第33話 彼氏になったあなたは、朝から少し甘すぎる
翌朝、私は目覚ましが鳴るより前に目を覚ました。
そして目を覚ました瞬間に、布団の中で顔を覆った。
「……ああ……」
声にならない声が漏れる。
昨日のことを思い出したからだ。
屋上手前の踊り場。
夕方の光。
震える声で言った“好き”。
やわらかく抱きしめられたこと。
そして、ちゃんと告げられた言葉。
――俺と付き合ってください。
――お願いします。
思い出した瞬間、胸の奥がまた熱くなる。
夢じゃない。
昨日、私は本当に一条恒星と付き合い始めたのだ。
付き合った。
その事実がまだ全然、体に馴染んでいない。
「……無理」
昨夜と同じことをまた言って、私は枕に顔を押しつけた。
何が無理かと言えば、全部だ。
彼氏。
彼氏って何。
一条くんが? 私の?
いや、恒星くん、なのか。
名前で呼ぶって約束みたいな流れになった気がするけれど、朝からそんなこと本当にできるのだろうか。
無理かもしれない。
でも、昨日の私はちゃんと呼んだ。
恒星くん、と。
あの顔を思い出しただけで、また心臓が変な音を立てる。
「栞ー、起きてる?」
母の声が聞こえてきて、私は慌てて返事をした。
「起きてる!」
「じゃあ降りてきなさい。今日は顔見たら全部分かりそうだから覚悟してね」
「何その予告」
「お母さんは勘がいいの」
「嫌な勘」
でも、階段を下りながら私は少しだけ笑ってしまった。
昨日までの私は、好きだと伝えるまでに何度も立ち止まった。
でも今日は、その先の日常が始まる。
それが怖いのに、どこか少しだけ楽しみでもある。
◇ ◇ ◇
家を出る直前、玄関の鏡に映る自分を見て、私は少しだけ立ち止まった。
黒縁眼鏡。
まとめた髪。
制服。
見た目は何も変わらない。
でも、昨日までとは決定的に違うことがある。
私は今、恋人がいる。
その現実が、鏡の中のいつもの自分と少しちぐはぐで、妙にくすぐったかった。
「栞」
母が玄関からのぞいてくる。
「今日はちょっとだけ可愛い通り越して、幸せそうよ」
「……やめて」
「事実なのに」
「そういうことを朝から言わないで」
「じゃあ夜に言う」
「言わなくていい」
母はくすくす笑っていた。
たぶんもう、私が何か大きな変化の中にいることは察しているのだろう。
でも、問い詰めないでいてくれるのがありがたかった。
◇ ◇ ◇
教室へ向かう廊下を歩きながら、私はずっと落ち着かなかった。
会ったらどうするんだろう。
今まで通り“おはよう”でいいのか。
それとも、昨日の続きみたいな顔になるのか。
……たぶん、なる。
教室の前まで来て、深呼吸をひとつした。
そして扉を開けた瞬間、ひまりと目が合った。
「おはよ」
「……おはよう」
「うわ」
「その反応やめて」
「無理。今日の栞、すごい」
「何が」
「“昨日の夜から今日の朝まで百回くらい付き合った事実を反芻しました”の顔」
「ひまり」
「図星」
私は鞄を机に置いて、少しだけ視線を逸らした。
図星だから困る。
ひまりは立ち上がって、私の肩を軽く叩いた。
「で?」
「何」
「彼氏できた翌朝の感想」
「……心臓に悪い」
「うん」
「実感がない」
「うん」
「でも、会うのは楽しみ」
「はい」
「でも、会ったら絶対無理」
「はい、完全に恋する女子高生」
私は本気で顔を覆いたくなった。
そのとき、教室の入り口が少しだけざわついた。
もう反射みたいに分かる。
私は顔を上げた。
一条恒星――いや、恒星くんが、そこにいた。
いつも通り整っている。
でも、私と目が合った瞬間、その表情がほんの少しだけ崩れた。
やわらかく。
うれしそうに。
隠しきれないくらいに。
その顔を見た瞬間、私はもうだめだった。
昨日までと同じ人のはずなのに、見え方が全然違う。
彼氏、なんだ。
ほんとうに。
「おはよう」
彼が近づいてきて言う。
声まで少しだけ甘く聞こえるのは、たぶん私のせいだ。
「……おはよう」
どうにか返す。
でも、自分の声が少しだけ上ずっているのが分かった。
恒星くんは私の机のそばで立ち止まって、少しだけ身をかがめた。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「……」
「その顔は寝てないね」
「恒星く……」
そこまで言って、私は固まった。
今、言いかけた。
教室で。
みんなの前で。
恒星くんも一瞬だけ目を見開いた。
でも、すぐに口元がやわらかくなる。
「うん」
その返事が小さくて、すごくやさしい。
それだけでまた胸が苦しくなる。
「……っ」
「朝から可愛い」
「やめてください」
「無理かも」
「朝です」
「うん」
「教室です」
「知ってる」
「ひまりが見てる」
「うん」
「かなり面白がってるよ」
後ろからひまりの堪えきれない笑い声が聞こえた。
最悪だ。
「でも」
恒星くんが少しだけ声を落とす。
「今の、すごくうれしかった」
私はもう、返す言葉がなかった。
◇ ◇ ◇
一時間目が始まっても、私はまともに集中できなかった。
黒板の文字が全然頭に入ってこない。
なぜなら、数分前に教室で“恒星くん”と呼びかけかけてしまったからだ。
しかも本人がそのことをものすごく嬉しそうに受け取っていたから、余計にだめだった。
授業中、ふと視線を上げると、彼がこちらを見ていた。
ほんの一瞬だけ。
でも、目が合った瞬間、少しだけ笑う。
前ならその笑みの意味を探っていた。
今は違う。
あれは“彼女を見る顔”なのかもしれない、と思ってしまう。
それが、甘くて、苦しくて、幸せで、落ち着かない。
◇ ◇ ◇
二時間目のあと、廊下へ出ると、恒星くんがすぐ隣まで来た。
「栞」
名前で呼ばれる。
今までと同じはずなのに、意味が違う。
「……何」
「今日、放課後少し一緒に帰れる?」
「……」
「無理ならいい」
「無理じゃ、ない」
「よかった」
そう言って笑う顔が、あまりにも自然で、私は少しだけ不思議になった。
「……一条くん」
「うん?」
「何でそんなに普通なんですか」
「普通?」
「昨日、あんな」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
廊下だ。人がいる。
でも恒星くんは意味が分かったらしく、小さく笑った。
「普通に見える?」
「少しは」
「じゃあ成功かな」
「成功?」
「俺もかなり落ち着いてないから」
その返しに、私は思わず彼を見た。
恒星くんは少しだけ肩をすくめる。
「朝、栞の顔見た瞬間、抱きしめたくなった」
「……っ」
「でも教室だったから我慢した」
「そんな報告いりません」
「必要かと思って」
「必要じゃないです」
私は即答したけれど、顔はたぶん真っ赤だった。
彼はそれを見て、少しだけ目を細める。
「うん、やっぱり可愛い」
「ほんとにやめてください」
「無理」
「最近そればっかり」
「だって彼女だから」
その一言に、私は完全に固まった。
彼女。
彼女、って。
そんなに自然に言うんだ。
たぶん顔に全部出ていたのだろう。
恒星くんは少しだけ困ったように笑った。
「だめだった?」
「だめとかじゃなくて」
「うん」
「心の準備が」
「それは、ごめん」
「……」
「でも、少しずつ慣れて」
その言い方が甘くて、私はまた何も言えなくなった。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひまりは私の弁当箱を見ながら妙に優しい声を出した。
「で?」
「何」
「“彼女”って言われた?」
私は危うく卵焼きを落としかけた。
「何で分かるの」
「顔」
「顔で全部判断するのやめて」
「でも当たってるでしょ」
私は黙った。
ひまりはにやっとしつつも、少しだけしみじみした声で言う。
「よかったじゃん」
「……何が」
「ちゃんと始まったんだなって感じする」
「……」
「今までも十分甘かったけど、付き合ったあとの言葉ってやっぱ違う?」
私は少しだけ考えてから、正直に頷いた。
「……違う」
「うん」
「同じこと言われても、意味が違う」
「そりゃそうだ」
「なんか」
私は箸を持ったまま、小さく息を吐く。
「逃げ場がない感じ」
「それ悪い意味?」
「……半分くらいは」
「あと半分は?」
「……うれしい」
ひまりは満足そうに頷いた。
「はい、よくできました」
「何その褒め方」
「だって、やっと素直」
私は少しだけ笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
放課後。
約束通り、私は恒星くんと一緒に帰ることになった。
校門を出て並んで歩く。
今までだって何度もこうして歩いた。
でも今日は、全部が少し違う。
言葉の端。
視線の温度。
そして、“一緒に帰る理由”そのものが違う。
「なんか」
私が小さく言う。
「今日、変です」
「何が?」
「全部」
「うん」
「昨日までと、同じなのに違う」
恒星くんは少しだけ笑った。
「俺もそう思ってた」
「……」
「でも、嫌じゃない」
「……うん」
「栞は?」
その問いに、私は少しだけ考えた。
嫌じゃない。
むしろ、すごくうれしい。
でも、うれしいまま落ち着けない。
その両方が本当だ。
「……嫌じゃない」
「うん」
「でも、まだ慣れない」
「うん」
「だから、時々ちょっと待ってほしいです」
恒星くんはその言葉を静かに聞いて、やわらかく頷いた。
「分かった」
「……」
「でも」
「何」
「待つのはいいけど、甘やかすのはやめられないかも」
「一条くん」
「うん」
「それがだめなんです」
「どうして」
「好きになったあとにそれやられると、余計にだめなので」
言ってから、自分で何を言ってるんだろうと思った。
でも、恒星くんは笑うより先に少しだけ息を止めた。
「……今の、かなり効いた」
「何に」
「理性」
「またそれですか」
「本当だから仕方ない」
駅前のベンチまで来たところで、恒星くんが立ち止まる。
「少し座る?」
「……うん」
私たちは並んで腰を下ろした。
夕方の空気は少しひんやりしていて、でも隣にいる温度はやわらかい。
「栞」
「何」
「今日、ちゃんと彼女って実感した」
「……」
「朝、名前呼びかけてくれたのも」
「……」
「さっき、“好きになったあと”って言ってくれたのも」
「……」
「全部、うれしい」
私はうつむきながら、自分の缶ココアを両手で持ち直した。
こういうふうに、何気ない言葉のひとつひとつを大事にされると、胸がいっぱいになる。
そして同時に思うのだ。
こんなふうに大事にされてしまったら、私はたぶん、もっと好きになるしかない。
「……恒星くん」
小さく呼ぶと、隣の気配が少しだけやわらいだ。
「うん」
「その」
「うん」
「私も、今日ちょっとだけ実感しました」
「何を?」
「……付き合ったこと」
その瞬間、彼の肩が少しだけ揺れた。
笑ったのかもしれない。
「それ、すごくうれしい」
「最近そればっかり」
「だって、本当に」
彼は少しだけ近づいて、でも触れない距離で止まる。
「毎回、ちゃんと更新されるから」
「更新?」
「好きの実感」
私はもう、まともに顔を上げられなかった。
夕方の駅前。
春の風。
隣にいる彼氏。
恋人になったばかりのぎこちなさ。
全部が甘くて、まだ少しだけ現実感がなくて、でもすごく大事に思えた。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私は窓に映る自分を見ていた。
黒縁眼鏡。
いつもの私。
でも、昨日までと同じではいられない。
私はようやく少しだけ“恋人になったあとの日常”の入口に立ったのだと思う。
まだ全然慣れない。
でも、慣れたいと思っている自分がいる。
それが、たぶんいちばん大きな変化だった。




