第31話 好きになったから怖い。でも、好きだから進みたい
その夜、私はひどく静かだった。
静か、というより、胸の中だけがずっと騒がしいのに、外側は妙に落ち着いている感じだった。
夕食を食べて、お風呂に入って、自室に戻る。
机の上には開きっぱなしの参考書があるのに、今日はそれを開く気にもなれない。
私はベッドの端に座ったまま、スマホを握って、でも画面は見ずに、ぼんやりと自分の膝を見ていた。
今日、私は言った。
かなり、好きなんだと思う。
まだ“好きです”とは言っていない。
でも、自分の気持ちに対して、そこまで認めたのははじめてだった。
そして一条くんは、急かさなかった。
答えを取ろうとしなかった。
ただ、逃げないで考えてくれるだけでいい、と言った。
その言葉が、今も胸の中であたたかく残っている。
「……ずるい」
小さくつぶやく。
でもその“ずるい”は、いつもみたいな抗議じゃなかった。
好きになってしまう理由を、またひとつ渡された気がして、ただ困っているだけだ。
好きだ。
たぶん、もう、かなりちゃんと。
近づきたい。
隣に立ちたい。
取られたくない。
帰りたくないと思った。
キス、という言葉に心臓がどうにかなりそうになった。
そこまで来ているのに、まだ最後のひと言が言えないのは、やっぱり怖いからだ。
でも、それでも進みたいと思ってしまっている。
――好きになったから怖い。でも、好きだから進みたい。
たぶん今の私は、その真ん中にいる。
スマホが震えた。
ひまりからだった。
『生きてる?』
私は少しだけ笑ってしまう。
あまりにもいつも通りで、ありがたい。
『たぶん』
『またたぶん』
『今日はかなり本気でたぶん』
『何があった』
少し迷ってから、私は打ち込んだ。
『たぶんかなり好きって言った』
すぐに既読がつく。
そして、少し間があってから返信が来た。
『うわ』
『そのうわやめて』
『無理でしょ』
『でもまだ告白じゃない』
『でもほぼ目前じゃん』
私は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
『こわい』
そう送ると、ひまりの返信は少しだけ遅れた。
『うん』
『でも』
『何』
『それでも進みたいんでしょ』
私は指を止めた。
進みたい。
たしかにそうだ。
だから今日、なかったことにしたくないって言えた。
『うん』
『なら大丈夫』
『何が』
『怖くても進む恋は、ちゃんと本物だから』
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ひまりは時々、すごく簡単に核心を言う。
それがありがたい。
でも今日は、そのありがたさが少しだけ痛い。
『告白、するの?』
その一文を見た瞬間、心臓がどくんと鳴った。
告白。
その言葉を、自分のこととしてはまだうまく飲み込めない。
『まだ、分からない』
『じゃあ考えよ』
『どうやって』
『まず、言いたいかどうか』
私はしばらく画面を見つめていた。
言いたいかどうか。
その問いに対する答えは、たぶん、もう出ている。
言いたい。
ちゃんと自分の言葉で伝えたい。
昔のつながりがあるからじゃなくて、今の一条くんを見て、好きになったのだと。
でも、言ったあとが怖い。
『……言いたい』
そう送ると、ひまりからはすぐに返ってきた。
『じゃあ、もう答え出てる』
『でも怖い』
『うん、知ってる』
『失敗したらやだ』
『うん』
『今のままでも十分甘いし』
『はい出ました本音』
私は思わず頬を押さえた。
そうだ。
今のままでも十分甘い。
十分に幸せで、十分に胸がいっぱいで、十分に苦しい。
だから、この関係を“告白”で変えるのが怖い。
でも。
『でも、今のままだとだめな気もする』
そう送ると、ひまりの返信は少しだけ間があった。
『栞』
『何』
『ちゃんと好きになったから、ちゃんと伝えたいって思ってるんでしょ』
『……うん』
『それ、めちゃくちゃまっすぐでえらい』
私はその文を見て、少しだけ目を閉じた。
えらい、なんて言われることじゃない。
でも、少しだけ泣きそうになった。
たぶん私は、ここまで来るのに思っていた以上に時間がかかったのだ。
『明日、顔見たらまたぐらつくと思う』
『うん』
『でも、決めたい』
『よし』
『よしじゃない』
『じゃあ、呼び出しな』
『え』
『ちゃんと』
『そんな簡単に言う』
『簡単じゃないけど、やるならちゃんと』
私はそのメッセージを見つめた。
ちゃんと、呼び出す。
自分から。
それはすごく怖い。
でも、逃げずに伝えるなら、それしかない気もした。
『……考える』
『考えるじゃなくて、たぶんもう決めてるでしょ』
『ひまり』
『何』
『こわい』
『知ってる』
『でも』
『うん』
『ありがと』
『どういたしまして。あと、今の栞はかなり可愛い』
『うるさい』
やり取りが終わって、部屋の中はまた静かになった。
でもさっきまでより、少しだけ心が定まっている気がした。
私はベッドに横になって、天井を見上げる。
好きだ。
たぶん、もうちゃんと。
そしてその気持ちを、今の一条くんに、自分の言葉で渡したい。
それは、きっと怖い。
でも、怖いからやめるんじゃなくて、怖いまま進みたい。
今の私は、たぶんそこまで来ている。
◇ ◇ ◇
翌朝、目が覚めた瞬間から、胸の奥がじわじわと熱かった。
昨日の夜、かなり自分の気持ちを整理したつもりだった。
でも、朝になるとまた別の緊張が生まれる。
今日、顔を見たらどうなるだろう。
昨日までみたいに、また少し甘い言葉をかけられたら。
そのとき私は、決めたことをちゃんと覚えていられるだろうか。
制服に着替えながら、私は何度も深呼吸した。
大丈夫。
今日すぐ言うと決めたわけじゃない。
でも、自分の中ではかなり決めている。
ちゃんと、自分の言葉で伝える方向へ進むのだと。
鏡の中の自分は、少しだけ緊張した顔をしていた。
それでも、逃げたいだけの顔じゃない。
母が「今日はいつもよりしゃんとしてる」と言った。
父は「何か勝負の日か?」と聞いてきた。
私は「違う」としか言えなかったけれど、内心では少しだけ図星だった。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、ひまりが私を見るなり、少しだけやわらかく笑った。
「おはよ」
「……おはよう」
「決めた顔」
「そんなに分かる?」
「分かる」
「……」
「でも、まだ緊張してる顔でもある」
「それも分かる?」
「それはもっと分かる」
私は少しだけ笑ってしまった。
「ひまり」
「何」
「今日、たぶん」
「うん」
「自分でちゃんと決める」
ひまりは一瞬だけ黙って、それから真っ直ぐ頷いた。
「うん」
「……」
「がんばれ、栞」
その言い方があまりにも優しくて、私は少しだけ胸が熱くなる。
そのとき、教室の入り口の方がざわついた。
もう本当に条件反射みたいに、私はそちらを見てしまう。
一条恒星が入ってきた。
目が合った瞬間、彼の表情がやわらぐ。
いつものように。
それだけで、私の胸の奥は簡単に揺れる。
やっぱり好きだ。
こうして顔を見ただけで分かる。
彼は少しだけ近づいてきて、穏やかに言った。
「おはよう」
「……おはよう」
「今日、少し顔違う」
「……何が」
「何か決めてる顔」
私は思わず息を止めた。
どうしてこの人はそういうところばかり分かるんだろう。
でも、今さらそれに驚いてばかりもいられなかった。
「……少しだけ」
私は小さく言った。
「そっか」
恒星はそれ以上は聞かなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めて、「またあとで」と言って自分の席へ向かった。
その“またあとで”が、今日はやけに意味を持って聞こえる。
でももう、私はそこから逃げたくなかった。
◇ ◇ ◇
午前中の授業は、やっぱりあまり頭に入らなかった。
でも、ただ上の空というのとは少し違う。
頭のどこかで、ずっと考えていたのだ。
いつ言うか。
どう言うか。
どこで言うか。
きっと、ちゃんと向き合って言いたい。
人の流れの中じゃなくて、甘い空気に押されてじゃなくて、自分で呼び出して、自分の言葉で。
そんなことを考えているうちに、昼休みが近づいてきた。
二時間目と三時間目の間の短い休み時間。
私は席を立って、教室の後ろの窓際へ行った。
外を見るふりをしながら、どうにか心を落ち着けようとする。
そこへ、すぐ後ろで足音が止まった。
「栞」
名前で呼ばれる。
振り返ると、恒星だった。
「……何」
「今日、ほんとに何かある?」
「……」
「顔見てると、少し緊張する」
私は一瞬だけ言葉を失った。
「一条くんが?」
「うん」
「……」
「栞が何か決めてるときって、いつもより少しだけ綺麗だから」
「……」
「だから、変に期待する」
だめだ。
今そういうことを言うのは本当にだめだ。
心がぐらつく。
でも。
それでも。
私は少しだけ唇を結んで、ちゃんと彼を見た。
「……放課後」
「うん」
「少し、時間ください」
自分の声が少し震えているのが分かった。
でも、それでも言い切った。
恒星が目を見開く。
それから、何かを悟ったみたいに、ごく静かに息を吐いた。
「……分かった」
「……」
「どこに行けばいい?」
「屋上の手前の踊り場」
「うん」
「人、少ないから」
「うん」
「……来てくれますか」
言ってから、自分で少しだけ笑ってしまいそうになる。
何を言っているんだろう。
来るに決まっているのに。
でも恒星は、そんな私をからかわなかった。
むしろ、ほんの少しだけやわらかく笑う。
「行くよ」
「……」
「絶対に」
その言葉があまりにもまっすぐで、私はまた胸がいっぱいになる。
◇ ◇ ◇
昼休み、私はそのことをひまりにだけ伝えた。
「呼んだ」
「うわ」
「だからその“うわ”やめて」
「無理。どうだった」
「……来るって」
「そりゃ来るでしょ」
「絶対に、って」
ひまりは一瞬だけ真顔になった。
「……甘」
「知ってる」
「栞、大丈夫?」
「分かんない」
「だよね」
ひまりは少しだけ笑って、それから私の手を軽く叩いた。
「でも、いいと思う」
「……」
「だって、栞はもう逃げないって決めたんでしょ」
「うん」
「だったら、ちゃんと自分の言葉で行けばいい」
「……」
「上手く言おうとしなくていいよ」
「……」
「好きだってことだけ、ちゃんと届けば」
私は小さく頷いた。
その通りだと思った。
きれいな告白じゃなくてもいい。
言葉が少しくらい不格好でも、自分の気持ちが本物なら、たぶん彼はちゃんと受け取ってくれる。
そう思える相手だから、私はここまで来たのだ。
◇ ◇ ◇
午後の授業は、本当に何も頭に入らなかった。
チャイムが鳴るたびに心臓が跳ねる。
時計を見る回数も増える。
隣の席の子に「具合悪い?」と聞かれてしまって、「大丈夫」と答えたけれど、たぶん全然大丈夫な顔じゃなかったと思う。
それでも時間は進む。
放課後はちゃんと来る。
帰りのホームルームが終わった瞬間、私は一度だけ深呼吸した。
ひまりが振り返って、小さく拳を握る。
私はそれに小さく頷き返した。
そして席を立つ。
廊下を歩く足が少しだけふわふわする。
でも、止まらない。
屋上手前の踊り場へ着くと、まだ彼は来ていなかった。
私は窓の外を見ながら、胸の前で指をぎゅっと握る。
ここまで来た。
もう、戻らない。
数秒後、階段を上がってくる足音がした。
振り返る。
一条恒星がいた。
目が合う。
その瞬間、やっぱり胸が痛いくらい鳴る。
でも、もうそれも含めて本当だと思えた。
「来た」
彼が小さく言う。
「……うん」
「呼んでくれてありがとう」
「……」
私は一度だけ息を吸った。
まだ全部は言えないかもしれない。
でも、言う。
好きだということを、自分の言葉で。
その覚悟だけは、もうできていた。




