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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第36話 恋人になったのに、手をつなぐだけで大事件です

恋人になったのだから、手をつなぐくらい普通なのかもしれない。


 朝、駅へ向かう道を歩きながら、私はそんなことをぼんやり考えていた。


 考えていた、というより、自分に言い聞かせていた、の方が近い。


 だって昨日、私はちゃんと名前で呼んだ。

 恒星くん、と。

 しかも最後には、自然に「また明日ね」まで言ってしまった。


 思い出した瞬間、胸の奥がまた熱くなる。

 でも同時に、少しだけ思うのだ。


 名前を呼び合うことに比べたら、手をつなぐことだって、そのうち慣れるのかもしれない。

 ……いや、たぶん今は全然無理だけど。


「……何で朝からそんなこと考えてるんだろう」


 私は小さくつぶやいて、眼鏡の位置を直した。


 たぶん理由は簡単だ。

 昨日の帰り際、別れたあとにふと思ってしまったのだ。


 恋人になって、名前も呼び合えて。

 でもまだ、ちゃんと“恋人らしい距離”には全然慣れていない、と。


 抱きしめられたことはある。

 でもそれは、告白の流れの中の特別な時間だった。

 日常の中で、当たり前みたいに手をつなぐ、みたいなことはまだ一度もない。


 だから今朝の私は、妙にそれを意識してしまっていた。


 ……そんな日に限って、たぶん何か起きるのだ。


   ◇ ◇ ◇


 教室へ入ると、ひまりがすぐにこちらを見た。


「おはよ」

「……おはよう」

「今日は何」

「何が」

「“昨日の名前呼びをまだ引きずってます”の次の顔」

「次の顔って何」

「何かまた新しいこと考えてる顔」

 私は少しだけ言葉に詰まった。

 ひまり、本当に怖い。


「……」

「図星」

「まだ何も言ってない」

「言ってないけど、顔が言ってる」

 ひまりは私の前の席に座って、頬杖をついた。

「で、今日は何を一人で意識してるの」

「……」

「栞」

「……手」

「手?」

「……手をつなぐとか」

 言った瞬間、ひまりが口を押さえた。

「うわ」

「だからその“うわ”やめて」

「いや、だってとうとうそこまで来たかって」

「……」

「恋人っぽいことを自分から考え始めてるじゃん」

「……」

「いい傾向です」

「先生みたいに言わないで」


 でも、ひまりは少しだけやわらかく笑っていた。

「そりゃ意識もするよ」

「……そうかな」

「だって付き合いたてだよ?」

「……」

「むしろ、しない方が変」

 その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。


 たしかにそうかもしれない。

 恋人になったのに、何も変わらない方が不自然だ。

 それなのに私は、変わるたびにいちいち心臓を乱している。


 でも、きっとそういうものなのだろう。

 少しずつ、少しずつ、慣れていくものなのかもしれない。


 そのとき、教室の入り口が少しだけざわついた。

 私はもう、反射で顔を上げる。


 恒星くんが入ってきた。


 そして目が合った瞬間、昨日みたいに、ほんの少しだけやわらかく笑う。


 その笑い方がもうだめだ。

 朝から胸がぎゅっとなる。


   ◇ ◇ ◇


「おはよう」

 恒星くんが机のそばまで来て言う。


「……おはよう」

 返した瞬間、彼の視線が少しだけやわらいだ。


「今日は昨日より自然」

「……何が」

「返事」

「……」

「でも、ちょっとだけ違うこと考えてる顔」

 私は本気で息を止めた。


 何でそんなに分かるんだろう。

 今日は特に、朝からひまりにも同じことを言われた気がする。


「……分かりやすすぎません?」

「栞が?」

「うん」

「そうかも」

「恒星くん」

「何」

「笑わないでください」

「ごめん。でも、可愛いから」

「……朝からそれ禁止です」

「無理かも」

「……」

「今日は放課後、一緒に帰れる?」

 その問いに、私は少しだけ心臓が跳ねるのを感じた。


「……たぶん」

「たぶん?」

「委員会の提出物が終われば」

「じゃあ待ってる」

「……」

「栞?」

「……そんな自然に言わないでください」

「どうして」

「……嬉しくなるので」

 言ってから、自分で少しだけ固まった。

 でも恒星くんは、その言葉をあまりにも大事そうに受け取った。


「うん」

「……」

「じゃあ、ちゃんと待ってる」


 その返し方がまた甘くて、私はもうそれ以上何も言えなかった。


   ◇ ◇ ◇


 その日は午後にちょっとした提出物の締切が重なっていて、放課後しばらくは職員室と教室を往復していた。


 プリントを出して、先生に確認をもらって、委員会のノートを返して。

 ようやく全部終わったころには、校舎の窓が少しずつ夕方の色に変わっていた。


「……終わった」

 小さく息を吐く。


 その瞬間、すぐ近くから聞き慣れた声がした。


「お疲れさま」

 振り返ると、恒星くんがいた。

 本当に待っていたらしい。


「……待ってたんですか」

「うん」

「ずっと?」

「そうでもないよ。栞が最後に職員室入るの見えたから、そのあと少し」

「……」

「嫌だった?」

「嫌じゃないです」

 そう答えると、恒星くんが少しだけ目を細めた。


「じゃあ、帰ろうか」

「……うん」


 校門を出て並んで歩く。

 夕方の風は少しだけ涼しくて、でも隣にいる温度がやわらかいから、寒くは感じない。


 何でもない話をする。

 先生の口調の真似とか、提出物が多すぎるという愚痴とか、ひまりが昼休みにパンを二つ食べていたとか。

 それだけなのに、前よりずっと落ち着く。


 そして、駅まであと少しというところで。

 人通りが少しだけ多い場所に差しかかった。


 部活帰りの生徒や、買い物帰りの人たちが前から来る。

 歩道は広いけれど、並んで歩くには少しだけ気を遣うくらいの混み方だ。


 私は自然に少し端へ寄ろうとした。

 その瞬間。


 恒星くんの手が、私の左手に触れた。


「……っ」


 触れただけ、じゃない。

 そのまま、指先がそっとからむ。


 手を、つながれた。


 私はその場で本気で息を止めた。

 頭の中が一瞬真っ白になる。


「……恒星くん」

 どうにか声を出すと、彼は前を向いたまま、小さく言った。


「うん」

「……今」

「うん」

「……手」

「つないだ」

 あまりにもそのまま答えられて、私はますます何も言えなくなる。


「……」

「嫌?」

 少しだけ慎重な声だった。

 その問いに、私は慌てて首を振る。

「嫌じゃない」

「うん」

「でも」

「うん」

「急すぎます」

 恒星くんが少しだけ笑った気配がした。


「ごめん」

「……」

「でも、人多いから」

「それは」

「うん」

「分かるけど」

「うん」

「……心の準備が」

 そこまで言うと、彼は少しだけ指に力を込めた。

 強くではない。

 でも、離さないくらいにはちゃんと。


「俺も準備できてない」

「……え」

「今、かなり心臓うるさい」

 私は思わず彼の横顔を見た。

 夕方の光の中で、その耳がほんの少しだけ赤い。


 ああ、そうか。

 落ち着いているように見えて、向こうもちゃんと緊張しているんだ。


 それが分かった瞬間、少しだけ呼吸がしやすくなった。


「……そうなんですか」

「うん」

「……」

「でも」

 恒星くんが少しだけこちらを見る。

「今離したら、たぶん今日はずっと引きずる」

 私はまた息を呑んだ。


 今離したら、今日はずっと引きずる。

 その言い方があまりにも正直で、あまりにも甘い。


「……それ、ずるいです」

「うん」

「ずるいって分かって言ってる」

「うん」

「……」

「でも本当だから」


 私はもう、手を振りほどくことなんてできなかった。

 むしろ、つながれたままの手がじんわり熱を持っているのを、妙に大事に思ってしまう。


   ◇ ◇ ◇


 駅前までの道のりは、驚くほど短く感じた。


 前に一緒に歩いたときは、隣にいるだけで胸がいっぱいだった。

 今日はそこに、“手をつないでいる”が追加されている。


 たったそれだけなのに、世界の解像度が変わったみたいだった。

 道端の花も、夕方の空も、車の音も、全部少し遠い。

 近いのは、自分の手の中の温度だけだ。


「……あったかい」

 気づけば、小さくそうつぶやいていた。


 恒星くんが少しだけ目を細める。

「手?」

「……」

「うん、俺も思ってた」

「……」

「栞の手、あったかい」

 私はまた顔が熱くなる。

 もう今日何回目か分からない。


「……そんなこと、言わなくていいです」

「言いたいから言う」

「……」

「だめ?」

「……だめじゃないです」

「うん」

「でも、慣れない」

「俺も」

 彼は少しだけ笑う。

「だからちょうどいい」

 その言い方に、私は少しだけ笑ってしまった。


 そうかもしれない。

 私だけが慣れないわけじゃない。

 彼もたぶん、恋人として手をつなぐことに、ちゃんと嬉しくて、ちゃんと緊張している。


 そう思えたら、この甘すぎる状況にも少しだけ耐えられる気がした。


   ◇ ◇ ◇


 改札の前で、私たちはようやく手を離した。


 離れた瞬間、少しだけさみしいと思ってしまった自分に、私は内心で驚く。

 でも、それを口には出せない。


 まだ手をつないだだけなのに、これ以上欲しがるなんて、さすがに自分でも早すぎる気がした。


「……じゃあ」

 私が言うと、恒星くんは少しだけ名残惜しそうに笑った。

「うん」

「また明日」

「また明日、栞」

 名前で返される。

 そのたびに胸が跳ねるのに、もう前より少しだけ自然に受け取れるようになっている。


 私は改札を通る前に、小さく言った。


「……嫌じゃなかったです」

「何が?」

「……手」

 恒星くんが一瞬だけ目を見開く。

 それから、ほんとうに幸せそうに笑った。


「よかった」

「……」

「俺も、すごくよかった」

 私はもうそれ以上何も言えず、小さく会釈して改札を抜けた。


   ◇ ◇ ◇


 帰りの電車の中で、私は自分の左手をずっと見ていた。


 もう何も触れていない。

 でも、まだそこに温度が残っている気がする。


 恋人になったのに、手をつなぐだけで大事件です。

 そんな言葉が、頭の中で妙にしっくりきた。


 名前を呼ぶことも。

 隣に並ぶことも。

 手をつなぐことも。


 全部、恋人になったからといって急に平気になるわけじゃない。

 むしろ、一つずつがちゃんと意味を持ちすぎていて、前よりずっと心にくる。


 でも、その一つずつをこうして覚えていくのかもしれない。

 恋人になる、ということを。


「……ほんとに、すごいな」


 小さくつぶやいて、私は少しだけ笑った。


 たぶん今日は、家に帰ってからも何度もこの手を見てしまうんだろう。

 それくらい、今日の“初手つなぎ”は私にとって大事件だった。

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