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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第32話 はじめての“好き”は、昔よりずっと甘くて苦しい

 階段の踊り場に、夕方の光が斜めに差し込んでいた。


 窓の外はもう少しで夜になりそうな色をしているのに、ここだけはまだ柔らかく明るい。

 その光の中に、一条恒星が立っている。


「来た」

 彼がさっき言った、そのひと言がまだ耳に残っていた。


 私は階段の手すりをほんの少しだけ握って、どうにか息を整えようとした。

 でも、だめだ。

 落ち着かない。

 落ち着けるわけがない。


 だって今から私は、たぶん、人生でいちばん大事なことを言おうとしている。


 怖い。

 ものすごく怖い。

 でも、逃げたくはなかった。


 好きになったから怖い。

 でも、好きだから進みたい。

 昨日までずっと、自分の中でぐるぐるしていたその気持ちが、今はちゃんと一本の線みたいになって、胸の真ん中に通っている。


 恒星は何も急かさなかった。

 数歩離れたところで、ただ静かに私を見ている。

 待っている。

 それだけで、少しだけ泣きそうになる。


「……あの」

 最初に出た声は、自分でも驚くくらい頼りなかった。


「うん」

 恒星がすぐに返す。

 低くて、やわらかい声。

 それだけで少しだけ落ち着く自分がいて、私は胸の前で握っていた手に力を込めた。


「ちゃんと」

 言葉を探す。

「ちゃんと、言おうと思って」

「うん」

「でも、上手く言えるかは、ちょっと分からない」

「うん」

「だから……変だったら、ごめん」

 そこで、恒星がほんの少しだけ目を細めた。


「変でもいいよ」

「……」

「栞の言葉なら、それでいい」


 その言い方が、あまりにもこの人らしかった。

 綺麗に言えなくてもいい。

 ちゃんと整っていなくてもいい。

 ただ私の言葉ならいい、と。


 そんなふうに言われたら、もう余計に好きになってしまうじゃないかと思う。

 でも、たぶんもうそれは手遅れだった。


「……私」

 私はゆっくり息を吸った。

「最初は、一条くんがどうして私に優しいのか、全然分かんなくて」

「うん」

「昔のことを覚えててくれたって知っても」

「うん」

「それだけじゃないって、分かってきても」

「……」

「ずっと怖かった」

 恒星は黙って聞いている。

 その沈黙が、ちゃんと私のために空けられているのが分かる。


「私なんて、って思ってたし」

「うん」

「釣り合わない、とか」

「うん」

「近づいたら傷つくかも、とか」

「うん」

「そういうのばっかり考えて」

 私は少しだけ笑った。

「たぶん、すごく面倒くさかったと思う」

 そこで、恒星が少しだけ首を振る。

「面倒くさくない」

「……」

「一回もそう思ったことない」


 その否定があまりにも早くて、私は少しだけ息を止めた。

 でも今は、それに救われすぎないように、ちゃんと続きを言いたかった。


「でも」

 私は彼を見る。

「それでも、一条くんは待ってくれた」

「……」

「急がせないでくれたし」

「……」

「私が逃げようとすると、ちゃんと止めてくれた」

「……」

「そういうのが、すごく嬉しかった」

 胸の奥が熱い。

 でも、ここで止まるわけにはいかない。


「昔のことを思い出せたのも、嬉しかった」

「うん」

「でも」

 私は少しだけ唇を結んで、それからはっきり言った。

「それより、今の一条くんを見て、好きになった」

 言った瞬間、時間が止まったみたいだった。


 踊り場の空気も、窓の外の色も、全部少し遠くなる。

 聞こえているのは、自分の心臓の音だけ。


 好きになった。


 ちゃんと、言った。

 昔の延長じゃなくて。

 思い出の補正でもなくて。

 今の彼を見て、好きになったのだと。


 恒星は何も言わなかった。

 でも、その表情が少しずつ変わっていくのが分かった。


 驚いて。

 ほどけて。

 信じたくて。

 そして、たぶん、すごく嬉しくて。


 私はその顔を見ているだけで、また泣きそうになる。


「……でも」

 私は慌てて続けた。

 ここで止まると、ただ感情だけが溢れてしまいそうだったから。


「まだ怖いのも本当で」

「……」

「好きだって認めたあとに、なくなったらどうしようとか」

「……」

「そういうの、今でもちょっと思う」

「……」

「だから、完璧に余裕があるわけじゃないし」

「……」

「綺麗に、何も怖くないですって言えるわけでもない」

 そこまで言うと、恒星がやっと小さく息を吐いた。


 その吐息は、ずっと止めていた呼吸がやっと流れたみたいだった。


「……うん」

 彼が言う。

「それも、全部聞きたいと思ってた」

「……」

「好きって言ってくれたことも」

「……」

「怖いって言ってくれたことも」

 私は少しだけ目を見開く。


 そうか。

 この人はたぶん、私の“怖い”まで含めて、ちゃんと受け取ろうとしているのだ。

 好きだけじゃなくて。

 その手前にある弱さも、迷いも。


 それがあまりにも嬉しくて、私はとうとう目を伏せた。

 泣きそうになったから。


「……栞」

 名前を呼ばれる。

 いつもより少し低くて、でも、どこまでもやわらかい。


「俺も」

 恒星がゆっくり言葉を紡ぐ。

「ずっと好きだった」

「……」

「昔から大事だった」

「……」

「でも」

 少しだけ間を置く。

「今の栞を見て、前よりもっと好きになった」

 胸がぎゅっと締まる。


 その“もっと”が、あまりにも甘くて、苦しい。


「昔の約束があるからだけじゃない」

「……」

「今、こうして困った顔したり、頑張って言葉にしたりする栞が」

「……」

「たまらなく好き」


 もう、どうしてこんなに欲しい言葉ばかりくれるんだろう。

 私は少しだけ目元を押さえたくなった。

 でも、眼鏡があるから変に触れない。


「……一条くん」

「うん」

「そういうの」

「うん」

「ほんとに、ずるい」

 声が少しだけ震えた。


 すると恒星が小さく笑った。

「知ってる」

「……」

「でも、今日くらいは許して」

 その言い方があまりにもやさしくて、私は少しだけ笑ってしまった。

 泣きそうなのに、笑ってしまう。


 好きって、こういうことなんだろうか。

 苦しくて、恥ずかしくて、でもちゃんと幸せで。


「……私」

 私はもう一度、彼を見た。

「前に」

「うん」

「はじまりなら、いいかも、って言ったけど」

「……」

「今は」

 息を吸う。

「もう少し、ちゃんと進みたい」

 恒星の目が、ゆっくりとやわらぐ。


「……うん」

「だから」

「うん」

「もし、一条くんがまだ」

 そこで、少しだけ言葉に詰まる。

 でも、ここまで来たのだ。

 最後まで、自分で言いたい。


「……私でいいなら」

「……」

「その」

 心臓が、うるさい。

「これからは、ちゃんと隣にいさせてください」

 言い終わった瞬間、私は自分で顔が熱いのを通り越して、頭まで真っ白になった。


 “付き合ってください”とは、結局、言えなかった。

 でもたぶん、意味は同じだった。

 いや、私なりには、それ以上に本音だったのかもしれない。


 恒星はしばらく何も言わなかった。

 それが不安で、私は思わず彼の顔を見た。


 そして、息を呑む。


 今まで見たことがないくらい、嬉しそうだった。

 きれいに整った顔が、少しだけ崩れるくらいに。

 安心したみたいに。

 ほっとしたみたいに。

 長く持っていた何かが、ようやく報われたみたいに。


「……だめだ」

 彼が小さく言う。

「何が」

「今、すごく」

 恒星は一歩だけ近づいた。

「抱きしめたい」

 私は息を止めた。


 でも、今度は前みたいに、怖さだけじゃなかった。

 恥ずかしい。

 心臓に悪い。

 でも、その言葉が嬉しい。


「……困る?」

 少しだけかすれた声で、彼が聞く。


 私は少しだけ首を横に振った。


「……困らない」

 その瞬間、恒星が本当に少しだけ息を呑んだのが分かった。

 次の瞬間には、私はやわらかく腕の中に包まれていた。


 強すぎない。

 でも、逃がさないくらいにはしっかりしている。

 制服越しの熱が伝わってきて、私は一瞬だけ目を閉じた。


 抱きしめられる、なんて。

 少し前の私なら、それだけで固まっていたと思う。

 でも今は、その温度が怖くない。

 むしろ、ようやくここまで来たんだと思って、少しだけ泣きそうになる。


「……好きだよ、栞」

 耳元でそう言われて、私はもうほんとうにどうしたらいいか分からなくなった。


 でも、答えはちゃんと返したかった。


「……私も」

 腕の中で、小さく言う。

「うん」

「好き」

 それだけで、彼の抱きしめる腕がほんの少しだけ強くなった。


 ああ、伝わったんだと思う。

 やっと。

 ちゃんと。


   ◇ ◇ ◇


 しばらくして、恒星が少しだけ体を離した。

 でも、完全には離れない。

 すぐ近くで、私の顔を見ている。


「……栞」

「何」

「今度こそ、ちゃんと言う」

「……」

「好きです」

「……」

「俺と付き合ってください」

 あまりにもまっすぐで、あまりにも正しい言い方で、私は少しだけ笑ってしまった。


 やっぱりこの人は、そういうところがきちんとしている。


「……はい」

 私は頷く。

「お願いします」

 その瞬間、恒星がほんとうに嬉しそうに笑った。


 その顔を見て、私はまた胸がいっぱいになる。

 今まで積み重なってきたものが、全部ここへつながっていたんだと思った。


 昔の記憶。

 今の気持ち。

 怖さと甘さ。

 全部を抱えたまま、ここまで来た。


 そしてようやく、恋ははっきりした形を持つ。


   ◇ ◇ ◇


 教室へ戻る前、階段の踊り場で、私たちは少しだけ並んで窓の外を見た。


 夕方の空はもうかなり暗くなっている。

 でも、私の胸の中は不思議なくらいあたたかかった。


「……ねえ」

 恒星が言う。

「何」

「今、名前で呼んで」

「……」

「ちゃんと、彼女として聞きたい」

 その言い方が甘すぎて、私は少しだけ困ったように笑う。

 でももう、前みたいに“無理”とは思わなかった。


 人はいない。

 ここは静かだ。

 そして私は、もう逃げなくていい。


「……恒星くん」

 小さく呼ぶ。


 その瞬間、彼の顔がまた少しだけ崩れた。

 嬉しそうに。

 どうしようもないくらいに。


「……だめだ、ほんとに」

「何が」

「今日ずっと幸せ」

 私は少しだけ笑って、でも視線を逸らした。

 そんなことを言われたら、こっちまでどうにかなってしまう。


 でも、嫌じゃなかった。

 むしろ、すごくうれしかった。


   ◇ ◇ ◇


 そのあと教室へ戻ると、ひまりが一目で全部を察した顔をした。


「え」

「……何」

「待って」

「何」

「その顔」

「どの顔」

「いや、もう完全に」

 ひまりは口元を押さえた。

「成功したでしょ」

 私は少しだけ黙って、それから小さく頷いた。


「……うん」

「うわぁぁぁ!」

「声大きい」

「だって!!」

 ひまりは本気で嬉しそうに身を乗り出した。

「え、ちょっと待って、ちゃんと!?」

「……ちゃんと」

「付き合った!?」

「……うん」

 その瞬間、ひまりは机に突っ伏した。

「無理、泣く」

「何でひまりが」

「だってずっと見てたし!」

 私は少しだけ笑ってしまった。


 そうだ。

 ひまりがいたから、ここまで来られたところもある。

 そのことを、あとでちゃんと伝えようと思った。


   ◇ ◇ ◇


 帰り道。

 ひとりになって、駅まで歩きながら、私は何度も今日のことを思い返していた。


 はじめての“好き”は、昔よりずっと甘くて苦しかった。

 昔の約束みたいに無垢ではなくて。

 もっと現実で、もっと怖くて、でもその分、もっと深くてあたたかい。


 恋の答えには、たしかに時間がかかった。

 でも、だからよかったのかもしれない。


 怖いまま進んで。

 迷いながら言葉にして。

 それでもちゃんと届いた。


 それが今の私には、たまらなく大事だった。


 駅のホームに立って、私はガラスに映る自分を見た。

 黒縁眼鏡。

 いつもの私。

 でも、たぶん少しだけ違う。


 隣に立ちたいと思って。

 その隣に、ようやく立てた顔。


「……ほんとに、付き合ったんだ」


 小さくつぶやいて、私は少しだけ笑った。

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