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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第41話 好きな人と並んで歩く街は、いつもより全部甘い

 デートの後半に入ったころ、私はようやく少しだけ呼吸の仕方を思い出していた。


 改札で会った瞬間は、本当にだめだった。

 私服姿の恒星くんを見た瞬間、何もかも飛んでしまったし、最初の「今日ほんとに可愛い」で心臓は完全に仕事を放棄した。


 でも、書店に入って、本を見て、カフェで向かい合って話して、モールの中を少し歩いて。

 そのひとつひとつが積み重なるうちに、私は“ただ緊張しているだけ”の場所から少しずつ抜け出し始めていた。


 もちろん、まだ緊張はしている。

 目が合うたび、名前を呼ばれるたび、手が触れるたびに心臓はきちんと騒ぐ。

 でも、それだけじゃない。


 ちゃんと、楽しいのだ。


 隣にいるのが恒星くんで。

 私たちが“恋人として”この時間を過ごしていることが。

 どうしようもなく、うれしい。


   ◇ ◇ ◇


 モールの中を歩きながら、私たちは何でもない会話をしていた。


「さっきの本、買わなくてよかった?」

 恒星くんが聞く。

「……少し迷った」

「やっぱり」

「でも、今日は荷物増やしたくないなって」

「そっか」

「あと、もし買ったら」

「うん」

「たぶん今日の記念みたいに思って、しばらく読めない」

 言った瞬間、自分で少し恥ずかしくなった。


 でも恒星くんは笑わなかった。

 むしろ、少しだけやわらかい顔になる。


「それ、うれしい」

「……」

「今日のこと、記念にしてくれるんだ」

「……だって」

 私は少しだけ視線を落とした。

「最初のデート、だから」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 最初のデート。

 改めて言葉にすると、やっぱり少し甘すぎる。

 でも今日は、その甘さから目を逸らしたくなかった。


「じゃあ」

 恒星くんが少しだけ笑う。

「今日はちゃんと覚えてもらわないと」

「……」

「俺、がんばろうかな」

「何を」

「今日の栞の記憶に残ること」

「もう十分残ってます」

 思わず即答してしまって、私は自分でびっくりした。


 でも恒星くんは、その言葉を聞いてほんの少しだけ目を見開いたあと、嬉しそうに笑った。

「それ、かなりうれしい」

「最近それしか言ってない」

「だって本当にそうだから」

 もうこのやり取りも、ずいぶん定着してしまった気がする。


 でも、嫌じゃない。

 むしろ、そのたびに少しだけ距離がやわらかくなる気がする。


   ◇ ◇ ◇


 雑貨屋の前を通ったとき、店先に並んだガラスの小物が春の光を反射してきらきらしていた。


 私が少し立ち止まると、恒星くんも当然みたいに足を止める。


「気になる?」

「……きれい」

「入る?」

「え」

「見たいんでしょ」

「……でも、別に買うわけじゃ」

「いいよ、見たいなら」

 その言い方がやさしくて、私は少しだけ躊躇ったあと、頷いた。


 店内は小さくて静かだった。

 ガラス細工やアクセサリー、可愛い文具、小さな雑貨が整然と並んでいる。

 私はそういう店が嫌いじゃない。

 むしろ、かなり好きだ。

 でも、今までこういう場所に男の子と入ることなんて考えたこともなかった。


 それなのに、今の私は、恒星くんと並んでその棚を見ている。


 その事実が妙にくすぐったい。


「これ」

 恒星くんがガラスのしおりを手に取る。

「栞っぽい」

「……何でですか」

「透明で、ちょっと繊細で、でもちゃんと芯ある感じ」

「……」

「あと、きれい」

「……恒星くん」

「何」

「そういうの、急に言うの反則です」

「本当のこと言っただけ」

「……」

「だめ?」

「……だめじゃないですけど」

「うん」

「……心臓に悪い」

「俺も」

 そう言って笑う顔が、今日はずっとやわらかい。


 私はふと、店のガラスに映る自分たちを見た。


 並んでいる。

 恋人として。

 小さな店の中で、同じものを見て、同じタイミングで立ち止まっている。


 その光景が、妙にあたたかかった。


   ◇ ◇ ◇


 店を出て、少し歩いたところで、ベンチのある吹き抜けスペースがあった。

 人はいるけれど、そこだけ空気が少しやわらかい。


「少し休む?」

 恒星くんが聞く。

「……うん」

 私は素直に頷いた。


 ベンチに並んで座る。

 手にはテイクアウトで買った小さなレモネード。

 休日の午後の光は少しだけ傾き始めていて、吹き抜けの床に淡い影が落ちていた。


「疲れた?」

「……少しだけ」

「ごめん」

「何で謝るんですか」

「緊張させすぎたかも」

 私はその言葉に少しだけ笑ってしまった。


「それは」

「うん」

「たぶん、最初から無理な話です」

「え」

「だって」

 私はストローを持ったまま、小さく肩をすくめた。

「恒星くんと初デートで、緊張しない方が無理だと思う」

 言い切ったあと、また自分で顔が熱くなる。

 でも恒星くんは、それを聞いて少しだけ目を伏せた。


「……それ、すごい破壊力」

「何が」

「その言い方」

「……」

「可愛いし、嬉しいし、困る」

「困るのはこっちです」

「俺もかなり困ってるよ」

「そう見えない」

「見えないようにしてる」

 その返しに、私は少しだけ納得してしまった。


 たしかに、恒星くんは今日ずっと落ち着いて見える。

 でも、それは“余裕がある”のとは少し違うのかもしれない。

 ただ、私を余計に緊張させないように整えているだけで。


「……ありがとう」

 ぽつりと言うと、彼がこちらを見る。

「何が」

「今日」

「うん」

「私があんまり疲れないようにしてくれてるの、分かるから」

 その瞬間、恒星くんの表情が少しだけやわらいだ。


「ばれてた?」

「……うん」

「そっか」

「……」

「でも、そうしたいから」

 そう言って、彼は少しだけレモネードのカップを傾ける。

「今日は、栞に“楽しかった”って思って帰ってほしい」

 私はその言葉に、また少しだけ胸がいっぱいになった。


 なんでこの人は、こういうふうに言うんだろう。

 大事にしたい、という気持ちを、隠さず、でも重くしすぎずに伝えてくる。

 それが、ものすごく好きだと思った。


   ◇ ◇ ◇


 少し休んだあと、私たちはまたゆっくりとモールの中を歩いた。


 途中、本屋の続きみたいに文具を見たり、カフェで見かけた季節限定メニューの話をしたり、何でもない話を重ねていく。

 でもその“何でもない”が、今日は全部少しだけ甘い。


 歩きながら、私は何度も思ってしまう。


 好きな人と並んで歩く街は、どうしてこんなに違って見えるんだろう。


 知っている場所のはずなのに、少しだけ特別に見える。

 見慣れた店の看板も、通り過ぎる人の声も、全部が少しやわらかく感じる。

 たぶん、それは隣にいる人のせいだ。


「栞」

 不意に名前を呼ばれる。

「何」

「今、何考えてた?」

「……」

「顔が、ちょっとやわらかかった」

「そんなの分かるんですか」

「分かるよ」

「……」

「で?」

 私は少し迷って、それでも正直に言った。


「……今日」

「うん」

「街がいつもとちょっと違って見える」

「……」

「何か、全部少しだけ甘い」

 そこまで言うと、恒星くんはしばらく黙った。

 でも、その沈黙には驚きと嬉しさが混ざっているのが分かる。


「……それ」

 彼がやっと言う。

「俺も思ってた」

「え」

「さっきから、何でもない時間が全部ちょっと特別」

「……」

「たぶん、栞が隣にいるから」

 私は一瞬だけ息を止めた。


 ああ、だめだ。

 こういうのだ。

 こういう言葉を、ごく自然にくれるから、私は何度でも心臓をやられる。


「……恒星くん」

「うん」

「そういうの」

「うん」

「デート中に言うの、危ないです」

「どうして」

「嬉しすぎるので」

 そう言うと、恒星くんは少しだけ困ったように笑った。

「じゃあ、今日はずっと危ないかも」

「……」

「今、すごく幸せ」

 その言葉に、私はとうとうまともに顔を見られなくなった。


 幸せ。

 そんなふうに、まっすぐ言われてしまうと、本当にどうしたらいいか分からない。


 でも、胸の中では同じ気持ちがじんわり広がっている。

 たぶん、私も、すごく幸せなのだ。


   ◇ ◇ ◇


 帰りの電車の時間が近づいてきて、私たちはゆっくり駅へ戻った。


 今日のデートは、派手なことなんて何もしていない。

 本屋に行って、カフェに入って、少し買い物を見て、並んで歩いただけ。


 それなのに、どうしてこんなに胸がいっぱいなんだろう。


 改札の前で足を止めたとき、私はふと、今日一日を思い返していた。


 改札で会った瞬間の破壊力。

 可愛いと言われたこと。

 かっこいいと返してしまったこと。

 手をつないだこと。

 そして今、こんなにも名残惜しいと思っていること。


 それら全部が、今日の私にとっては十分すぎるくらい濃い。


「……今日は」

 私が小さく言うと、恒星くんがこちらを見る。

「うん」

「楽しかったです」

「うん」

「すごく」

 そのひと言に、彼の目がやわらぐ。


「よかった」

「……」

「俺も」

「……」

「今までで一番、幸せかも」

 私はもう、それ以上見ていられなくて、少しだけ視線を逸らした。


 でも、顔はちゃんと笑っていたと思う。


 好きな人と並んで歩く街は、いつもより全部甘い。

 そしてその甘さは、たぶん、まだ始まったばかりなのだ。

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