第38話 恋人になって最初の休日は、デート未満じゃ終われない
金曜日の夜から、私はずっと少しおかしかった。
何がおかしいって、落ち着かないのだ。
机に向かっても教科書の内容が頭に入らないし、お風呂に入っていても、髪を乾かしていても、ずっと同じことを考えてしまう。
――休日。
――二人きり。
――デート。
その三つの単語が、頭の中で順番に並んでは、胸の奥を落ち着かなくさせる。
きっかけは、放課後の帰り道だった。
駅前まで一緒に歩いて、春の少し湿った夜風の中で、恒星くんがごく自然な声で言ったのだ。
『今度の休み、ちゃんとデートしない?』
あまりにも自然だった。
自然すぎて、その場では逆に意味を処理しきれなかったくらいだ。
デート。
ちゃんと。
今度の休み。
私はその言葉を、家に帰ってから何度も思い出してしまっている。
「……ちゃんとデートって何」
ベッドの上で膝を抱えながら、小さくつぶやく。
いや、意味は分かる。
分かるけど、分かるからこそ困るのだ。
今までも放課後に一緒に帰った。
駅前のベンチで話した。
コンビニに寄ったこともある。
でも、あれは全部“デート未満”だった。
名目があったり、帰り道の延長だったり、少しだけ寄り道しただけだった。
今度は違う。
休日に。
最初から。
二人で会うために会う。
そんなの、どう考えてもデートだ。
「……無理」
思わず顔を枕に押しつける。
でも、その“無理”の中に、ちゃんと嬉しさが混ざっているのが今の私には分かる。
嬉しい。
すごく。
でも、そのぶん緊張もものすごい。
スマホが震えた。
ひまりからだった。
『生きてる?』
私は思わず笑ってしまう。
どうしてこう、絶妙なタイミングで来るんだろう。
『たぶん』
『またたぶん』
『今回はほんとにたぶん』
『何があった』
少し迷ったけれど、どうせ隠してもばれる。
『今度の休み、ちゃんとデートしない?って言われた』
送って数秒で既読がついた。
『は?』
『うわ』
『待って』
『ついに来たじゃん』
私は画面を見つめたまま、こめかみに手を当てる。
『来た』
『どうしたの』
『どうしたって』
『OKしたの?』
その問いに、私は少しだけ止まった。
あのとき私は、すぐには返事ができなかった。
でも、断る理由なんてどこにもなくて、結局、かなり小さな声で「……行きたいです」と言ったのだ。
『した』
『何て』
『行きたいですって』
『可愛い』
『やめて』
『いやそれは可愛いでしょ』
『ひまり』
『で、どこ行くの』
『まだちゃんとは決めてない』
『じゃあ明日聞け』
『聞けるかな』
『聞け』
ひまりの圧が強い。
でも、その強さがありがたい。
『デートってどうすればいいの』
思わずそのまま打つと、返事は早かった。
『まず、呼吸』
『ひどい』
『でも大事』
『それはそう』
『あと、可愛い服』
『ひまり』
『何』
『そこ一番困ってる』
『知ってる』
私は天井を見上げた。
そうなのだ。
問題はそこでもある。
制服ならいい。
制服は考えなくていい。
でも休日に会うとなると、私服だ。
私服で好きな人に会う。
しかもデートで。
そんなの、人生のどこにも想定していなかった。
『じゃあ明日、放課後うち来る?』
『え』
『服見る』
『いいの』
『いいよ。むしろ見ないと危険』
『何が危険』
『栞が“無難”を通り越して“存在感消す”方向へ行く』
『……』
『図星』
私はしばらくスマホを見て、それから小さく笑った。
『お願いします』
『よろしい』
やり取りを終えて、私はゆっくり息を吐いた。
ひまりがいてくれて、本当によかったと思う。
こういう時の私は、たぶん一人だと必要以上に怖がって、必要以上に自分を小さくしようとする。
でも、もう少しちゃんと向き合いたい。
恋人になったのなら、その“恋人らしいこと”から逃げたくない。
そう思わせてくれる相手だから、私はここまで来たのだ。
◇ ◇ ◇
翌朝、教室で顔を合わせた恒星くんは、昨日より少しだけ機嫌がよさそうだった。
それはたぶん、気のせいじゃない。
「おはよう」
「……おはよう」
「昨日、ちゃんと眠れた?」
その問いに、私は一瞬だけ言葉に詰まった。
眠れていない。
でも、そんなことを正直に言ったら、たぶんまた変なふうに嬉しそうにされる。
「……そこそこ」
「その答え、あんまり信用できない」
「……恒星くんこそ」
「俺?」
「ちょっと、機嫌よさそう」
そう言うと、彼は少しだけ目を細めた。
「ばれた?」
「少し」
「だって、栞が“行きたい”って言ってくれたから」
やっぱりそうだ。
私は一瞬でまた顔が熱くなる。
教室の朝だ。
ひまりもいるし、クラスメイトもいる。
なのに、この人は本当にさらっとそういうことを言う。
「……朝からそれは反則です」
「本当だから」
「……」
「あと」
恒星くんは少しだけ声を落とす。
「楽しみで、ちょっと落ち着かない」
その言葉に、私は思わず彼を見た。
恒星くんも、なのか。
私だけがこんなにそわそわしているわけじゃないのか。
そう思った瞬間、胸の奥の緊張がほんの少しだけやわらいだ。
「……私も」
小さく返すと、彼の表情がふっとほどける。
「うん」
「でも」
「うん?」
「まだ、デートって言葉に慣れないです」
「そっか」
「……」
「じゃあ、少しずつ慣れて」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないよ」
彼は少しだけ笑った。
「でも、慣れていくのも一緒がいい」
その言い方があまりにもやわらかくて、私はそれ以上何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひまりは開口一番こう言った。
「で」
「何」
「デートの詳細」
「まだ決まってない」
「じゃあ今日決める」
「……私が?」
「彼氏が?」
「ひまり」
「何」
「すごい圧」
「必要だから」
ひまりはお弁当の蓋を開けながら、私をじっと見る。
「で、何系がいいの」
「何系って」
「遊園地とかはたぶん違うでしょ」
「……違う」
「映画館?」
「映画もいいけど、最初にそれだと会話減りそう」
「おお」
「……」
「ちゃんと考えてるじゃん」
少しだけ悔しい。
でも、実際そうだった。
せっかく最初の休日に会うのなら、ただ横に座って終わるより、ちゃんと話せる方がいい。
そんなことまで考えてしまっている自分に、私は少しだけ驚いていた。
「書店とか」
私はぽつりと言った。
「うん」
「あと、カフェとか」
「うんうん」
「その辺なら、たぶん落ち着く」
ひまりは満足そうに頷いた。
「いいじゃん」
「……」
「栞っぽいし、一条くんも好きそう」
「そうかな」
「そうだよ。しかも話しやすい」
それは大事だった。
私はまだ、デートというだけでかなり緊張している。
だったら、少しでも“自分らしくいられる場所”の方がいい。
「で」
ひまりがまた言う。
「服はどうする」
「……」
「はい来ました」
「……そこが一番問題」
「だよね」
私は本気でため息をついた。
「私服で会うのが、まず無理」
「うん」
「頑張りすぎるのも変だし」
「うん」
「でも、あんまりいつも通りすぎるのも」
「うん」
「……」
「可愛く見られたい?」
ひまりがさらっと言う。
私は一瞬だけ黙った。
そして、その質問に対して、自分が逃げずに答えたいと思っていることに気づく。
「……見られたい」
小さく言う。
「うん」
「少しだけでも」
「うん」
「可愛いって思ってほしい」
そこまで口にして、私は自分で頬が熱くなるのを感じた。
今までの私なら、ここで必ず“でも私なんて”が出ていた。
でも今は、それより先に“そう思ってほしい”が出た。
それが、少しだけ誇らしくもあった。
「よし」
ひまりが力強く言う。
「今日放課後、うち来な」
「……お願いします」
◇ ◇ ◇
放課後。
ひまりの家の最寄り駅まで一緒に移動して、私は少し緊張しながら彼女の部屋に入った。
「適当に座って」
「……お邪魔します」
「さて」
ひまりが腕まくりでもしそうな勢いで振り返る。
「恋する女子高生・朝比奈栞の初デート服会議を始めます」
「やめて、その言い方」
「でも事実でしょ」
「……」
「で、今持ってるのどれ」
私は少し恥ずかしさをこらえながら、スマホのメモにまとめていた手持ちの服を見せた。
カーディガン。
シンプルなスカート。
少しやわらかい色のブラウス。
ワンピースも一着だけある。
「うん」
ひまりが真剣な顔で頷く。
「思ったより全然いける」
「そう?」
「うん。ただ」
「ただ?」
「栞、一歩間違えると“可愛い”より“図書委員の落ち着いた人”に寄りすぎる」
「それの何がだめなの」
「だめじゃないけど、初デートならもう少し柔らかくしたい」
「……」
「あとね」
ひまりは私をじっと見た。
「眼鏡はそのままでいい」
「え」
「そこ変えなくていい」
私は少し驚いた。
「でも、外した方が」
「栞」
ひまりがきっぱり言う。
「あんたの可愛さって、眼鏡込みで成立してるとこある」
「……」
「好きな人が見てる“いつもの栞”を残したまま、少しだけ甘くするのが正解」
その言葉が妙に胸に残った。
たしかにそうだ。
私は眼鏡を外した自分を知っているし、恒星くんも知っている。
でも、今好きになってくれた私は、黒縁眼鏡のままの私でもある。
だったら、それを消さなくていいのかもしれない。
「じゃあ」
ひまりがクローゼットの方を指さす。
「まず、一番手堅い組み合わせから試す」
「試すって」
「着るの」
「ここで!?」
「そうだよ」
「何でそんな元気なの」
「楽しいから」
私は小さくため息をつきながらも、どこか少しだけ救われていた。
ひまりとこうして騒いでいると、デートの緊張が“楽しみな緊張”に少し変わっていく。
可愛く見られたい。
ちゃんと恋人らしく会いたい。
そういう気持ちを、今日は少しだけ自分に許してあげられる気がした。
◇ ◇ ◇
結局その日は、何パターンか着てみて、一番しっくりきた組み合わせをひまりと一緒に決めた。
やわらかい色のブラウスに、淡いスカート。
カーディガンは落ち着いた色だけど、少しだけ春らしい薄手のもの。
髪は下ろしすぎず、でもいつもより少しだけやわらかく見えるまとめ方。
「うん」
ひまりが腕を組んで頷く。
「いい」
「……ほんとに?」
「うん。頑張ってるけど頑張りすぎてない」
「……」
「しかも栞っぽい」
その評価が、今の私には一番うれしかった。
頑張りすぎていない。
でも、ちゃんと可愛く見える。
そして、自分らしい。
鏡の前でその姿を見ると、少しだけ緊張しながらも、ほんの少しだけ“好きになれる”気がした。
「……明日」
私は小さく言う。
「うん」
「ちゃんと会えるかな」
「会えるよ」
「変じゃないかな」
「変じゃない」
「……」
「栞」
「何」
「好きな人と会うために、ちゃんと可愛くなろうとしてる時点で、もう十分えらい」
私はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
えらい、なんて。
そんなふうに思ったことはなかった。
でも、今は少しだけそう思ってもいいのかもしれない。
◇ ◇ ◇
その夜、家に帰ってから、私はもう一度だけ鏡の前に立った。
明日着る予定の服をハンガーにかけて、髪型を少しだけ確認して。
黒縁眼鏡を外したり、またかけたりしながら、自分の顔を見る。
いつもの私だ。
でも、明日は少しだけ違う私で会いに行く。
好きな人に。
恋人として。
その事実が、また胸の奥を落ち着かなくさせる。
でも今は、その落ち着かなさがちゃんと嬉しい。
「……今日だけは」
鏡の中の自分に向かって、小さくつぶやく。
「少しだけ、自分を好きでいたい」
そう思えたことが、たぶん今の私には一番大きな変化だった。




