笑い方が、さっきまでよりずっとやわらかい。
◇ ◇ ◇
昼休み、私はひまりにその話をした。
「待って」
「何」
「それ、かなりやばくない?」
「……何が」
「“先生が探してる”って嘘ついてでも止めたんでしょ?」
「……うん」
「で、“俺以外にそんな顔しないで”?」
「……」
「うわぁ」
「だからその反応」
ひまりは完全に楽しそうだった。
でも、そのあと少しだけ真面目な顔になる。
「でもさ」
「何」
「それ、栞がちゃんと受け取れるようになったの大きいね」
「……」
「前なら“怖い”か“面倒”で終わってたかもじゃん」
「……そうかも」
「今は“うれしい”って思える」
「……」
「それって、ちゃんと信頼してるってことだと思う」
私はその言葉に少しだけ黙った。
信頼。
たしかに、それが近いのかもしれない。
彼の独占欲を、私は“支配される”ものとして感じていない。
“私を大事に思ってる証拠”として受け取れている。
それはつまり、彼がちゃんと私を傷つけないと、どこかで信じているからだ。
そう考えると、少しだけ胸があたたかくなった。
◇ ◇ ◇
その日の放課後、私たちはいつものように一緒に帰ることになった。
朝のことを引きずるかな、と思ったけれど、恒星くんは思っていたより普通だった。
いや、普通を装っているだけかもしれない。
でも、そうして整えようとしてくれているのが分かる。
駅までの途中、信号待ちで立ち止まったとき、私は小さく言った。
「……今日」
「うん?」
「朝のこと」
「うん」
「ちょっとだけ、びっくりした」
「……」
「でも」
私は少し迷って、それでも続ける。
「嫌じゃなかった」
恒星くんがこちらを見る。
その目に、少しだけ安堵が浮かぶ。
「そっか」
「うん」
「俺、ああいうの」
「うん」
「我慢できると思ってたんだけど」
「……」
「彼氏になったら、思ってたよりだめだった」
私は思わず少しだけ笑ってしまった。
「何で笑うの」
「だって」
「うん」
「ちょっと、可愛いので」
言った瞬間、恒星くんが本気で黙った。
信号が青に変わって、人が歩き出しても、彼だけ少しだけ動きが遅れる。
「……今の、かなり効いた」
「最近そればっかり」
「だって」
歩き出しながら、彼が少しだけ困ったように笑う。
「栞がそういうこと言うの、たまにだから余計に」
私は少しだけ視線を落とした。
そうかもしれない。
私はまだ、好きとか、可愛いとか、そういうまっすぐな言葉を渡すのがうまくない。
でも、だからこそ、たまに言うとちゃんと届くのだろう。
それは少しだけ怖いけれど、同時にうれしかった。
◇ ◇ ◇
改札の前で、恒星くんがふいに立ち止まった。
「栞」
「何」
「今日の朝みたいに」
「うん」
「また嫌なときは、ちゃんと言って」
「……」
「我慢はできるから」
「……」
「でも」
少しだけ笑う。
「嫌じゃないなら、たぶんまた出る」
その正直さに、私はもう笑うしかなかった。
「……たぶん」
「うん」
「すぐには慣れないけど」
「うん」
「でも、ちゃんと受け取るようにはしたい」
そう言うと、恒星くんの表情が少しだけやわらいだ。
「うれしい」
「またそれ」
「本当にそうだから」
私はもう、それ以上は何も言わなかった。
彼氏が独占欲を隠さなくなると、甘さが危険です。
でも、たぶん私は、その危険な甘さに少しずつ慣れていくのだと思う。




