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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第43話 “彼女です”の一言が、こんなに嬉しいなんて知らなかった

 翌朝、私は制服のリボンを結びながら、昨日のことを何度も思い返していた。


 知らない女の人に話しかけられて、少しだけざわついたこと。

 家同士の付き合いのある人だと聞いて、余計に胸の奥が重くなったこと。

 それでも恒星くんが、迷いなく――当たり前みたいに――「彼女」と言ってくれたこと。


 あの瞬間の空気を、私はまだうまく言葉にできない。


 緊張した。

 恥ずかしかった。

 ちょっとだけ苦しかった。

 でも、それと同じくらい、たしかに嬉しかったのだ。


 彼女です。


 たったそれだけの言葉なのに、どうしてあんなに胸に残るんだろう。

 しかも、思い出すたびに、嬉しさの方が少しずつ大きくなる。


「……だめだな」


 小さくつぶやいて、私は眼鏡をかけた。


 彼女。

 まだ自分ではその言葉にうまく慣れていない。

 でも、昨日のあの場面で、私はちゃんと知った気がする。


 恋人になるって、二人きりのときだけ甘いものじゃない。

 外の世界に対して、“この人は私の大事な人です”と示されることでもあるのだと。


 それが、思っていた以上に嬉しかった。


   ◇ ◇ ◇


 教室に入ると、ひまりは私の顔を見るなり、少しだけ目を細めた。


「おはよ」

「……おはよう」

「今日は昨日ほど死んでない」

「何その判断基準」

「でもまだ引きずってる」

「……」

「図星」

 私は鞄を机に置いて、少しだけため息をついた。


「分かりやすすぎる」

「栞がね」

「……」

「で?」

 ひまりは前の席に座って、身を乗り出してくる。

「昨日の続き、今朝どうなってるの」

「……」

「ざわざわは?」

「少しはある」

「うん」

「でも」

「うん」

「昨日より、嬉しいの方が残ってる」

 ひまりがにやっとした。

「“彼女”」

「……」

「って言われたのが?」

「……うん」

 小さく認めると、ひまりは頬杖をついてしみじみした顔になる。


「よかったじゃん」

「……」

「栞、そこ大事だよ」

「何が」

「不安だっただけじゃなくて、ちゃんと嬉しかったって思えるの」

 その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。


 たしかに、そうだ。

 知らない女の人にざわついたことばかり覚えているわけじゃない。

 むしろ今の私は、“彼女です”と言われた嬉しさの方を何度も思い返している。


 それはたぶん、私の中でちゃんと居場所ができ始めているということなのかもしれない。


「……でも」

 私は小さく言う。

「まだ、自分でその言葉に慣れない」

「彼女?」

「うん」

「そりゃそうでしょ」

 ひまりはあっさり言う。

「付き合ってまだそんなに経ってないし」

「……」

「でも、そのうち平気な顔で“私の彼氏です”とか言うようになるかもよ」

「絶対無理」

「今はね」

 その“今は”が、少しだけくすぐったかった。


   ◇ ◇ ◇


 一時間目が始まる前、教室の入口が少しざわついた。


 私はもう、呼吸みたいにそちらを見てしまう。


 恒星くんが入ってきた。

 制服姿。整った顔。いつも通りの穏やかな立ち方。

 でも、私に気づいた瞬間だけ、やっぱり少しだけやわらかくなる。


 その違いを見るたび、胸が少しだけあたたかくなる。

 昨日の不安も、こういう瞬間が少しずつほどいてくれる気がした。


「おはよう」

 彼が机のそばまで来て言う。


「……おはよう」

 私が返すと、恒星くんは少しだけ目を細めた。

「今日は昨日より落ち着いてる」

「……そう見えるだけです」

「ほんとに?」

「……たぶん」

「たぶんなんだ」

 そのやり取りがもう、少しだけ自然だ。


 前なら、昨日みたいな出来事があったあと、もっと変にこじれていたかもしれない。

 でも今は、ざわつきを抱えたまま、それでもちゃんと朝の挨拶を交わせている。


「栞」

 名前を呼ばれる。

 その一呼吸分だけ、教室の音が少し遠くなる。


「……何」

「昨日」

「……」

「ちゃんと嫌じゃなかった?」

 声が少し低い。

 でも、やわらかい。

 私は一瞬だけ言葉に詰まった。


 昨日の何を指しているのか、分かる。

 “彼女”と紹介したこと。

 あの場で線を引いたこと。

 それ全部。


「……嫌じゃない」

 私はゆっくり言った。

「うん」

「ちょっと、びっくりしたけど」

「うん」

「でも」

 少しだけ勇気を出して、彼を見る。

「うれしかった」

 その瞬間、恒星くんの表情がふわっとほどけた。

 本当に、分かりやすいくらい。


「……よかった」

「……」

「それ、ずっと気になってたから」

「そんなに?」

「うん」

 彼は少しだけ苦笑する。

「昨日、帰ってからも」

「……」

「ちゃんと嬉しい方が残ってたらいいなって思ってた」

 その言葉に、私は少しだけ息を止めた。


 この人は、こういうところがずるい。

 自分の言葉がどう届いたかを、ちゃんと気にしてくれる。

 私がただ不安に飲まれないように、そう願ってくれているのが分かるから。


「……残ってます」

 小さく言うと、恒星くんはもう隠しもしないで嬉しそうに笑った。

「うれしい」

「最近そればっかり」

「本当にそうだから」

 私は少しだけ笑ってしまう。

 たぶんこうやって、嬉しいを何度も渡されて、少しずつ慣れていくのだろう。


   ◇ ◇ ◇


 昼休み。

 私は中庭の端でひまりと話していた。


「で?」

 ひまりがジュースのパックを持ちながら聞く。

「何が」

「朝、何言われた」

「……」

「その顔、絶対何か言われてる」

「……嫌じゃなかった?って」

「うわ」

「だからその反応」

「いや、だってちゃんと確認してるんだ」

 ひまりは少しだけ感心した顔になる。

「優しいなあ」

「……」

「で、栞は?」

「うれしかったって」

「言えたの?」

「……うん」

 ひまりは机じゃないのに、何かを叩きたそうな顔をした。

「偉い」

「何で」

「そういうの、言わないと向こう分かんないじゃん」

「……」

「栞って、嬉しいことほど飲み込むとこあるし」

「……」

「でも、ちゃんと言えたのは偉い」

 私はその言葉に少しだけ目を伏せた。


 言われてみればそうだ。

 私は今まで、嬉しいことほど言葉にするのが苦手だった。

 期待してると思われるのが怖かったし、欲しがってるみたいで恥ずかしかったし、何より自分にそんな価値があると思えなかったから。


 でも今は、少しずつ違う。

 嬉しいなら嬉しいと伝えたいと思う。

 だって、好きな人に渡されたものなのだから。


   ◇ ◇ ◇


 午後、移動教室の帰りに、私はひとりで資料室へ寄った。

 先生に頼まれたプリントを置くだけの、ほんの数分の用事。


 用事を済ませて廊下へ出ると、ちょうど向こうから恒星くんが歩いてきた。

 目が合う。

 彼は自然に足を止めた。


「今、終わった?」

「……うん」

「じゃあ少しだけ」

 そう言って、彼は人の流れが少ない窓際へ少しだけ移動した。

 私はそのあとを追う。


「どうしたの」

 聞くと、恒星くんは少しだけ迷うみたいに言葉を選んだ。


「昨日のこと」

「……うん」

「ちゃんと話しておきたかった」

「……」

「“彼女”って言ったとき」

「……」

「すごく自然に出た」

 私は黙って彼を見る。


「驚かせるつもりじゃなかったけど」

 彼は続ける。

「でも、言えてよかったと思ってる」

「……」

「だって、本当にそうだから」

 その“本当に”が、静かで、まっすぐで、胸に落ちた。


「……私も」

 小さく言う。

「うん」

「まだ、その言葉に慣れてないけど」

「うん」

「でも」

 昨日よりは、ちゃんと素直に言えた。

「嬉しかったです」

 恒星くんは少しだけ息を吐いて、それからやわらかく笑った。


「じゃあ、今度からもちゃんと言う」

「……」

「俺の彼女だって」

 その一言で、胸の奥がまたぎゅっとなる。


 でも、今度は苦しさよりも、嬉しさの方が少しだけ強かった。


「……そんなに自然に言わないでください」

「どうして」

「まだ心臓が慣れてないので」

「じゃあ」

 彼は少しだけ目を細める。

「慣れるまで、何回も言う」

「……恒星くん」

「うん?」

「ほんとに、そういうの」

「うん」

「甘すぎます」

「だって、うれしいから」

 私はもう、それ以上何も言えなかった。

 でも、嫌じゃない。

 むしろ、この甘さが少しずつ心の中に馴染んでいくのを感じていた。


   ◇ ◇ ◇


 帰り道、私は昨日のざわつきを少しだけ思い出していた。


 知らない女の人。

 家同士のつながり。

 私の知らない恒星くんの世界。

 そういうものは、これからもきっとなくならないのだと思う。


 でも、昨日と今日で、私はひとつだけ分かった。


 不安があることと、嬉しいことは、同時に存在していい。

 そして、嬉しいをちゃんと受け取れるなら、不安は少しずつ小さくなっていくのかもしれない。


 彼女です。

 その一言は、まだ私には少し重たい。

 でも、その重さごと、好きになり始めている自分がいる。


「……少しずつ、だな」


 小さくつぶやいて、私は駅へ向かった。


 恋人になってからの言葉は、付き合う前よりずっと甘くて、ずっと重い。

 でも、その重さが今は少しだけ心地よかった。

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