第37話 ひまり、彼氏面の甘さに大騒ぎする
恋人になってから数日が経ったのに、私はいまだに“一条恒星が彼氏である”という事実にちゃんと慣れきれていなかった。
慣れきれていない、というより。
そのたびに新しく実感して、そのたびにちゃんと胸が騒ぐ。
名前で呼ぶこと。
彼氏、と心の中で言うこと。
そして、昨日の帰り道で手をつないだこと。
あの帰り道を思い出すだけで、私は今でも左手が少し熱くなる気がする。
ただ指をからめただけなのに。
ただ駅まで歩いただけなのに。
どうしてあんなに、全部が特別に思えたんだろう。
「……だめだな」
朝、駅へ向かう道を歩きながら小さくつぶやく。
だめ、というのは悪い意味じゃない。
もうかなり、恋をしている人の思考だな、という意味だ。
しかも、その恋の相手は、付き合う前よりもずっと自然に私を甘やかしてくる。
それがまた、心臓に悪い。
昨日だってそうだ。
人が多いから、なんてもっともらしい理由をつけて手をつないで。
そのくせ、自分も緊張してると正直に言って。
最後には“嫌じゃなかった”の一言を嬉しそうに受け取っていた。
……ずるい。
でも、好きだから困る。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、ひまりは私の顔を見た瞬間、わざとらしく目を細めた。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日もいい顔」
「何その評価」
「“昨日の帰り道が甘すぎてまだ現世に戻れてません”の顔」
「ひまり」
「図星」
私は鞄を机に置いて、小さく息をついた。
最近、この親友に隠し事をするのはほぼ不可能だと思う。
「……何でそんなに分かるの」
「分かるよ」
ひまりは当然みたいに言う。
「栞、昨日よりさらにふわふわしてるもん」
「……」
「で?」
「何」
「手、つないだ?」
あまりに直球すぎて、私は危うく椅子に座り損ねるところだった。
「……っ」
「はい確定」
「ひまり!」
「いや、今の反応で分かるって」
「……」
「うわあ、つないだんだ」
「声大きい」
「でもだって、やっとそこまで行ったんだよ?」
ひまりは本気で感動しているみたいな顔をしていた。
やめてほしい。
でも、その感動の仕方がちょっとだけありがたくもある。
「……昨日、駅まで」
観念して小さく言うと、ひまりは机をばんばん叩いた。
「無理、可愛い」
「何で」
「付き合ってからの初手つなぎでしょ?」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて絶対そう」
「……」
「で? 一条くん、どんな感じだった?」
私は少しだけ目を伏せた。
「……普通みたいな顔してた」
「うん」
「でも、耳ちょっと赤かった」
「うわ」
「あと、自分もかなり心臓うるさいって」
「うわぁ」
「だからその“うわ”やめて」
「無理だって」
ひまりは笑いながらも、少しだけしみじみした顔になった。
「よかったじゃん」
「……何が」
「栞だけがいっぱいいっぱいなんじゃなくて、向こうもちゃんと同じくらい大事にしてる感じ」
私は返事をしなかった。
でも、その通りだと思った。
恒星くんは、余裕があるように見えて、実はちゃんと緊張している。
それが分かるたびに、私の方も少しだけ安心するのだ。
◇ ◇ ◇
その日の一時間目が終わったころ、私は教室の後ろで配布物を整理していた。
先生に頼まれたプリントを、列ごとに数えながら分けていく。
単純作業のはずなのに、途中で誰かに名前を呼ばれた。
「栞」
もう、最近は声だけで分かる。
振り返ると、恒星くんが立っていた。
「……何」
まだ少しだけ、教室の中でその名前呼びに慣れない。
でも、前より自然に返せるようにはなってきた。
「それ、配るの手伝う」
「……大丈夫」
「分かってる」
「じゃあ」
「でも手伝う」
「……」
「朝比奈さんじゃなくて、栞の方の“大丈夫”だから」
私は一瞬だけ言葉に詰まった。
そういうところなのだ。
恒星くんは、私の“できる”と“無理してる”をちゃんと分けて見ている。
それがうれしいのに、ちょっと悔しい。
「……少しだけなら」
「うん」
彼は自然に私の隣へ立って、プリントの束を受け取る。
その動きがあまりにも当たり前みたいで、私は少しだけ周りが気になった。
でも、恒星くんはそんな私に気づいたのか、小さく声を落とした。
「大丈夫」
「……何が」
「変に見せるつもりはないから」
「……」
「でも、手伝いたいのは本当」
その言い方があまりにも穏やかで、私は何も言えなくなった。
そこへ、ちょうどひまりが戻ってきた。
そして、私たちの様子を見て、ものすごく分かりやすく眉を上げる。
「はいはいはい」
「何」
私が睨むと、ひまりは肩をすくめた。
「いやあ、すごいなと思って」
「何が」
「彼氏面」
「……」
「今の一条くん、完全に彼氏面だった」
私は思わず固まった。
ひまりは構わず続ける。
「プリント手伝うだけなのに、“俺がやるの当然でしょ”みたいな顔してた」
「瀬名さん」
恒星くんが苦笑する。
「そんな顔してた?」
「してた」
「……」
「しかも栞の“大丈夫”の種類まで判別してた」
「……」
「それもう彼氏どころか、だいぶ本気の彼氏だよ」
私は顔が熱くなるのを感じた。
言われてみれば、その通りだった。
付き合う前から世話焼きではあった。
でも、今はそこに“彼氏としての当然さ”みたいなものが混ざっている気がする。
それが、やけにくすぐったい。
◇ ◇ ◇
昼休み。
ひまりはお弁当を開くなり、再びその話題を持ち出した。
「いやー、午前中でもう十分だった」
「……何が」
「一条くんの彼氏面」
「やめて」
「だって本当じゃん」
ひまりは卵焼きをつまみながら楽しそうに言う。
「椅子引く、荷物持つ、視線で体調確認する、名前呼ぶ」
「……」
「しかも全部、自然すぎる」
「……」
「栞、あれ気づいてる?」
「何に」
「朝から一条くん、あんたのことめちゃくちゃ見てる」
「……」
「しかも“見てるの隠してません”って感じ」
私はお弁当箱の隅を見るしかなかった。
気づいていないわけじゃない。
むしろ、分かってしまうから困っている。
視線が合うたび、胸の奥が落ち着かなくなるのだから。
「……でも」
私は小さく言った。
「前より、ちょっと安心する」
「うん」
「何でか分かんないけど」
「分かるよ」
「何で」
「彼氏だからでしょ」
ひまりがあっさり言う。
「前は“何でこんなに優しいの”って戸惑ってた」
「……」
「今は“彼氏だから”がちゃんと理由になる」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
たしかに、そうかもしれない。
名前で呼ばれることも。
手伝われることも。
手をつながれることも。
前なら全部、“どうしてこんなに”と戸惑っていた。
でも今は、そこに“彼氏だから”という理由がある。
その理由があるだけで、甘さの受け取り方が少し変わる。
怖さが減るわけじゃない。
でも、前よりちゃんと嬉しい。
「……ずるい」
ぽつりとつぶやくと、ひまりが笑う。
「うん、でも今の栞、そのずるさ込みでかなり幸せそう」
「……」
「否定しないんだ」
「……できない」
「よろしい」
◇ ◇ ◇
午後、移動教室のあとで廊下を歩いていたときだった。
他クラスの男子が、私にプリントを渡しながら普通に話しかけてきた。
「朝比奈さん、これ先生に出しといてって」
「あ、ありがとう」
「あとさ、こないだの交流イベントのとき――」
その会話自体は、何の変哲もないものだった。
でも、その途中で向こうから歩いてきた恒星くんの表情が、ほんの少しだけ変わるのが分かった。
怒っているわけじゃない。
でも、笑ってもいない。
静かに、少しだけ機嫌が悪そうな顔。
私は思わず息を止めた。
男子が去ったあと、恒星くんは私の前で足を止める。
「……今の」
「うん?」
「何か、楽しそうだった」
「え」
「笑ってた」
「……普通に話してただけ」
「知ってる」
声は静かだ。
でも、少しだけ不機嫌。
私はそこでようやく気づいた。
これ、もしかして。
「……嫉妬ですか」
小さく聞くと、恒星くんが少しだけ目を細めた。
「してるように見える?」
「……少し」
「じゃあ、してる」
あまりにも素直に認められて、私は一瞬、言葉を失った。
それから、胸の奥に、くすぐったいような甘いような感覚が広がる。
嫉妬してる。
彼が。
私に。
それが、意外すぎるくらい嬉しかった。
「……」
「何」
「ちょっと、可愛いって思いました」
言った瞬間、恒星くんが本気で固まった。
私は自分でもびっくりしていた。
でも、本当にそう思ってしまったのだ。
あんなに整っていて、余裕がありそうな人が、私のことで少しだけ不機嫌になっている。
それが、どうしようもなく甘かった。
「……栞」
「何」
「今の、反則」
「何が」
「その顔でそういうこと言うの」
「……」
「だめだ、ほんとに」
彼が小さく息を吐く。
「今日はもう、だいぶ無理かも」
「何がですか」
「理性」
私は少しだけ笑ってしまった。
最近、この人の“理性”はしょっちゅう危ないらしい。
でも、その危うさが今の私には前よりずっと愛おしい。
◇ ◇ ◇
放課後、ひまりにその話をすると、案の定ものすごく盛り上がった。
「え、待って」
「何」
「一条くん嫉妬したの?」
「……たぶん」
「たぶんじゃなくて絶対じゃん」
「……」
「で、栞は“可愛い”って言ったの?」
「……言った」
ひまりは机に突っ伏した。
「無理。糖度高すぎ」
「何で」
「それ、彼氏側からしたら一番効くやつ」
「……」
「しかも普段あんまりそういうこと言わない栞が?」
「……」
「そりゃ理性も危ないでしょ」
私はもう反論する元気もなかった。
でも、少しだけ分かる。
嫉妬している恒星くんを見て、私は嫌じゃなかった。
むしろ、ちゃんと私のことを恋人として見ているんだと実感して、嬉しくなってしまった。
その自分の変化にも、少し驚く。
◇ ◇ ◇
帰り道、私は今日一日のことを思い返していた。
ひまりの言う通り、恒星くんはかなり“彼氏面”だった。
そしてそのことに、私はもう前ほど戸惑ってばかりではいられなくなっている。
大事にされること。
気にかけられること。
少しだけ独占されること。
そういうものを、少しずつ“自分のもの”として受け取れるようになってきている。
それはたぶん、すごく大きな変化だった。
「……ほんとに、変わったな」
小さくつぶやくと、夕方の風がやわらかく頬に触れた。
恋人になったあとの日常は、思っていたよりずっと甘くて、思っていたよりずっと不器用だ。
でも、だからこそ一つひとつが胸に残る。
今日の私は、たぶん“彼氏の嫉妬”を初めてちゃんと嬉しいと思った。
その事実が、なんだかとてもくすぐったかった。




