第40話 初デート、改札で会った瞬間に全部だめになる
書店の最寄り駅に着いて、改札を出た瞬間から、私はもう少しだけ正常じゃなかった。
いや、最初から正常ではなかったのだけれど。
待ち合わせで恒星くんを見た時点で、もう十分だめだったのだけれど。
でも、改札を抜けて「ここからちゃんとデートが始まる」と実感した瞬間、胸の奥の落ち着かなさはさらに増した。
休日の街は、学校の帰り道とは少し違う。
制服じゃない人ばかりで、学生も家族連れもカップルもいて、駅前の空気にはちょっとした浮つきがある。
その中に、私たちもいる。
それがひどく不思議で、ひどく甘かった。
「こっち」
恒星くんが人の流れを見ながら言う。
「……うん」
私は彼の少し後ろを歩こうとした。
でも、その瞬間、恒星くんが少しだけ立ち止まる。
「栞」
「何」
「隣」
「……」
「今日は、ちゃんと」
その“ちゃんと”が何を意味しているのか、もう分かってしまう。
私は少しだけ息を止めて、それから彼の横に並んだ。
それだけなのに、胸の奥がどくんと鳴る。
隣を歩く。
恋人として。
休日の街で。
こうして文字にするとたったそれだけなのに、私にはひとつひとつが大事件みたいだった。
「……緊張してる?」
恒星くんが小さく聞く。
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「かなり」
そう正直に言うと、恒星くんが少しだけ笑った。
「よかった」
「何で」
「俺だけじゃなかった」
その言い方が、朝から何度か聞いたものに似ている。
でも、今の街の空気の中で聞くと、また少し違って響く。
「……恒星くんもなんですか」
「うん」
「でも全然そんなふうに見えない」
「見えないようにしてる」
「……」
「じゃないと、栞が余計に緊張するから」
その気遣いがあまりにも自然で、私はもうそれ以上何も言えなくなる。
この人は、本当にずるい。
かっこいいのに、余裕があるように見えるのに、ちゃんと私のことを見てくれている。
そして、その優しさが全部、恋人になった今の私には前よりもっと近く届いてしまう。
◇ ◇ ◇
大きな書店は駅前の商業施設の中にあった。
エスカレーターで上がっていくあいだ、私は何度も周囲のガラスに映る自分たちを見そうになって、でもやめた。
見たらきっと、ますます恥ずかしくなる。
だって今日は、どう見ても“二人で来ている人たち”だから。
書店の入口に入ると、紙とインクの匂いが少しだけ落ち着きをくれた。
ここなら、少しだけ呼吸がしやすい。
「こういうとこ、落ち着く?」
恒星くんが聞く。
「……うん」
「よかった」
「……」
「デートの最初が人混みすぎると、たぶん栞疲れると思って」
私はその言葉に、少しだけ目を上げた。
「そこまで考えてたんですか」
「うん」
「……」
「今日は、楽しい記憶にしたいから」
そう言われると、もう何も返せない。
だって、その通りにしたいと思っているのは私も同じだから。
店内をゆっくり歩く。
文芸コーナー、新刊平台、文庫の棚。
恒星くんは私のペースに合わせてくれていて、立ち止まるたび自然に横に来る。
その距離感が、学校の廊下や駅前のベンチともまた違っていた。
近いのに、急かさない。
恋人らしいのに、押しすぎない。
そんな絶妙な甘さが、今日の彼にはずっとある。
「これ」
私が一冊の本を手に取ると、恒星くんも横から同じ表紙をのぞき込む。
「好きそう」
「……何で分かるんですか」
「帯の文句見て、栞が反応しそうだなって」
「……」
「違った?」
「……ちょっと、気になった」
「やっぱり」
その“やっぱり”が嬉しそうで、私はまた少しだけ落ち着かなくなる。
こんなふうに、好みを見抜かれるのも、前なら少し怖かった。
でも今は、それを“見てもらえてる”と感じる方が強い。
◇ ◇ ◇
しばらくして、文房具コーナーの前で私が可愛いしおりを見ていたときだった。
近くを歩いていた大学生くらいの女の人が、こちらをちらりと見た。
いや、正確には、恒星くんを見たのだと思う。
そして、少しだけ目を引かれるみたいに視線を止める。
それ自体は珍しいことじゃない。
恒星くんは、やっぱり目立つ。
制服でも私服でも、きれいな人はきれいだ。
分かっている。
でも、分かっているからって平気なわけではない。
私は思わずしおりの棚に視線を落とした。
すると、そのすぐあとで、恒星くんの手が、ごく自然に私の鞄の持ち手の上からそっと触れた。
「……」
顔を上げると、彼は本棚の方を見たまま、小さく言う。
「行こうか」
「……うん」
たぶん、気づいたのだろう。
私が少しだけ固くなったことに。
そして、その原因にも。
その“さりげなさ”が、あまりにもありがたくて、私は返事の声をちゃんと出すまでに少し時間がかかった。
◇ ◇ ◇
カフェは書店の隣にある、ガラス張りの明るい店だった。
窓際の二人席に案内されて、私はようやく少し息をつく。
向かい合って座る。
そのこと自体が、また少しだけ緊張する。
「何にする?」
恒星くんがメニューを開く。
「……カフェラテ」
「甘いやつ?」
「……うん」
「やっぱり」
少し笑われて、私は小さく唇を尖らせる。
「恒星くんは」
「アイスコーヒー」
「苦そう」
「今日はちょっと落ち着きたいから」
「……」
「その顔」
「何」
「“全然落ち着いて見えません”って思ってる顔」
「……」
「図星?」
「……少し」
「だよね」
彼は苦笑する。
「俺も自覚ある」
その正直さが、今日はいつも以上にありがたかった。
私だけがどきどきしているんじゃない。
彼も同じように、この時間を特別に思っている。
それが分かるだけで、だいぶ救われる。
注文した飲み物が来るまでの間、私たちは少しだけ他愛ない話をした。
今朝、家で母に何か言われた話。
ひまりが昨日、服選びで妙に張り切っていた話。
書店で見つけた気になる本の話。
どれも特別ではない。
でも、その会話のひとつひとつが、今日の私には妙にあたたかかった。
店員さんが飲み物を置いていく。
カフェラテの湯気がゆらっと上がる。
私はカップに手を添えながら、少しだけ勇気を出した。
「……今日」
「うん?」
「会った瞬間」
「うん」
「ちょっと、だめでした」
恒星くんが一瞬だけ目を見開く。
「だめ?」
「……想像してたより、かっこよかったので」
言ってから、私はカップを持つふりで顔を少し隠した。
でも恒星くんは笑わなかった。
むしろ、言葉を失ったみたいに一瞬だけ止まって、それから、すごく困ったように目を伏せる。
「……それ」
「……」
「かなりうれしい」
「最近そればっかり」
「本当にそうだから」
「……」
「俺も、改札で栞見た瞬間、ちょっと全部飛んだ」
私は思わず顔を上げた。
「全部?」
「予定とか、最初に何言おうとか」
「……」
「とりあえず可愛いって言わなきゃ、しか考えられなかった」
その言い方があまりにもまっすぐで、私はまた顔が熱くなるのを感じた。
「……」
「ごめん」
「……謝らないでください」
「どうして」
「そういうの、謝られると困るので」
「困る?」
「……嬉しかったから」
小さく、でもちゃんと言うと。
恒星くんの表情が、ほんとうにやわらかくほどけた。
「……よかった」
「……」
「じゃあ、今日はちゃんとデートで合ってるね」
その言葉に、私は少しだけ息を止めた。
デート。
まだその単語には慣れない。
でも、今の私はそれを否定したくなかった。
「……うん」
小さく頷くと、恒星くんは少しだけ笑う。
「その返事、好き」
「何でも好きって言わないでください」
「本当に何でも好きだから困ってる」
「……」
「今日は特に」
そう言われて、私はもうカフェラテの泡を見るしかなかった。
◇ ◇ ◇
カフェを出たあと、私たちはモールの中を少しだけ歩いた。
雑貨屋をのぞいたり、春物の服が並ぶショーウィンドウを見たり。
そのどれもが“ただの買い物”じゃなくて、“一緒に過ごしている時間”として胸に残る。
そして、エスカレーターへ向かう途中だった。
人の流れが少し多くなって、自然に私たちは近づいた。
その瞬間、恒星くんがごく当たり前みたいに、私の左手を取った。
「……っ」
昨日に続いて、また手をつながれる。
でも今日は、駅までの帰り道じゃない。
休日の、真昼の、デートの途中だ。
意味が、また少し違う。
「……恒星くん」
「うん」
「……今」
「手、つないだ」
「……」
「だめだった?」
私は首を振れなかった。
でも、振りほどく気も全然起きない。
「……だめじゃない」
「うん」
「でも」
「うん」
「慣れないです」
「俺も」
その返事は昨日と同じなのに、今日は少しだけ響き方が違った。
だって、昨日より今日の方が、ちゃんと“恋人の時間”の中でつないでいるから。
「でも」
恒星くんが少しだけ指を絡め直す。
「今日はこれくらい、したい」
その言い方が、あまりにも自然で、でも少しだけ低くて、私は心臓が完全に負ける音を聞いた気がした。
私たちはそのまま、しばらく手をつないだまま歩いた。
人混みの中。
並んで。
何気ない顔をしながら。
でも私の中では、その全部が大事件のままだった。
◇ ◇ ◇
帰りの電車に乗るころには、私はかなりへとへとだった。
疲れたというより、甘さと緊張で消耗した感じに近い。
でも、不思議と嫌な疲れではなかった。
今日一日で、私はたぶん、デートというものの入口にちゃんと立った。
しかも、恒星くんと一緒に。
手をつながれて。
可愛いと言われて。
かっこいいと言ってしまって。
向かい合ってカフェラテを飲んで。
そんなの、全部、今までの私には遠い話だった。
でも今は、その全部が現実で。
しかも、ちゃんと嬉しい。
「……すごいな」
小さくつぶやいて、私はつないでいた左手をまた見た。
初デート。
改札で会った瞬間に、全部だめになった。
でも、その“だめ”の中には、ちゃんと幸せがあった。




