第42話 元カノじゃないのに、知らない女の子にざわつく
デートの帰り道、私は自分でも不思議なくらいふわふわしていた。
改札で会った瞬間に全部だめになって。
本屋で隣に並んで歩いて。
カフェで向かい合って話して。
モールの中では、恋人らしいみたいに手までつないだ。
派手なことは何もしていない。
でも、そのどれもが今の私には十分すぎるくらい特別で、胸の中にずっと甘い余韻が残っていた。
好きな人と過ごす休日は、こんなにも街の色を変えるんだな、と。
そんな、少し恥ずかしいことまで考えてしまうくらいには。
だからたぶん、油断していたのだと思う。
このまま、甘い気持ちのまま一日が終わるものだと、どこかで思っていた。
◇ ◇ ◇
駅へ向かう道の途中、私たちは少しだけ遠回りをして、大通り沿いの広場を歩いていた。
夕方の光はもう少しやわらかくなっていて、人の流れも昼より落ち着いている。
カップルや家族連れが行き交う中で、私たちもその中のひとつみたいに並んで歩いていた。
……“みたい”じゃなくて、実際そうなのだけれど。
それでも、まだその現実に心が完全には追いついていない。
「疲れてない?」
恒星くんが聞く。
「……少しだけ」
「少しだけか」
「でも、嫌な疲れじゃないです」
「うん」
「むしろ」
私は少しだけ視線を落とした。
「……帰りたくなくなる方の」
言ってから、自分でちょっとだけ後悔する。
これはかなり甘いことを言ってしまった気がする。
でも恒星くんは、驚くより先に、ひどくやわらかい顔になった。
「それ」
「……」
「今の、すごくうれしい」
「最近そればっかり」
「今日は特にそうだから」
その返しに、私は少しだけ笑ってしまった。
ほんとうに、この人はうれしいを隠さない。
でも、その素直さにもう何度も救われてきた。
だから今は、困るだけじゃなくて、ちゃんとその温度を受け取れる。
「……私も」
「うん?」
「今日、すごく楽しいです」
「……」
「ちゃんと」
そこまで言うと、恒星くんが少しだけ目を細めた。
「よかった」
「……」
「今日は、栞がそう思ってくれるのが一番うれしい」
その言い方がまたやさしくて、私はもう何も返せなくなる。
そのときだった。
「恒星?」
不意に、少し高めの女の子の声がした。
私は反射的にそちらを見た。
そこに立っていたのは、二十歳前後くらいに見える女の人だった。
年上、というほど大人びているわけでもない。でも、高校生とも少し違う、洗練された感じがある。
明るい色のワンピースに、華奢なアクセサリー。髪もきれいに巻かれていて、ぱっと見ただけで“慣れている人”だと分かる。
そして彼女は、迷いなく恒星くんを見ていた。
私の胸の奥が、ひやりとする。
「……久しぶり」
恒星くんが足を止めて言う。
その声はいつも通り穏やかだった。
でも、私に向けるときとは少しだけ違う。外向きの、きれいな声。
その違いが分かってしまって、余計に胸がざわついた。
「やっぱり恒星だ」
女の人が少しだけ笑う。
「遠くから見ても目立つから、もしかしてって思った」
「そう?」
「そうよ」
彼女はそこで、ようやく私の方を見た。
ほんの一瞬だけ。
でもその視線に、私は妙に居心地が悪くなる。
何だろう、この感じ。
別に敵意を向けられたわけじゃない。
でも、女の人が“私の存在を確認した”という事実だけで、心が少し固くなる。
「今日は買い物?」
彼女が聞く。
「うん」
「そっか」
少しだけ間があった。
その間が、妙に長く感じる。
「……彼女?」
そのひと言に、私は完全に息を止めた。
彼女。
今、この人はそう聞いた。
あまりにも自然に。
そしてその問いは、きっと恒星くんにも向いている。
私はどうしていいか分からず、ただ立ち尽くすしかなかった。
恒星くんは一拍だけ置いて、それからはっきりと言った。
「うん」
その声は、さっきまでより少しだけ低かった。
「彼女」
私はその瞬間、心臓が大きく鳴るのを感じた。
彼女。
私をそう言った。
こんなふうに、第三者に。
何の迷いもなく。
嬉しい。
でも、それと同じくらい、まだ緊張が勝つ。
「そうなんだ」
女の人が少しだけ目を細める。
「へえ」
その“へえ”が、何を意味しているのか分からなくて、私は余計に落ち着かなくなった。
「久しぶりに会ったと思ったら、もうそんな感じなんだ」
彼女はそう言って笑った。
悪意のある笑いではない。
でも、親しさのある言い方だった。
――久しぶり。
そんな感じ。
その言葉だけで、勝手に想像が膨らんでしまう。
どういう関係なんだろう。
いつの知り合いなんだろう。
どのくらい近かったんだろう。
私は急に、自分が“知らない”ことの多さに気づいてしまった。
恒星くんのことを前より知ったつもりでいたのに、こうして知らない女の人が昔からの距離感みたいなもので話しかけてくると、簡単に足元が揺らぐ。
「今、ちょっと時間ある?」
彼女がさらっと言う。
「近くでお茶でも」
その一言で、胸の奥がまたきゅっとなる。
お茶。
今から?
それを、私の前で?
しかも、まるで自然な流れみたいに。
私は何も言えなかった。
言える立場ではない、と思った。
彼女だと紹介されたばかりなのに、それでもまだ、私の中では“どこまで言っていいのか”が定まっていない。
でも、苦しい。
こんなの、かなり苦しい。
そのとき、恒星くんが静かに首を振った。
「今日は無理」
「え」
「デート中だから」
その言葉が、空気を少し変えた。
女の人がほんの少しだけ目を瞬く。
私はその一言を頭の中で反芻した。
デート中。
今、はっきりそう言った。
恒星くんは私の方をちらりとも見なかった。
でも、それが逆によかった。
確認するみたいな視線ではなく、当たり前の事実としてそう言ってくれたから。
「そっか」
彼女は少しだけ笑った。
「邪魔しちゃったかな」
「ううん」
恒星くんは穏やかに返す。
「でも今日は、このまま帰る」
「……分かった」
彼女は少しだけ肩をすくめる。
「じゃあ、またどこかで」
「うん」
「彼女さんも、ごめんね」
急に話を振られて、私は少しだけ慌てた。
「……いえ」
「ふふ、かわいい子だね」
その一言を残して、彼女は手を振って去っていった。
私は、その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、しばらく何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
「……栞」
恒星くんが、小さく名前を呼ぶ。
私はそこでようやく、自分が思っていた以上に固くなっていたことに気づいた。
肩が少し上がっている。
手も、ぎゅっと鞄の紐を握っていた。
「……ごめん」
彼が言う。
「何で」
「会わせるつもりなかったから」
「……」
「しかも、変なタイミングだった」
私は少しだけ視線を落とした。
変なタイミング。
たしかにそうだ。
初デートの帰り道に、知らない女の人が現れて、あんなふうに親しげに話すなんて。
私じゃなくても、少しはざわつくと思う。
「……あの人」
私は小さく聞いた。
「知り合い?」
「うん」
「……どのくらい」
そこまで聞いて、私は自分で少し嫌になる。
責めたいわけじゃない。
でも、知りたいと思ってしまう。
恒星くんは、少しだけ考えるみたいにしてから答えた。
「昔から家同士で付き合いがある人」
「……」
「親同士が知ってる、みたいな」
その説明に、私は少しだけ胸の奥が重くなるのを感じた。
ああ、やっぱり。
そういう世界の人なんだ、と。
分かっていたはずだ。
恒星くんが私とは全然違うところで生きてきた人だということくらい。
でも、こうして目の前でそれを見せられると、やっぱり少し苦しい。
「……そっか」
それだけ言うと、恒星くんが少しだけ眉を寄せた。
「栞」
「……何」
「今、たぶん変なふうに考えてる」
私は思わず顔を上げた。
「何で分かるの」
「分かるよ」
「……」
「だから、ちゃんと言う」
彼の声が少しだけ低くなる。
「今日、一緒にいたいのは栞だけ」
「……」
「デートしたかったのも、今こうして帰ってるのも」
「……」
「全部、栞だから」
私は何も言えなくなった。
こういうとき、この人は逃げない。
ごまかさない。
私がぐらついたところに、ちゃんと言葉を置いてくれる。
それが、ずるいくらいありがたい。
「……でも」
私は小さく言う。
「ちょっと、ざわざわした」
「うん」
「……知らない人だったし」
「うん」
「何か、自然に話してたし」
「うん」
「……」
「それ、嫉妬?」
さらっと聞かれて、私は思わず息を止めた。
嫉妬。
たしかに、そうなのかもしれない。
彼女になったのに、まだそんなことでざわつくのか、と自分で思うけれど、ざわついたものはざわついたのだ。
「……少し」
認めると、恒星くんは小さく息を吐いた。
困ったような、でも少しだけ嬉しそうな顔。
「それ、うれしいって言ったら怒る?」
「……少し」
「じゃあ言わない」
「……」
「でも」
「何」
「ちゃんと安心してほしい」
その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。
安心したい。
でも、彼女になったからって、急に何もかも平気にはならない。
それもたぶん、恋人になったあとの現実なのだろう。
◇ ◇ ◇
駅前の改札が見えてきたころ。
恒星くんが少しだけ立ち止まった。
「栞」
「何」
「今日」
「……うん」
「ちゃんと紹介したかった」
「え」
「“彼女です”って」
私はその言葉に、また息を呑んだ。
そうか。
彼は、あの場面をただの対処としてじゃなく、ちゃんとそう思っていたのだ。
「……」
「言えて、うれしかった」
あまりにも静かに、でもまっすぐに言われて、私は胸の奥がきゅっとなる。
彼女です。
その言葉を、私はまだ自分の中で持て余している。
でも、彼がその肩書きをちゃんとうれしいものとして扱っていることが、すごく、すごくうれしかった。
「……私」
小さく言う。
「うん」
「まだ、そういうの全部に慣れてない」
「うん」
「だから、今日も正直ちょっとだけ苦しかった」
「……」
「でも」
私は少しだけ視線を上げた。
「“彼女”って言ってくれたのは、すごくうれしかった」
その瞬間、恒星くんの表情がふわっとほどけた。
「そっか」
「うん」
「よかった」
「……」
「これからも、ちゃんとそう言いたい」
私は何も言えなかった。
でも、胸の中では、その言葉が静かに何度も響いていた。
◇ ◇ ◇
改札の前で別れる直前。
私は迷って、それから、ほんの少しだけ勇気を出した。
恒星くんの制服じゃないジャケットの袖を、指先でそっとつかむ。
「……っ」
彼が少しだけ目を見開く。
「何」
「……その」
「うん」
「まだ、少しだけ」
「うん」
「ざわざわしてる」
正直にそう言うと、恒星くんはすぐに私の顔を見た。
でも、次に何か言う前に、私は続ける。
「でも」
「……」
「今、こっち見てくれてるから」
「……」
「大丈夫にしたい」
その言葉に、恒星くんの目がやわらかく揺れた。
それから、ほんの少しだけ笑う。
「うん」
「……」
「ちゃんと大丈夫にする」
その返事が、あまりにもこの人らしくて、私は少しだけ笑ってしまった。
恋人になったあとでも、不安は消えない。
知らない女の人ひとりで、こんなに揺れる自分もいる。
でも、そのたびにこうして言葉を交わせるなら、たぶん大丈夫なのかもしれない。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私は窓に映る自分を見ていた。
元カノじゃない。
何でもない知り合いだった。
それは分かっている。
でも、知らない女の人にざわつく自分はちゃんといた。
彼女になったのに。
それでも不安になる。
でも、彼女になったからこそ、聞けることもある。
伝えられることもある。
そして、安心させてもらえることもある。
「……少しずつ、なのかな」
小さくつぶやく。
恋人になったから全部平気になるわけじゃない。
でも、平気じゃないものを二人で少しずつ越えていけるなら、それがたぶん本当の意味で“付き合う”ってことなのかもしれない。




