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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第44話 近づいたからこそ、些細なすれ違いが少し怖い

 恋人になってから、私は前よりずっとたくさんの“嬉しい”を知った。


 名前で呼ばれること。

 手をつなぐこと。

 帰り道を一緒に歩くこと。

 そして、人前で“彼女”と言われること。


 どれも少し前の私には遠いものだった。

 でも今は、それが少しずつ現実になっていて、そのたびに胸が甘くなる。


 ――だからこそ、なのかもしれない。


 うまくいっていると感じるほど、私は時々、ほんの小さなことが怖くなる。


 言葉の温度が少し違っただけで。

 視線の向きが一瞬ずれただけで。

 何でもないはずの沈黙に、意味を探してしまう。


 それはきっと、近づいたからだ。

 遠いままなら、傷つかずに済む曖昧さがあった。

 でも今は違う。

 嬉しいことが増えた分だけ、少しのズレも前より大きく感じてしまう。


 そのことを、私はまだうまく扱えなかった。


   ◇ ◇ ◇


 その日の朝、空は少しだけ曇っていた。


 教室に入ると、ひまりが私の顔を見るなり、少し首をかしげた。


「おはよ」

「……おはよう」

「今日、ちょっと固い」

「何が」

「顔」

「……そう?」

「うん。何かあった?」

 私は鞄を机に置きながら、小さく首を振った。

「何も」

「何もない顔ではない」

「……」

「恒星くん関係?」

 その呼び方に、私は少しだけ胸の奥が揺れる。

 もう自然にそう呼ばれることに慣れ始めているのに、自分の中ではまだそのたびに少しだけ意識する。


「……昨日」

「うん」

「メッセージ、少しだけ少なかった」

 言ってから、自分でかなり面倒くさいことを言っている気がして、私は目を伏せた。


 昨日、夜に少しやり取りをした。

 でも恒星くんは家の用事があったらしく、返信がいつもより短くて、終わるのも早かった。

 それだけだ。

 ほんとうに、それだけ。


 分かっている。

 分かっているのに、少しだけ引っかかってしまった。


「……ああ」

 ひまりが納得したように頷く。

「それは、近づいた証拠だね」

「何それ」

「前なら“返信が来た”だけで十分嬉しかったでしょ」

「……」

「今は、その温度差まで気になる」

「……」

「恋人あるある」

 私は机の端を指でなぞった。


 恋人あるある。

 そんな軽い言葉にしてしまっていいのか分からないくらい、私の中では少し重かった。


「でも」

 ひまりがやわらかい声で続ける。

「今日会えば分かることもあるでしょ」

「……」

「文字だけで決めない方がいいよ」

 その言葉は、その通りだった。


 私は、相手の顔を見る前に不安になりがちだ。

 でも恒星くんは、会えばちゃんと分かるタイプの人だということも、もう少しずつ知ってきている。


 それでも、完全には落ち着けなかった。


   ◇ ◇ ◇


 ホームルーム前、恒星くんはいつも通り教室に来た。


「おはよう」

「……おはよう」

 その声も顔も、ちゃんとやわらかい。

 それだけで、胸の奥のざわつきは少しだけ軽くなる。


 でも、今日はほんの少しだけ違った。

 彼は先生に呼ばれていたらしく、すぐに職員室へ向かわなければならなかった。


「ごめん、今ちょっとだけ忙しい」

「……うん」

「あとで話す」

「……」

「栞?」

「……分かりました」

 私はできるだけ普通に返したつもりだった。

 でも、自分でも少しだけ声が固かった気がする。


 恒星くんは一瞬だけ何かを言いかけた。

 でも、先生にもう一度呼ばれて、そのまま行ってしまう。


 残された私は、自分の机に座りながら、小さく息を吐いた。


 何も悪いことはない。

 むしろ、ちゃんと“あとで話す”と言ってくれた。

 それなのに、どこか少しだけ寂しいと思ってしまった自分が嫌だった。


 こんなの、ほんとうに面倒くさい。


   ◇ ◇ ◇


 午前中は、その少しのズレをずっと引きずってしまった。


 恒星くんは授業の合間に一度だけこちらを見て、少し申し訳なさそうに目を細めた。

 たぶん、本当にただ忙しいだけなのだ。

 それくらい、ちゃんと分かる。


 分かるのに。

 分かるからこそ、余計に“それでも寂しかった”と感じてしまう自分が嫌になる。


 昼休み、私は購買へ行くふりをして、少しだけ教室から離れた廊下にいた。

 逃げているわけではない。

 でも、顔を整えたかった。


 そのとき、後ろから足音が止まる。


「栞」

 名前を呼ばれて、私は少しだけ肩を揺らした。


 振り返ると、恒星くんがいた。

 少し息が上がっている。

 走ってきたのかもしれない。


「……どうしたの」

「栞がいないから」

「……」

「探した」

 私は何も言えなかった。


 探した。

 その一言で、胸の奥の寂しさが一瞬で甘さに変わりそうになる。

 でも、だからこそ素直になれない部分もあった。


「朝」

 恒星くんが静かに言う。

「ちょっと冷たかった」

「……」

「ごめん」

 私は思わず顔を上げた。


「何で恒星くんが謝るの」

「忙しくて、ちゃんと見られなかったから」

「……」

「栞、少し顔違ったのに」

 その言葉に、私は少しだけ息を止めた。


 ちゃんと見られなかった。

 でも、見ようとはしていたんだ。

 そこがこの人らしくて、私はまた胸が苦しくなる。


「……私の方こそ、ごめん」

 小さく言う。

「何が」

「少しだけ」

「うん」

「……勝手に、寂しくなった」

 言った瞬間、顔が熱くなる。

 こんなことを口にするのは、やっぱりまだ少し恥ずかしい。


 でも、恒星くんは笑わなかった。

 むしろ、少しだけやわらかく目を細めた。


「そっか」

「……」

「それ、ちゃんと言ってくれてありがとう」

 私はその返事に、少しだけ目を見開いた。


 面倒くさいって思われるかもしれない。

 重いって思われるかもしれない。

 少なくとも、私の中にはそういう怖さがまだある。


 でも恒星くんは、それを“ありがとう”で返してきた。


「……重くない?」

 思わず聞くと、彼は少しだけ苦笑した。

「どこが」

「だって」

「俺、嬉しいよ」

「……」

「寂しかったって、ちゃんと教えてくれるの」

 その言葉が、思っていた以上にやさしくて、私は少しだけ喉の奥がつまった。


「でも」

 恒星くんが続ける。

「朝、俺も少しだけ焦ってた」

「……え」

「ちゃんと話したかったのに時間なくて」

「……」

「だから、今会えてよかった」

 私は息を吐く。

 少しだけ、体の力が抜けた気がした。


 そうか。

 私だけじゃなかったのだ。

 少しずつずれて、それが気になっていたのは。


   ◇ ◇ ◇


 午後、私たちはいつものように放課後に少しだけ一緒に帰ることになった。


 でも今日は、少しだけ空気が違う。

 ぎこちないというより、お互いに少し慎重になっている感じだ。


 駅までの途中、恒星くんが小さく言った。


「ねえ」

「何」

「さっきの続き、ちゃんと話したい」

 私は少しだけ頷いた。

「……うん」


 駅前のベンチに座る。

 少し風があって、春なのに夕方はまだ少しだけ冷たい。


「栞」

 恒星くんが静かに言う。

「今も、少し不安?」

「……少し」

「うん」

「でも、朝よりはだいぶ」

「そっか」

 そこで、私は少しだけ迷った。

 でも、今日はちゃんと言うと決めた。


「……私」

「うん」

「彼女になっても、まだ自信がない」

 恒星くんは何も挟まずに聞いてくれる。

 その沈黙に背中を押されるみたいに、私は続けた。


「だから」

「うん」

「ちょっとしたことで、すぐ変なふうに考える」

「……」

「昨日のメッセージが少なかっただけで、不安になったり」

「……」

「朝、少ししか話せなかっただけで、寂しくなったり」

「……」

「自分でも面倒くさいと思う」

 言い終わるころには、少しだけ目が熱かった。

 泣くほどではない。

 でも、それに近い揺れは確かにあった。


 恒星くんはしばらく黙っていた。

 それから、ほんの少しだけ身体をこちらに向ける。


「面倒くさくない」

「……」

「そうなるくらい、ちゃんと好きになってくれてるってことでしょ」

 私は言葉を失った。

 また、そうやって、欲しい言葉をくれる。


「でも」

 彼は続ける。

「不安になるたび、ちゃんと俺を使って」

「……え」

「聞いて」

「……」

「寂しかったら、寂しいって言って」

「……」

「俺、そういうののために彼氏になったから」

 その言葉があまりにも甘くて、私はもう、本当にどうしたらいいのか分からなかった。


 彼氏になったから。

 不安を受け止めるためにも。

 そんなふうに言う人が、本当にいるんだと思う。


「……恒星くん」

「うん」

「それ」

「うん」

「甘すぎます」

「知ってる」

「……」

「でも、本気」

 私は少しだけ笑ってしまった。

 泣きそうなのに、笑ってしまう。


 それが、たぶんこの人といるときの私なのだ。


   ◇ ◇ ◇


 しばらく沈黙が落ちたあと、恒星くんがごく自然な動作で少しだけ身を寄せた。


 何をするのかと思った次の瞬間。


 やわらかく、ほんの一瞬。

 額にあたたかいものが触れた。


「……っ」

 私は反射的に目を見開く。


 キス、された。

 額に。

 ごく軽く。

 でも、意味が分からないわけがない。


 恒星くんは少しだけ顔を離して、私を見る。

「……これで、少し安心できる?」

 その問いに、私はすぐには答えられなかった。


 だって、額に触れたその感触が、まだ消えていない。

 心臓は痛いくらい速くて、でも怖さよりも、甘さの方が圧倒的に強い。


「……」

「ごめん」

 彼が少しだけ苦笑する。

「今、たぶん言葉よりそっちの方が伝わる気がして」

 私はようやく、小さく首を振った。


「……嫌じゃない」

「うん」

「びっくり、したけど」

「うん」

「……少し」

「少し?」

「安心した」

 そう言うと、恒星くんの表情がやわらいだ。

「よかった」


 その顔を見た瞬間、私はまた思う。

 好きだ、と。

 怖いのに、やっぱり好きなのだ。


   ◇ ◇ ◇


 帰りの電車の中で、私は窓に映る自分を見ていた。


 頬が、少しだけ赤い。

 でも朝みたいな固さはもうなかった。


 近づいたからこそ、些細なすれ違いが少し怖い。

 でも、その怖さをちゃんと話せるなら、前よりきっと大丈夫だ。


 恋人になるって、完璧になることじゃない。

 不安も、嫉妬も、寂しさも、ちゃんと持ったまま、それでも相手に渡していくことなのかもしれない。


 そう思うと、今日の小さなすれ違いも、少しだけ大事に思えた。

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