第30話 “好き”の一歩手前で、私はまだ立ち止まる
それから数日、私はずっと、胸の中に小さな熱を抱えたまま過ごしていた。
交流イベントは終わった。
後処理もほとんど片づいた。
学校の日常は、少しずつ元の形に戻っていく。
でも、私の中だけは戻らなかった。
あの停電した準備室でのこと。
翌朝のぎこちなさ。
それでも並んで歩けた帰り道。
それら全部が、今もまだ私の中で静かに熱を持っている。
前なら、怖くなった時点で少し距離を取っていたかもしれない。
“私なんて”でうまくごまかして、何事もなかったみたいに、自分の気持ちを少しずつ薄めていたかもしれない。
でも、もうそれがうまくできない。
好きかもしれない、ではなくて。
もうかなり、好きなのだと思う。
それでも、まだ私は、その言葉を自分の口ではっきり言えないでいた。
朝の鏡の前で、私は黒縁眼鏡をかけながら、小さくつぶやいた。
「……ここまで来て、まだなんだ」
好きだと認めたら、きっと何かが変わる。
いや、もう十分変わっているのだけれど、それでも、言葉にするのは別だ。
言葉にした瞬間、戻れなくなる気がする。
そして私はまだ、“戻れなくなること”を少し怖がっていた。
階下から母の声がする。
「栞ー、朝ごはんー」
「今行くー」
私は鏡の中の自分に、ほんの少しだけ苦笑した。
恋って、もっと綺麗に始まるものだと思っていた。
でも実際は、怖くて、恥ずかしくて、うれしくて、全部がいっぺんに来る。
そしてそのどれもが本物だから、余計に手に負えない。
◇ ◇ ◇
教室へ着くと、ひまりは私の顔を見るなり、すぐに察した顔をした。
「おはよ」
「……おはよう」
「また考えてる」
「……」
「しかも今日は、ちょっと重いやつ」
「分かるの」
「分かるよ」
ひまりは私の前の席に座り、頬杖をついた。
「何。好きって認めかけて怖くなってる顔」
「ひまり」
「図星だ」
私は返す言葉を失った。
最近のひまりは本当に恐ろしい。
でも、当たっているから余計に反論できない。
「……認めかけてる、っていうか」
「うん」
「たぶんもう、かなりそうなんだけど」
「うん」
「でも、言葉にした瞬間、全部現実になる気がして」
「……」
「それが、まだちょっと怖い」
ひまりは少しだけ真面目な顔になった。
「そっか」
「うん」
「何が一番怖いの」
「……」
私は少しだけ視線を机に落とした。
一番怖いもの。
それは、考えなくても分かっていた。
「うまくいかなかったとき」
小さく言う。
「……」
「好きだって認めて」
「うん」
「そのあと、もしうまくいかなかったら」
「うん」
「たぶん、今までよりずっと痛いから」
ひまりはそれを聞いて、すぐには何も言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
私はたぶん、そこにいるのだ。
“好き”の一歩手前。
認めたらもうごまかせないところ。
でも、認めた先の痛みを考えて、最後の一歩で立ち止まっている。
「でもさ」
ひまりがやがて言う。
「今もう、立ち止まってるだけで、後ろには戻ってないでしょ」
「……」
「前に進むのが怖いのと、もう好きじゃないから止まるのって、全然違うよ」
「……」
「栞はちゃんと前向きに怖がってる」
その言い方に、私は少しだけ笑ってしまった。
「前向きに怖がるって何」
「そのまま」
「雑」
「でも本質」
ひまりは肩をすくめる。
「それに、一条くんって、無理やり答え取るタイプじゃないじゃん」
「……うん」
「だから、ちゃんと考える時間もくれてる」
「……」
「だったら、怖いままでもいいんじゃない?」
私は黙った。
怖いままでもいい。
その考え方は、今の私には少し救いだった。
好きだと認めたら、急に何もかも完璧にしなきゃいけない気がしていた。
でも、本当はそうじゃないのかもしれない。
怖くても、迷っていても、その中で前へ進むことはできるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
その日の午前中は、不思議なくらい静かだった。
恒星は教室へ来なかった。
廊下ですれ違うことも、休み時間に名前を呼ばれることもなかった。
それはそれで落ち着くはずなのに、私は少しだけ気になってしまう。
あの人が近くにいないと、逆に変に意識してしまうなんて、もうかなり末期だと思う。
三時間目のあと、廊下へ出たとき、ようやく向こうから歩いてくる姿が見えた。
目が合う。
彼は少しだけ歩幅をゆるめた。
「おはよう、の続き」
「……何それ」
「今日はまだちゃんと話してないから」
その言い方に、胸が少しだけあたたかくなる。
「……おはよう」
もう一度言うと、恒星は少しだけ目を細めた。
「うん。今の方が好き」
「何が」
「声」
「……」
「朝よりやわらかい」
「……そんなこと分かるんですか」
「分かるよ」
当然みたいに返されて、私は少しだけ困る。
やっぱりこの人は、私の小さな変化を拾いすぎる。
それがうれしいのに、同時に怖い。
「今日」
恒星が少しだけ真面目な声になる。
「何か考えてる?」
「……」
「顔がそう言ってる」
「そんなに分かりやすいですか」
「うん」
「……」
「でも、無理に聞かない」
その言葉に、私は少し驚いて顔を上げた。
彼はやわらかく笑っている。
でもその笑みの下に、ちゃんと待つ気配がある。
「前の俺なら、たぶん聞いてた」
「……」
「でも、今は」
「……」
「栞が自分で言いたくなるまで待つ」
胸の奥が、きゅっと締まる。
そういうところなのだ。
私が、この人を好きになってしまうのは。
まっすぐなのに、押しつけない。
欲しい言葉をくれるのに、決めるのは私に任せる。
そんなことをされて、好きにならない方が難しい。
「……一条くん」
「うん」
「そういうの、ずるいです」
「うん」
「認めるんですね」
「認める」
「……」
「でも、待つのも本気だから」
私は何も言えなかった。
その言葉が、今日の私には思っていた以上に沁みたから。
◇ ◇ ◇
昼休み、私は珍しくひとりで屋上の手前の踊り場にいた。
風に当たりたくなったのだ。
考えごとをするには、教室は少し近すぎる。
階段の窓から見える空は明るかった。
春の風はやわらかいのに、胸の奥だけが少し苦しい。
好きだと思う。
たぶん、もうかなり。
でも、認めるのが怖い。
認めたら、今のままではいられなくなる気がする。
友達以上恋人未満の曖昧な甘さに甘えていられなくなる気がする。
「……結局、私が一番ずるいのかも」
小さくつぶやいたとき、後ろから足音がした。
振り返ると、恒星だった。
「いた」
「……どうしてここ」
「探した」
「……」
「ひまり……じゃなくて瀬名さんに、たぶん上だと思うって言われた」
やっぱり。
あの親友はほんとうにそういうところが早い。
「逃げたわけじゃないです」
私は先に言った。
「うん」
「ちょっと風に当たりたかっただけで」
「うん」
「……」
「知ってる」
その“知ってる”が静かすぎて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
恒星は私の隣まで来たけれど、触れない距離で止まった。
それが今の私にはありがたかった。
「栞」
「……何」
「今日、ずっと少しだけ遠い」
「……」
「でも、逃げてる感じじゃない」
「……」
「だから、たぶん自分の中で何か整理してるんだろうなって思ってた」
私は目を閉じて、小さく息を吐いた。
ほんとうに、全部分かってしまうんだなと思う。
分かって、それでもこうして待ってくれているのだ。
「……一条くん」
「うん」
「私、たぶん」
「うん」
「かなり、好きなんだと思う」
言った瞬間、足元が少しだけふわっとした。
言ってしまった。
それはまだ告白じゃない。
でも、自分の気持ちに対して、初めてここまで明確に言葉を与えた気がした。
恒星は息を止めたみたいに見えた。
でも、何も言わない。
私はその沈黙に少しだけ救われながら、続きを言った。
「でも」
「うん」
「好きって認めたあとに、もしうまくいかなかったらって考えると」
「うん」
「やっぱり怖い」
「……」
「だから、最後のところでまだ止まる」
そこまで言って、私は彼の方を見た。
彼はまっすぐ私を見ていた。
驚きも、嬉しさも、そして少しだけ切なさも、全部混ざった顔。
「……そっか」
彼が静かに言う。
「うん」
「ありがとう」
「何が」
「そこまで言ってくれて」
「……」
「怖いのに、ちゃんと教えてくれたから」
私は少しだけ唇を噛んだ。
“ありがとう”と言われると、少しだけ泣きそうになる。
こんなにも中途半端で、綺麗な答えでもないのに。
「俺」
恒星がゆっくり言葉を選ぶ。
「栞に今すぐ“好きです”って言わせたいわけじゃない」
「……」
「怖いなら、怖いままでいい」
「……」
「でも」
その声がほんの少し低くなる。
「逃げないで考えてくれるだけでいい」
私は息を止めた。
逃げないで考えてくれるだけでいい。
それは、今の私が一番救われる言葉だった。
答えを急かさない。
でも、曖昧なまま逃がしもしない。
その距離感が、やっぱりこの人らしい。
「……それ」
私は小さく言った。
「すごく、助かります」
「うん」
「だって、私」
「うん」
「今まで、そういうところで全部やめてきたから」
「……」
「怖くなったら、自分から引いて」
「……」
「なかったことにして」
恒星は少しだけ目を細めた。
「今回は?」
「……」
「なかったことにしたい?」
私は即座に首を振った。
「したくない」
その言葉は、思ったよりずっとはっきり出た。
恒星の目が、ほんの少しだけやわらぐ。
「うん」
「だから」
「うん」
「怖いけど、考えたい」
「……」
「ちゃんと」
そこまで言うと、彼は本当に嬉しそうに、でも静かに笑った。
「それで十分」
「……またそれ」
「だって、本当だから」
私は少しだけ笑ってしまった。
苦しいのに、笑ってしまう。
好きの一歩手前。
いや、たぶん、もうかなり好き。
でも、その最後の一歩だけがまだ怖い。
それでも、この人の前なら、その怖さを抱えたまま進んでいけるかもしれない。
今日は、ほんの少しだけそう思えた。
◇ ◇ ◇
帰り道、私はひとりで駅へ向かいながら、何度もその言葉を思い出していた。
逃げないで考えてくれるだけでいい。
それは、恋をしている今の私にとって、とてもやさしい言葉だった。
でも同時に、少しだけ厳しくもある。
なかったことにしないで、ちゃんと向き合え、と言われているようでもあるから。
でも、今の私はもう、そっちを選びたいと思っていた。
怖い。
でも、好きだから進みたい。
まだそこまでは言えない。
けれど、その輪郭はもう、かなりはっきりしてきている。
「……ほんとに、あと少しなんだな」
小さくつぶやくと、春の夕方の風がやわらかく頬に触れた。




