第34話 彼氏彼女になった朝は、目が合うだけで甘すぎる
恋人になった翌朝というものが、こんなにも落ち着かないものだなんて、私は知らなかった。
知らなかったというか、たぶん一生知らないまま終わると思っていた。
だって、昨日までの私は。
好きだと認めることすら怖くて、“私なんて”の中に縮こまっていた、ごく普通の地味な女子高生だったのだ。
それが、たった一日で。
――彼氏ができた。
その事実を、朝起きた瞬間から、私は何度心の中で反芻したか分からない。
「……無理」
布団の中で、私はまた小さくつぶやいた。
昨日も言った。
今朝も言った。
たぶんこれからしばらく、私は事あるごとに“無理”と言うんだと思う。
何が無理かと言えば、全部だ。
好きだと伝えたことも。
抱きしめられたことも。
ちゃんと告白されて、ちゃんと「お願いします」と答えたことも。
その全部が本当に起きたことだという現実も。
そして何より。
今日から私は、学校で一条恒星と“彼氏彼女”として会うのだ。
……いや、別に、急に教室の真ん中で「おはよう、彼女」みたいなことを言われるわけではない。
そんな人じゃない。
たぶん。
いや、でも昨日までの彼を思い返すと、絶対ないとも言い切れないのが怖い。
「栞ー!」
母の声が下から飛んでくる。
「起きてるなら返事しなさい!」
「起きてる!」
「じゃあ降りてきなさい!」
「今行くー!」
私は布団から抜け出し、洗面所で顔を洗った。
鏡の中の自分は、やっぱりいつもの私だった。
黒縁眼鏡の前の、少し頼りなさそうな顔。
でも、その顔の奥が昨日までと少し違う。
胸の奥に、小さくてでも確かな熱がある。
それはもう、“片想いの熱”とは少し違っていた。
「……ほんとに付き合ったんだな」
そうつぶやいてから、私は黒縁眼鏡をかけた。
◇ ◇ ◇
朝食の席についた瞬間、母が私を見てにっこりした。
「あら」
「何」
「今日は朝から幸せそう」
「……」
「図星ね」
「お母さん」
「何?」
「朝からそういうこと言わないで」
「でもほんとだもの」
父まで新聞の向こうから顔を出す。
「昨日よりさらに顔がやわらかいな」
「……」
「何かいいことあったんだろ」
「……ない」
「ない顔じゃない」
「うるさい」
私は味噌汁を飲みながら視線をそらした。
でも、朝から家族にここまで見抜かれているなら、学校ではどうなるんだろうと少しだけ不安になる。
ひまりには間違いなく一秒でばれる。
それはもう覚悟していた。
問題は、一条くん――いや、もう私の中では少しずつ“恒星くん”に切り替わりつつある、その彼と顔を合わせたときだ。
普通にできる気がしない。
でも、できない顔をするのも恥ずかしい。
そんなことを考えているうちに、あっという間に学校へ着いてしまった。
◇ ◇ ◇
教室の扉を開けた瞬間、ひまりがこちらを振り向いた。
そして一秒で、全部を悟った顔になった。
「おはよ」
「……おはよう」
「はい、来ました」
「何が」
「昨日よりさらに顔が恋してる」
「ひまり」
「だってそうでしょ」
彼女は私の机の前に来て、じっと顔をのぞき込む。
「何その、幸せだけど恥ずかしくて死にそう、みたいな顔」
「……」
「図星だ」
「朝からうるさい」
「いや、でもさ」
ひまりは少しだけやわらかく笑った。
「よかったね、栞」
その言い方が妙にまっすぐで、私は少しだけ言葉に詰まった。
「……うん」
「ちゃんと、よかったって顔してる」
「……でも、すごく落ち着かない」
「そりゃそうでしょ」
「今日、どういう顔で会えばいいのか分かんない」
「普通でいいんじゃない?」
「普通ができない」
「それもそう」
ひまりはあっさり頷いた。
その雑さがありがたい。
「でも」
彼女は少しだけ口元をゆるめる。
「たぶん向こうも同じくらい落ち着いてないと思うよ」
「……そうかな」
「そうだよ。昨日あんな感じで終わって、翌朝いきなり平然としてたら逆に怖い」
「……」
「だから安心しな」
その言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
そうかもしれない。
自分だけじゃない。
彼だって、たぶん同じように今日を意識している。
そう思えた、その直後だった。
教室の入り口が少しだけざわつく。
私は反射みたいに顔を上げた。
一条恒星が立っていた。
◇ ◇ ◇
その瞬間、私はほんの少しだけ息を止めた。
いつも通りだった。
制服も、表情も、立ち方も、何もかも整っている。
教室の空気を変えるくらい目立つのに、その目立ち方に嫌味がないのも、いつも通り。
でも、ひとつだけ、昨日までと違うことがある。
私の中で、この人はもう“好きな人”ではなく“彼氏”なのだ。
そう思った瞬間、ただ目に入っただけなのに胸の奥が熱くなる。
昨日までと同じ顔のはずなのに、どうしてこんなにも違って見えるんだろう。
彼も私に気づいた。
そして一瞬だけ、ほんのわずかに表情がやわらぐ。
その変化は、たぶん私以外にはほとんど分からない。
でも私は、もうそれが分かってしまう。
恒星くんは自分の席に鞄を置いてから、自然な足取りでこちらへ来た。
そのあたりの所作が、いかにもいつも通りで、逆に心臓に悪い。
「おはよう」
穏やかな声。
「……おはよう」
どうにか返す。
でも、自分の声が少しだけぎこちないのが分かった。
恒星くんはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「眠れた?」
「……」
「その沈黙は、あんまりだね」
「……恒星くんこそ」
言い返した瞬間、自分で少しだけ固まった。
名前を呼んだ。
昨日の踊り場以来、こんな普通の教室で。
恒星くんも一瞬だけ目を見開いた。
でもすぐに、ひどく甘い笑みになる。
「うん」
その返事が、前よりずっとやわらかい。
「今の、かなり嬉しい」
「……朝からそれはずるいです」
「本当だから」
その一往復だけで、私はもうだいぶ危なかった。
教室の中だ。
ひまりもいるし、クラスメイトもいる。
なのに、ここだけ少し空気が違う気がする。
「今日」
恒星くんが小さく言った。
「朝から、すごく顔見たいって思ってた」
「……」
「見たら落ち着くかなって思ったけど」
「……」
「逆だった」
その正直さが、昨日までよりさらに胸にくる。
「……私も」
小さく返すと、恒星くんの表情がまたやわらいだ。
「うん」
「朝から、心臓に悪いです」
「俺も」
「……」
「だから、たぶん今日はお互い様」
その言い方に、私は少しだけ笑ってしまった。
そうだ。
きっと今日は、まだ慣れない一日なのだ。
恋人になったばかりの、不器用で甘い初日。
それなら、落ち着かないのも仕方ないのかもしれない。
◇ ◇ ◇
一時間目が始まっても、私はまったく集中できなかった。
黒板の文字を書き写しながらも、頭の中にはさっきのやり取りが残っている。
朝から顔を見たかった。
見たら落ち着くかと思ったら逆だった。
そういうことを、こんな普通の朝にさらっと言うのは、本当にずるい。
でも、それが嬉しいのだからどうしようもない。
ふと視線を上げると、斜め向こうの席にいる恒星くんが、ほんの一瞬だけこちらを見た。
目が合う。
その一瞬のあと、彼は少しだけ目元をやわらげた。
そして何事もなかったみたいに前を向く。
……もうだめだ。
あれが“彼女を見る目”かもしれないなんて考えたら、まともに授業なんて受けられない。
◇ ◇ ◇
二時間目のあと、廊下でばったり麗華と会った。
九条麗華は、私を見るなり一秒だけ目を細めた。
そして、その次の瞬間には、きわめて落ち着いた顔で口を開く。
「おはよう、朝比奈さん」
「……おはようございます」
「ずいぶん分かりやすいわね」
「……何がですか」
「空気が」
私は思わず言葉を失った。
麗華は小さく肩をすくめる。
「安心なさい。見ていれば分かる程度で、騒ぎ立てるほどではないわ」
「……」
「でも」
そこで彼女は少しだけ口元をやわらげた。
「おめでとう、とは言っておく」
その一言に、私は目を見開いた。
意地悪ではない。
皮肉でもない。
ちゃんとまっすぐな祝福だった。
「……ありがとうございます」
どうにかそれだけ返すと、麗華はほんの少しだけ頷いた。
「彼、今日は朝から少し浮ついていたもの」
「……」
「見ていて珍しいくらい」
その言い方に、私はまた頬が熱くなる。
やっぱり、自分だけじゃなかったのだ。
彼もちゃんと、今日を意識している。
そのことがなんだかひどく嬉しかった。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひまりと一緒にパンを食べていると、教室の入り口に恒星くんが現れた。
クラスの女子たちが一瞬だけそちらを見る。
でも、彼はもうそれに慣れた顔で、自然にこちらへ来る。
「栞」
その呼び方が、ごく当たり前みたいに落ちてくる。
それだけで私はまた少しだけ緊張する。
「……何」
「昼、少し時間ある?」
「……」
「今日は言い方がもう彼氏なんだよなあ」
ひまりが横から小さくぼやく。
「瀬名さん」
「何」
「うるさい」
「はいはい」
私は少しだけ息をついてから、恒星くんを見た。
「少しなら」
「じゃあ、食べ終わったら中庭」
「……うん」
「待ってる」
そう言って去っていく後ろ姿まで、今日はなんだか違って見える。
「ねえ」
ひまりがすぐに私の顔を覗き込む。
「何」
「今の顔、すごい」
「何が」
「幸せと緊張が半々」
「……」
「しかも呼ばれ慣れてない」
「まだ慣れない」
「そりゃそうだ」
ひまりは笑いながら言う。
「でもさ」
「何」
「呼ばれるたびに嬉しいんでしょ」
「……うん」
「よろしい」
何が“よろしい”なのか分からないけれど、少しだけ肩の力が抜けた。
◇ ◇ ◇
中庭のベンチには、やわらかい昼の光が落ちていた。
恒星くんは私が来ると、すぐに少しだけ目を細めた。
「来た」
「……来ます」
「うん」
「呼ばれたので」
「それ、地味に嬉しい」
私は彼の隣に座った。
昼の中庭は人の気配が遠くて、でも完全な二人きりではない。
その微妙な距離感が、今の私たちにはちょうどよかった。
「今日」
恒星くんがぽつりと言う。
「ずっと、変な感じ」
「……私も」
「やっぱり」
「だって」
私は少しだけ視線を落とした。
「昨日までと同じようにしてるつもりなのに」
「うん」
「同じじゃないの、分かるから」
「……」
「目が合うだけで、前より」
言い切れなくて、私は言葉を飲み込んだ。
でも恒星くんは、その先をちゃんと分かっているみたいに頷いた。
「甘い?」
「……」
「違う?」
「……違わない」
そう認めると、恒星くんは少しだけ息を吐いた。
それは、嬉しさをこらえるみたいな音だった。
「俺も」
「……」
「今、目が合うだけで、前よりずっとだめ」
「……」
「彼女だから、って意識する」
私は思わず両手で自分の膝をぎゅっと押さえた。
彼女。
またその言葉だ。
そのたびに、まだ少しだけ心が追いつかない。
「……一条くん」
「うん?」
「そういうの」
「うん」
「急に言わないでください」
「どうして」
「嬉しいのに、困るので」
「……」
「あと、まだ心の準備が」
そこまで言うと、恒星くんが小さく笑った。
「分かった」
「……」
「じゃあ、朝から甘すぎるのはちょっと反省する」
「本当ですか」
「少しだけ」
「少しなんだ」
「だって」
彼は少しだけ身をかがめる。
「嬉しいの、隠しきれない」
私はもう、どう返せばいいのか分からなかった。
でも、たぶん、こうして困っている顔まで含めて好きになられているのだろうと思うと、それはそれでまた胸があたたかくなる。
◇ ◇ ◇
放課後までの時間は、朝より少しだけ楽だった。
彼も私も、少しずつ“恋人になった翌日”の空気に慣れ始めていたのかもしれない。
もちろん、目が合うたびに少しだけ胸は跳ねる。
でも、その跳ね方に少しずつ意味が馴染んでくる感じがあった。
帰り際、昇降口で靴を履き替えていると、恒星くんがすぐそばに立つ。
「今日は一緒に帰れる?」
「……うん」
「よかった」
その一言に、また少しだけ胸が甘くなる。
校門を出て並んで歩く。
昨日と同じ道なのに、今日は少しだけ落ち着いて見える。
「ねえ」
恒星くんが言う。
「何」
「今朝、名前呼びかけてくれたの」
「……」
「ずっと嬉しかった」
「まだ言うんですか」
「言う」
「……」
「だって、彼女になって最初の朝だったから」
私はその言葉を聞いて、少しだけ視線を下げた。
最初の朝。
そうか。
今日という日は、そういう日なのだ。
たぶんこの先、もっといろんな“最初”が増えていく。
最初のデート。
最初の喧嘩。
最初の手つなぎの続き。
そういうものを、これから一緒に積み重ねていくのかもしれない。
その想像が、少し怖くて、でもすごくうれしかった。
「……恒星くん」
今度は、ちゃんと自分から呼んだ。
彼がすぐにこちらを見る。
「何」
「今日」
「うん」
「朝から少し甘すぎました」
「うん」
「でも」
私は少しだけ笑う。
「嫌じゃなかったです」
その瞬間、恒星くんの表情がふっとほどけた。
「……それ、かなりうれしい」
「最近そればっかり」
「本当にそうだから」
その返しに、私はもう笑うしかなかった。
彼氏になったあなたは、朝から少し甘すぎる。
でもたぶん、私はそういう甘さに、これから少しずつ慣れていくのだろう。
怖いけれど。
でも、もうちゃんと好きだから。




