第39話 初デートの服、頑張りすぎたくないのに頑張りたい
初デートの当日の朝、私は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。
そして目を開けた瞬間、胸の奥がどくんと鳴る。
今日だ。
それを認識した途端、眠気なんて一気に消えた。
「……ほんとに今日なんだ」
布団の中でそうつぶやいて、私は天井を見上げた。
昨日の夜、何度も確認した服は、ちゃんと部屋の端にかけてある。
ひまりと一緒に選んだ、やわらかい色のブラウスと淡いスカート。カーディガンも、靴も、鞄も、全部一式ちゃんと準備してある。
準備はした。
したけれど。
だからといって、心の準備まで済んでいるわけではまったくなかった。
好きな人と。
しかも恋人として。
休日に、私服で会う。
そんなの、どう考えても人生の大事件だ。
「……無理かも」
思わずつぶやいてから、私は首を振った。
だめだ。
朝から“無理”で始めたら、本当に無理になる。
少しだけ、自分を好きでいたい。
昨日、鏡の前でそう思えたのだから。
私はゆっくり布団から出て、カーテンを開けた。
窓の外はよく晴れている。
春の光がやわらかく差し込んで、部屋の中まで少し明るく見えた。
こういう日ならいいな、と思う。
緊張しても、少しはきれいに見えるかもしれないから。
◇ ◇ ◇
洗面所で顔を洗ってから、私はしばらく鏡の前に立っていた。
眼鏡を外した顔。
かけた顔。
髪を下ろした状態。
まとめた状態。
全部見比べて、結局、昨日ひまりが言っていた通りにすることにした。
眼鏡はそのまま。
髪は下ろしすぎず、でもいつもよりやわらかい感じにまとめる。
頑張ってるのは分かるけど、頑張りすぎてはいない、くらいのところ。
それが一番難しいのだけれど。
「……これでいいのかな」
ブラウスに袖を通しながら、私は鏡の中の自分に聞いてみる。
答えは返ってこない。
でも、昨日の私よりは少しだけ素直に見えた。
少なくとも、“どうせ私なんて”の顔はしていない。
それだけでも、今の私には十分大きい。
リビングへ降りると、母が私を見るなり、きれいに目を丸くした。
「あら」
「……何」
「今日はずいぶん可愛い」
「お母さん」
「事実だもの」
父まで新聞の向こうから顔を出した。
「お、今日はまた雰囲気違うな」
「……」
「勝負の日か?」
「何でお父さんまでそういう」
「いや、さすがに分かるぞ」
私は一気に顔が熱くなるのを感じた。
「……別に」
「別に、でそんな顔にならないわよ」
母がにこにこしながら言う。
「でもいいじゃない。すごく似合ってる」
「……ほんと?」
「ほんとほんと」
「お父さんもそう思う」
「……」
家族にそう言われるのは少し気恥ずかしい。
でも、今日はその言葉を素直にありがたいと思えた。
だって私は今、好きな人に会うためにちゃんと準備しているのだから。
◇ ◇ ◇
待ち合わせの時間まではまだ少し余裕があった。
でも、家にいても落ち着かないのが分かっていたから、私は少し早めに家を出た。
駅までの道を歩きながら、何度も鞄の紐を握り直す。
服、変じゃないかな。
髪、崩れてないかな。
眼鏡、いつも通りでよかったのかな。
そんなことばかり考えてしまう。
でも、それはたぶん悪いことじゃない。
好きな人に可愛く見られたい。
ちゃんとそう思っている証拠だから。
少し前の私なら、その気持ちごと否定していた。
そんなの自分らしくない、とか、頑張りすぎだ、とか。
でも今は、違う。
可愛く見られたい。
そう思う自分を、今日は責めたくなかった。
改札の見える場所まで来たところで、私は一度足を止めた。
まだ少し早い。
でも、その“まだ少し”すら落ち着かない。
私は柱のそばに立って、小さく深呼吸した。
大丈夫。
会うだけだ。
ただ、好きな人と、恋人として、初めて休日に会うだけ。
……いや、全然ただじゃない。
「……ほんとに無理」
またつぶやいた、その瞬間だった。
「それ、今日何回目?」
聞き慣れた声がすぐ近くでして、私は心臓が跳ね上がる。
顔を上げた。
恒星くんが、そこにいた。
◇ ◇ ◇
一瞬、本当に息が止まった。
私服姿の恒星くんを見るのは、たぶんこれが初めてじゃない。
でも、こうしてちゃんと“デートで会う相手”として見るのは、はじめてだ。
黒に近い落ち着いた色のジャケット。
その下はやわらかい色のシャツ。
制服のときより少しだけ肩の力が抜けて見えるのに、整っている感じはそのままで、むしろ余計に目を引く。
ずるい。
ほんとうにずるい。
「……っ」
何か言おうとしても、声が出ない。
その間に、恒星くんの方も少しだけ固まっていた。
彼は私を見たまま、ほんの数秒、何も言わなかった。
その沈黙が、逆にすべてを物語っている気がした。
「……栞」
やっと出た声は、少しだけ低かった。
「何」
自分でも驚くくらい小さな声になる。
恒星くんは少しだけ目を細めた。
でも、その顔は明らかに余裕がなかった。
「今日」
「……うん」
「ほんとに可愛い」
だめだ。
会って最初の一言がそれは、だめだ。
私は一気に頬が熱くなるのを感じた。
「……朝から、じゃないんだから」
「朝じゃないけど、最初に言いたかった」
「……」
「あと」
彼は少しだけ困ったように笑う。
「今ちょっと、思ってたよりだめかも」
「何が」
「理性」
私は本気で視線を逸らした。
なんでこの人は、待ち合わせの改札前で、そんな顔でそんなことを言うんだろう。
でも、その言葉の裏に、“それくらいちゃんと可愛いと思ってる”が含まれているのも分かるから、余計に困る。
「……恒星くんこそ」
私はどうにか言い返した。
「うん?」
「ずるいです」
「何が」
「今日、すごく」
「すごく?」
「……かっこいいので」
言い切った瞬間、今度は恒星くんが少しだけ固まった。
その反応を見て、私は少しだけ驚く。
この人もちゃんと、そういうことを言われると止まるんだ。
「……今の」
彼が少しだけ息を吐く。
「かなり効いた」
「……」
「今日ずっと優勢でいられると思ったのに」
「優勢って何」
「栞が可愛すぎて俺だけがやられる予定だった」
「そんな予定聞いてない」
思わずそう返してしまって、二人とも少しだけ笑った。
その笑いで、ほんの少しだけ空気がやわらぐ。
でも、やわらいだぶんだけ、“恋人として会っている”実感が押し寄せてくる。
◇ ◇ ◇
「行こうか」
恒星くんが言う。
「……うん」
私は頷いて、彼の隣に並んだ。
改札を抜けて、駅のホームへ向かう人波に混ざる。
休日の駅は少しだけ賑やかで、学生服ではない私たちは、その中に自然に溶け込んでいた。
それが、なんだか不思議だった。
いつもの学校ではない。
制服でもない。
でも、隣にいるのはちゃんと恒星くんだ。
「見てる」
「……え」
「さっきから、ちょっとずつ」
彼が少しだけ笑う。
「俺の服」
私はどきっとして視線を逸らした。
ばれていた。
そりゃそうだろう。
だって、かなり見ていた。
「……だって」
「うん」
「制服と、全然違うから」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「よかった」
その返し方が、前より少しだけ自然に恋人っぽくて、私はまた落ち着かなくなる。
「栞も」
恒星くんが言う。
「うん?」
「いつもと少し違う」
「……」
「でも、ちゃんと栞のまま」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
ちゃんと栞のまま。
それはたぶん、今の私が一番うれしい言葉だった。
無理に別人になったわけじゃない。
頑張っているけれど、ちゃんと私の延長だと、そう言ってもらえた気がしたから。
「……それ」
私は小さく言う。
「かなりうれしいです」
「よかった」
「……」
「その感じで来てくれたの、ほんとにうれしいから」
私はそれ以上何も言えなかった。
もし、眼鏡を外すべきだったかとか、もっと違う服の方がよかったかとか、まだ少し迷いはあった。
でも今、その迷いはかなりやわらいでいた。
恒星くんは、今の私をちゃんと見てくれている。
しかも、その“頑張り方”ごと受け取ってくれている。
それだけで、今日はもうかなり救われていた。
◇ ◇ ◇
電車に乗って、向かい合うように吊り革を握る。
少し揺れるたびに、距離が近づいたり離れたりする。
それだけでも妙に意識してしまう。
「今日の予定」
恒星くんがやわらかく言った。
「うん」
「まずは駅前の大きい書店」
「うん」
「そのあと、隣のカフェ」
「……」
「最後は、栞が疲れてなかったら少しモールを見る」
私はその順番の穏やかさに、少しだけほっとした。
ひまりの読みは正しかった。
派手すぎない。
でも、ちゃんとデートっぽい。
「……落ち着きそう」
思わずそう言うと、恒星くんが小さく笑った。
「よかった」
「……」
「今日は、栞が楽しいのが一番だから」
その言い方がやさしすぎて、私は少しだけ目を伏せた。
「……恒星くん」
「何」
「そういうの、朝から何回目」
「いっぱい」
「……」
「でも本当だから」
私は小さくため息をついて、それから少しだけ笑った。
そうだ。
今日はもう、そういう日なのだ。
頑張ってきた私を、彼がちゃんと見てくれる日。
そして、私も彼のことをちゃんと“恋人として”見る日。
緊張はまだ消えない。
でも、その緊張の輪郭は、少しずつ“楽しみ”の方へ寄ってきていた。
◇ ◇ ◇
書店の最寄り駅に着いて、改札を出る前。
恒星くんがふいに私の方を見た。
「栞」
「何」
「今日だけは」
「……うん」
「ちゃんと、デートって思っていいから」
その言葉に、私は少しだけ息を止めた。
今までも、放課後の寄り道は甘かった。
でも、どこかで“ただ一緒にいた時間”として逃げ道を残していた気がする。
今日は違う。
最初から“デート”として会っている。
そのことを、彼はちゃんと言葉にする。
私が変に逃げないように。
でも、追い詰めないように、やわらかく。
「……」
「困った?」
「少し」
「うん」
「でも」
私は小さく頷く。
「……そう思いたいです」
恒星くんの表情が、ほんの少しだけほどけた。
「うん」
「……」
「じゃあ、最初のデート、ちゃんと楽しもう」
私はその言葉に、もう一度だけ頷いた。
初デートの服。
頑張りすぎたくないのに頑張りたい、そんな朝だった。
でも今の私は、その頑張りをちゃんと誇らしく思えそうだった。
好きな人の隣で、少しだけ可愛くありたい。
そう願った自分を、もう責めたくない。




