第35話 名前で呼ぶだけで、恋人になった実感が押し寄せる
恋人になってから最初の問題は、意外にも大きなことではなかった。
手をつなぐとか。
放課後どう過ごすとか。
誰にどこまで知られるかとか。
そういうことより先に、私の心をいちばんかき乱していたのは――呼び方だった。
昨日の朝、教室で思わず「恒星くん」と呼びかけてしまったこと。
それを本人が、信じられないくらい嬉しそうに受け取ったこと。
そして、そのあと一日中、私はその余韻だけで心臓が落ち着かなかったこと。
名前で呼ぶ。
ただそれだけなのに、恋人になった途端、その意味が一気に重くなった。
前から分かっていたつもりだった。
名前には距離が出る。
名字より近くて、呼ぶだけで少し特別になる。
でも、“彼氏の名前”となると、話は全然違った。
「……だめだ」
朝、鏡の前で私はまた小さくつぶやいた。
黒縁眼鏡をかけて、髪を整えて、リボンの位置を直す。
見た目はいつもの私だ。
でも、中身が全然いつもじゃない。
だって今日は、たぶんまた呼ばなきゃいけない。
昨日の朝みたいな偶然じゃなくて。
もっと自然に。
もっと当たり前みたいに。
そんなの、無理かもしれない。
「栞ー」
母の声が聞こえる。
「朝ごはんー」
「今行くー」
私は深呼吸してから部屋を出た。
階段を下りながら、頭の中で何度も練習する。
こうせいくん。
恒星くん。
……だめだ。文字で考えるだけで恥ずかしい。
食卓につくと、母が私を見てにっこりした。
「今日は昨日より落ち着かない顔」
「見ないで」
「無理よ、娘だもの」
父まで新聞の向こうから言う。
「最近のおまえ、朝からずっと忙しそうだな」
「心がって意味なら否定しない」
「何だそれ」
「こっちの話」
私は味噌汁を飲みながら、視線をそらした。
ほんとうに、こっちの話だ。
今の私は、呼び方ひとつで心臓がどうにかなりそうな人間なのだから。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、ひまりは案の定、一秒で私の顔を読んだ。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日は何」
「何が」
「“名前呼びミッションが未達成です”って顔」
「ひまり」
「図星でしょ」
私は鞄を机に置きながら、少しだけ眉を寄せた。
「そんな顔にまで名前つけないで」
「でもほんとじゃん」
「……」
「今日の課題、そこなんでしょ?」
ひまりは私の前の席に座って、頬杖をついた。
「呼ぶの?」
「……分からない」
「呼びたい?」
「……」
「図星」
「……呼びたくないわけじゃない」
「はい出ました」
「でも、口に出すとほんとにだめ」
「何が」
「恋人になった実感が、一気に来る」
ひまりが少しだけやわらかく笑った。
「それ、いいことじゃん」
「いいことだけど、心臓に悪い」
「最近ずっとそれ言ってるね」
「だって本当に悪い」
「知ってる」
ひまりは笑いながら、でも少しだけ真面目な顔で続けた。
「でもさ、栞」
「何」
「彼氏の名前を呼ぶって、慣れるしかないやつだよ」
「……」
「最初は恥ずかしいに決まってる」
「……」
「でも、恥ずかしいって思うくらい大事なんでしょ」
私は少しだけ黙った。
そうかもしれない。
恥ずかしいのは、そこにちゃんと意味があるからだ。
“誰でもいい名前”じゃなくて、“好きな人の名前”だから。
そのことを考えた瞬間、また少しだけ頬が熱くなった。
「今日も可愛い反応するねえ」
「うるさい」
「でも、そのうち自然に言えるようになるよ」
「……そうかな」
「うん。たぶん、一条くん――じゃなくて恒星くんの方が先に慣れさせてくる」
「ひまり」
「何」
「それ、すごくありそうで嫌」
「嫌じゃないくせに」
「……」
否定できないのが悔しかった。
◇ ◇ ◇
一時間目が始まる前。
教室の空気がまだ少し落ち着かない中で、彼はやっぱりやって来た。
恒星くん。
もう心の中では自然にそう呼べる。
でも、実際に口から出すのは別問題だ。
「おはよう」
彼は私の机のそばで立ち止まって、穏やかに言った。
「……おはよう」
私はどうにか返す。
昨日よりは少しだけ自然に言えた気がする。
でも、そのあとがだめだった。
彼は少しだけ首を傾ける。
「今日は名前で呼んでくれないんだ」
「……っ」
朝からそれを言うのか。
ほんとうにこの人は容赦がない。
「……教室です」
私は小さく抗議する。
「うん」
「朝です」
「うん」
「みんないます」
「知ってる」
「じゃあ」
「知ってるけど、聞きたい」
その言い方がずるい。
責めるでもなく、ただ純粋に“聞きたい”みたいな顔で言うのだから、余計に断りにくい。
私は視線を机の端に落とした。
呼びたい。
でも、今ここで、そんな簡単に言えない。
「……あとで」
やっとそれだけ言うと、恒星くんの表情が少しだけやわらいだ。
「ほんとに?」
「……」
「約束?」
「……一条くん」
「そこはまだ一条くんなんだ」
「……今は」
「じゃあ、あとでね」
そう言って彼は小さく笑った。
その笑い方に、私はますます落ち着かなくなる。
後ろから、ひまりが机をばんばん叩いている気配がした。
お願いだからやめてほしい。
◇ ◇ ◇
午前中の授業は、昨日よりさらに集中できなかった。
理由は単純だ。
“あとで”と言ってしまったからである。
あとで。
つまり私は、あとで本当に呼ばなければいけない。
恒星くん、と。
言わなければ。
でも、どういう流れで?
どんな顔で?
呼んだあと、私はちゃんと平静でいられるのだろうか。
無理な気がする。
でも、昨日あんなに嬉しそうな顔をされたあとでは、もう後戻りもしにくい。
二時間目の途中で、ふと顔を上げたら、斜め向こうの席から彼がこちらを見ていた。
目が合う。
その瞬間、彼はほんの少しだけ笑う。
そしてすぐ前を向く。
……たぶん、あれは絶対に“あとで”を覚えている顔だ。
私はノートの上でシャープペンを握りしめた。
だめだ。
ほんとうに今日一日、まともじゃない。
◇ ◇ ◇
昼休み。
私はひまりに半分引きずられるみたいにして、中庭のベンチへ連れていかれた。
「で」
「何」
「どうするの」
「何が」
「名前呼び」
「……」
「あとでって言ったんでしょ」
「……言った」
「じゃあやるしかない」
「他人事みたいに言わないで」
「他人事だから」
私は本気でため息をついた。
「ひまりは平気なの」
「何が」
「彼氏の名前呼ぶの」
「普通に呼ぶよ」
「……」
「でも最初はちょっと照れた」
「やっぱり」
「そりゃそうでしょ」
ひまりはジュースのパックを持ちながら肩をすくめる。
「でもさ、好きな人に名前呼ばれて、こっちも名前呼ぶって、恋人っぽくていいじゃん」
「……」
「それがしたいんでしょ?」
「……」
「図星」
私は返す言葉を失った。
たしかに、少しだけ憧れていた。
名前を呼び合うこと。
それが自然な距離になること。
恋人っぽい、というその感じそのものに。
でも、いざ自分のことになると、現実味が強すぎて心臓が追いつかないのだ。
「……呼びたい」
私は観念して小さく言った。
「うん」
「でも、たぶん呼んだ瞬間に赤くなる」
「それはもう諦めて」
「ひまり」
「何」
「雑」
「でも本質」
彼女は笑ってから、少しだけ真面目な目で私を見る。
「栞」
「何」
「嬉しいことには、ちょっとずつ慣れていけばいいんだよ」
「……」
「今までそういうの、自分に許してこなかったんだから」
私は少しだけ黙った。
その通りだと思う。
私はずっと、そういう甘いことを“自分にはまだ早い”とか“似合わない”で遠ざけてきた。
でも、今はもう、近づいたものをちゃんと受け取りたいと思っている。
その練習が、たぶん今日なのだ。
◇ ◇ ◇
放課後。
結局、私は一日中そわそわしたままだった。
恒星くんは三時間目の休み時間にも、四時間目のあとにも、わざとその話題を出したりはしなかった。
でも時々こちらを見て、少しだけ楽しそうに笑う。
たぶん、待っている。
“あとで”を。
そして私も、それを分かっている。
ホームルームが終わったあと、私は教科書をゆっくり鞄に入れた。
ひまりが小声で言う。
「行ってらっしゃい」
「……うん」
「がんばれ、栞」
私は小さく頷いて、廊下へ出た。
階段の踊り場の近く。
人は少ないけれど、完全な二人きりではないくらいの場所。
恒星くんは、窓際で待っていた。
「来た」
「……うん」
「約束、覚えてる?」
「……」
「栞」
名前を呼ばれる。
それだけで胸が跳ねる。
私は少しだけ深呼吸した。
逃げない。
今日は、ちゃんと。
「……恒星くん」
小さな声で、でもはっきりと言った。
言えた。
ちゃんと、口に出した。
その瞬間、恒星くんの表情がふっと崩れた。
驚いて、嬉しくて、どうしようもないみたいにやわらかくなる。
「……今の、だめ」
「何が」
「嬉しすぎる」
「……」
「もう一回」
「一条く……」
「恒星くん」
「……」
「ね?」
その“ね?”が甘すぎる。
私は完全に言い負かされていた。
でも、ここでやめたくないとも思っている自分がいる。
「……恒星くん」
今度はさっきより少しだけ自然に呼ぶ。
すると彼は目を閉じて、小さく息を吐いた。
「……録音したい」
「やめてください」
「無理かも」
「なんで」
「今日しばらく頑張れそうだから」
「……それ昨日も聞いた」
「じゃあ今日はもっと頑張れる」
その返しに、私は少しだけ笑ってしまった。
笑った瞬間、恒星くんが少しだけ身をかがめる。
「今の顔も好き」
「……そういうのやめてって言ってるのに」
「だって、本当だから」
「……」
「栞が俺の名前呼ぶだけで、こんなにうれしいの、ちょっとすごい」
私はもう、どうしていいのか分からなかった。
でも、前ほど“困るだけ”ではなくなっているのも分かる。
恥ずかしい。
心臓に悪い。
でも、その全部ごと、嬉しい。
「……慣れないです」
正直に言うと、恒星くんは少しだけやわらかく笑った。
「俺も」
「え」
「呼ばれるたびに、たぶんしばらく毎回嬉しい」
「……」
「だから、ゆっくりでいい」
その言い方があまりにもやさしくて、私は少しだけ胸の力が抜けた。
ゆっくりでいい。
そう言われると、本当に少しずつ慣れていける気がする。
「……また明日ね、恒星くん」
気づけば、自然にそう言っていた。
言った瞬間、自分で固まる。
でも、もう遅い。
恒星くんは少しだけ目を見開いて、それから今まで見た中でもかなり幸せそうに笑った。
「……うん」
「……」
「今の、今日一番うれしいかも」
「……帰ります」
「照れた?」
「帰ります」
「可愛い」
「帰ります!」
私は半分逃げるように踊り場を離れた。
◇ ◇ ◇
帰り道、駅へ向かう途中で、私は何度も今のやり取りを思い返していた。
また明日ね、恒星くん。
たったそれだけ。
でも、その言葉には今の私の全部が詰まっていた気がする。
好きな人の名前を呼ぶこと。
彼氏の名前を呼ぶこと。
それは、思っていた以上に甘くて、苦しくて、でも幸せだった。
私は改札を通りながら、小さく息を吐いた。
名前で呼ぶだけで、恋人になった実感が押し寄せる。
それはたぶん、しばらく続くのだろう。
でも、悪くない。
むしろ、そのたびに少しずつ、ちゃんと“恋人”になっていく気がした。




