第45話 あなたの彼女になっても、まだ自信がないままです
額にキスをされた翌朝、私は目が覚めた瞬間に枕へ顔を埋めた。
「……むり」
最近ずっと言っている気がする。
でも、今日の“むり”は昨日までと少し種類が違った。
額。
たったそれだけなのに、昨日のあのやわらかい感触は、思い出すたびに胸の奥をじんわり熱くする。
唇じゃない。
もっと穏やかで、でもちゃんと特別で、言葉より深く残る感じ。
しかも、その前に私は、自分に自信がないことも、ちょっとしたことで不安になることも、ぜんぶ話してしまった。
話してしまったのに、恒星くんは面倒だなんて一度も言わなかった。
むしろ、“不安になるたび、ちゃんと俺を使って”なんて、またあの人らしくずるいことを言った。
そのうえで、額にキス。
「……ほんとに、どうしたらいいんだろう」
私は布団の中でごろりと寝返りを打った。
好きだ。
ちゃんと好きだ。
それはもう、かなりはっきりしている。
でも、彼女になったからって、急に自信がつくわけじゃない。
むしろ、好きだからこそ不安になることもある。
近づいたからこそ、小さな温度差に敏感になる。
昨日、ちゃんと話せてよかった。
でも、話したから終わり、という感じでもない。
たぶんこれは、これからも何度か繰り返すのだと思う。
そのたびに、少しずつ、慣れていくのかもしれない。
「栞ー」
母の声が廊下から響く。
「起きてるなら返事しなさい」
「起きてるー」
「今日は何か、また違う顔してそうね」
「何その予告」
「最近のお母さん、だいぶ勘が冴えてるから」
「嫌な冴え方」
でも、そんなやり取りをしながら、私は少しだけ笑ってしまった。
昨日の私は、少し泣きそうで、少しだけ救われていた。
今朝の私は、その続きをちゃんと自分の中に置けている気がする。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、ひまりが私を見るなり、ものすごく分かりやすい顔をした。
「おはよ」
「……おはよう」
「はい来ました」
「何が」
「昨日の続き、かなり甘かった顔」
「ひまり」
「額?」
私は危うく鞄を落としかけた。
「何で分かるの」
「分かるよ、その顔」
「……」
「しかも、嫌じゃなかった顔」
私は返す言葉がなかった。
だって、図星だったから。
ひまりは前の席に座って、楽しそうに頬杖をつく。
「で?」
「何」
「今朝の感想」
「……」
「栞」
「……まだ、そこが熱い気がする」
ひまりが一瞬だけ目を見開いて、それから机に額を打ちつけそうな勢いでうなだれた。
「無理」
「何が」
「甘すぎる」
「……」
「でもさ」
ひまりは顔を上げて、少しだけ真面目に言う。
「昨日、ちゃんと本音話せてよかったね」
「……うん」
「栞が“彼女になってもまだ自信ない”って言えたの、すごい大きいと思う」
私は少しだけ目を伏せた。
たしかに、そうかもしれない。
昨日の私は、ちゃんと“不安”を渡した。
嬉しいとか、好きとか、そういう綺麗な感情だけじゃなくて、弱いところもちゃんと見せた。
それを恒星くんは、拒まなかった。
だから今の私は、昨日よりほんの少しだけ落ち着いていられる。
「……でも」
私は小さく言う。
「まだ、また同じこと不安になりそう」
「うん」
「それって、だめかな」
「全然」
ひまりはあっさり答えた。
「一回言ったら一生不安ゼロになる方が逆に怖い」
「……」
「栞はたぶん、そういうのを何回か越えて、自分の場所にしてくタイプでしょ」
その言葉が、妙にしっくりきた。
自分の場所にする。
そうなのかもしれない。
彼の隣も、“彼女”という言葉も、きっと少しずつ慣れていくのだ。
◇ ◇ ◇
朝のホームルーム前、恒星くんはいつも通り教室に来た。
でも、目が合った瞬間に私はすぐ分かった。
今日は、向こうもちょっとだけ意識している。
たぶん昨日のことを。
「おはよう」
彼が穏やかに言う。
「……おはよう」
私が返すと、彼はほんの少しだけ目を細めた。
「今日」
「……何」
「昨日よりやわらかい顔」
「……」
「ちゃんと眠れた?」
「……そこそこ」
「その返し、信用してない」
「何で」
「額のこと、まだ引きずってる顔だから」
私は反射的に眼鏡の位置を直した。
図星すぎる。
「……恒星くん」
「うん」
「朝からそういうの、禁止です」
「どうして」
「心の準備が」
「それは、ごめん」
そう言いながらも、彼は少しだけ楽しそうだった。
でも、その笑い方の奥に、ちゃんと確認したい気持ちも見える。
「……昨日の」
恒星くんが少しだけ声を落とす。
「嫌じゃなかった?」
私は一瞬だけ息を止めた。
やっぱり、そこを確認するんだ。
あの人らしいと思う。
やったあとに平然としていないで、ちゃんと受け取り方を気にしてくれる。
「……嫌じゃなかった」
私はゆっくり言った。
「びっくりしたけど」
「うん」
「……でも」
少しだけ勇気を出して、彼を見る。
「うれしかったです」
その瞬間、恒星くんの表情がふわっとほどけた。
あまりにも分かりやすく。
「……よかった」
「……」
「それ、今日一番聞きたかった」
その言い方に、私はまた胸の奥が熱くなる。
自分だけが昨日のことを引きずっていたわけじゃない。
彼も同じように、ちゃんと大事にしていたのだ。
◇ ◇ ◇
昼休み。
私は珍しく、自分から恒星くんを中庭へ呼んだ。
ほんの少しだけ、昨日の続きを自分から話したかったのだ。
昨日は、ほとんど彼に受け止めてもらうばかりだったから。
「呼ばれるの珍しい」
ベンチに座りながら、恒星くんが少しだけ笑う。
「……そうかも」
「うれしい」
「最近そればっかり」
「でも本当」
私は小さく息をついて、少しだけ視線を落とした。
「昨日」
「うん」
「ありがとう」
「何が」
「ちゃんと聞いてくれて」
「……」
「私、彼女になったのに、まだすぐ不安になるし」
「うん」
「自信もないし」
「うん」
「だから、そういうの言うの、ちょっと怖かった」
恒星くんは何も挟まずに聞いていた。
その沈黙がありがたくて、私は少しだけ言葉をつなぎやすくなる。
「でも」
「うん」
「言ってよかった」
「……」
「ちゃんと、安心できたから」
そこで恒星くんが少しだけ目を細めた。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、俺も昨日ちゃんと言えてよかった」
「何を」
「不安になるたび、俺を使ってって」
私は思わず少しだけ笑ってしまった。
「その言い方、やっぱりちょっと変」
「でも意味は伝わるでしょ」
「……うん」
「ならいい」
その返しが恒星くんらしくて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「……でも」
私は少し迷って、それでも正直に言う。
「たぶん、また同じようなことで不安になると思う」
「うん」
「何回も」
「うん」
「それでも、大丈夫?」
その問いに、恒星くんは少しも迷わなかった。
「大丈夫」
「……」
「何回でも聞く」
「……」
「そのたび、ちゃんと安心させる」
そのまっすぐさに、私は少しだけ泣きそうになる。
でも今日は、ちゃんと笑いたかった。
「……甘い」
「知ってる」
「でも」
私は小さく言った。
「好きです、そういうの」
言ってから、自分で少しだけ目を見開いた。
今のはかなり自然に出た。
でも、だからこそ本音だった。
恒星くんも一瞬だけ息を止める。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「今の、かなり危ない」
「何が」
「好きって言われるたび」
「……」
「もっといろいろしたくなる」
「恒星くん」
「うん」
「昼休みです」
「知ってる」
「学校です」
「知ってる」
「……」
「でも、今のは嬉しかったから」
私はもう、それ以上何も返せなかった。
◇ ◇ ◇
その日の放課後。
駅までの帰り道で、私たちは昨日より少しだけ自然に並んで歩いていた。
何か大きく変わったわけじゃない。
でも、昨日の話の続きを今日ちゃんとできたことで、見えないところが少し落ち着いた気がする。
「ねえ」
恒星くんが言う。
「何」
「昨日の続きみたいなこと言っていい?」
「……少しだけなら」
「少しだけなんだ」
「……心の準備がいるので」
彼は少し笑って、それからほんの少しだけ真面目な顔になった。
「昨日のキス」
「……」
「次は、もっとちゃんとしたい」
私はその場で固まりかけた。
もっとちゃんと。
その言葉の意味は、分からないわけがない。
「……恒星くん」
「うん」
「そういうの」
「うん」
「前置きしてもだめです」
「どうして」
「結局、心臓に悪いので」
「そっか」
「……」
「でも、覚えておいて」
その声が少し低くなる。
「ちゃんと大事にしたいって意味で言ってるから」
私は小さく息を吸った。
そうだ。
この人の言葉は、いつもそうだ。
触れたいとか、甘やかしたいとか、そういうものの奥に、ちゃんと大事にしたい気持ちがある。
だから私は、怖いのに、ちゃんと嬉しいのだ。
「……うん」
小さく頷くと、恒星くんはやわらかく笑った。
「ありがとう」
「……」
「今日の栞、昨日よりちゃんと安心してる顔してる」
「……そうですか」
「うん」
「それは」
私は少しだけ視線を落とした。
「たぶん、恒星くんのせいです」
「うれしい」
「最近ほんとにそればっかり」
「でも本当にそうだから」
私は少しだけ笑ってしまう。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の窓に映る自分を見ながら、私は小さく息を吐いた。
あなたの彼女になっても、まだ自信がないままです。
でも、その自信のなさを、少しずつ受け止めてもらえている。
不安になるたび。
嬉しくなるたび。
こうして言葉を交わしていけるなら、きっと私は前よりちゃんと進める。
そして、昨日の額へのキスは、今日になってもまだ胸の奥をやわらかく熱くしていた。




