第29話 キス未遂の翌日、平気な顔なんてできるわけがない
翌朝、私は目覚ましが鳴るより先に目を開けた。
というより、ほとんど眠れた気がしなかった。
浅い眠りの中で何度も思い出してしまったのだ。
暗い準備室。
指先に触れた手。
低い声。
そして、あの一言。
『キスしたら、困る?』
「……無理」
布団の中で顔を覆って、私は小さくうめいた。
何が無理かって、全部だ。
昨日のことが夢じゃなかったという現実も。
その続きを、今日、何事もなかったみたいな顔で迎えなければいけないことも。
そして何より、私はあの問いに、ちゃんと“嫌”とは言えなかったことも。
あの場で停電が戻らなかったら、どうなっていたんだろう。
そんなことを考えた瞬間、胸の奥が熱くなって、私は慌てて頭を振った。
だめだ。
朝からそんなことを考えていたら、本当に学校へ行けなくなる。
「栞ー」
母の声が階下から響く。
「起きてるなら返事しなさい」
「起きてる!」
「じゃあ降りてきなさい!」
「……今行く」
私は観念して布団から出た。
洗面所で顔を洗っても、鏡の中の自分はなんだか頼りなかった。
黒縁眼鏡をかける。
いつもの私に戻る。
……戻る、はずなのに、今日はまったくそういう気がしない。
だって昨日の私は、もう“いつもの私”ではいられない場所まで行ってしまった気がするからだ。
「……平気な顔って、どうやるんだっけ」
鏡の前でそうつぶやいてから、私は朝食の席についた。
母は私の顔を見るなり、少しだけ目を細めた。
「あら」
「何」
「顔が赤い」
「赤くない」
「目も少し寝不足」
「……」
「何か考えごと?」
父まで新聞の向こうから覗いてくる。
「最近のおまえ、ほんとに分かりやすいな」
「分かりやすくない」
「分かりやすいって」
「……」
今朝ばかりは否定する気力もなかった。
だって、その通りだから。
◇ ◇ ◇
教室へ向かう廊下で、私はずっと足元ばかり見ていた。
一条くんに会う前に少しでも平常心を取り戻したかったのだ。
でも、そういう日に限って、人は早く来る。
教室の前の廊下を曲がった瞬間、数メートル先に彼の姿を見つけてしまった。
「……っ」
心臓が跳ねる。
完全に、不意打ちだった。
恒星も私に気づいたらしく、足を止めた。
その表情が、いつもより少しだけ固まる。
ああ。
やっぱり、向こうも平気なわけじゃないんだ。
そのことに、ほんの少しだけ救われる。
でも、だからといって落ち着けるわけではない。
「おはよう」
先に声を出したのは彼だった。
私は一拍遅れて返す。
「……お、おはよう」
声が少しだけ裏返った。
最悪だ。
恒星が少しだけ目を細める。
笑った、というより、困ったようにやわらいだ感じだった。
「……寝不足?」
「……」
「その沈黙は図星だね」
「……一条くんこそ」
「うん」
「平気な顔してないです」
言ってから、自分で少し驚いた。
でも、たしかにそう思ったのだ。
彼はいつもみたいに整って見える。
でも、ほんの少しだけ目元が落ち着かない。
声も、いつもより慎重だ。
恒星は一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐いた。
「ばれた?」
「……少し」
「そっか」
「……」
「正直、かなりだめ」
その言い方に、私は思わず顔を上げた。
「かなり?」
「うん」
「何が」
「昨日の続き、ずっと考えてる」
「……」
「だから、平気な顔はちょっと無理かも」
その返事があまりにも正直で、私は何も言えなくなった。
彼だけじゃない。
私もずっと考えていた。
だからこそ、その告白みたいな正直さがまっすぐ胸にくる。
「……私も」
小さく言うと、恒星がこちらを見る。
「うん」
「……ちょっと無理です」
「ちょっと?」
「かなり」
「そっか」
その“そっか”のあと、彼はほんの少しだけ笑った。
すごく小さく。
でも、明らかに安心したみたいに。
その笑い方が、今の私にはやけにやさしく見えた。
◇ ◇ ◇
教室に入った瞬間、ひまりがこっちを見た。
そして、私と恒星の顔を交互に見て、目を見開く。
「え」
「……何」
「何その空気」
「どういう」
「いや、聞くまでもなく何かあった空気」
小声なのに勢いがある。
ひまりは机に両手をついて、少し身を乗り出した。
「待って、二人とも今日わかりやすすぎない?」
「……」
「一条くんまでちょっとぎこちないの珍しいんだけど」
その言葉に、私は思わず彼の方を見そうになった。
でも見たら余計に意識しそうで、なんとかこらえる。
「何もない」
どうにかそう言うと、ひまりは眉を上げた。
「その“何もない”は信用できない」
「……」
「というか、何もなくてそんな顔にならない」
完全にその通りだった。
でも、ここで説明できるわけがない。
停電の暗い準備室で、キスしたら困るかなんて聞かれました、なんて。
言った瞬間、自分が蒸発しそうだ。
「……あとで」
小さく言うと、ひまりはにやっとした。
「はい来た。あとで聞く」
「そんな約束してない」
「したよ、今」
ひまりのこういう押しの強さは本当にずるい。
でも、その軽さに少し助けられているのも本当だった。
◇ ◇ ◇
一時間目の授業中、私は信じられないくらい集中できなかった。
黒板の文字が頭に入らない。
先生の声も遠い。
気づくと、私は斜め前の席の少し向こうを見てしまっている。
恒星は授業中、まっすぐ前を向いていた。
でも、その横顔を見るだけで昨日のことを思い出してしまう。
暗い準備室。
少しだけ触れた指先。
“理性が危ない”という声。
だめだ。
ほんとうにだめだ。
こんなの、一日中まともにしていられる気がしない。
二時間目の終わり際、ノートを取りながら、ふと彼が少しだけこちらを向いた。
目が合う。
ほんの一瞬。
それだけなのに、私はまた顔が熱くなる。
しかも、彼の方もすぐに視線を戻した。
普段ならもう少しだけ余裕のある笑みを見せるのに、今日はそれがない。
つまり、向こうもたぶん同じなのだ。
そのことが、ますます心臓に悪い。
◇ ◇ ◇
昼休み。
私はひまりに中庭へ半ば連行された。
「はい、吐いて」
「何を」
「昨日何があったか」
「……」
「栞」
「……」
「栞」
「連呼しないで」
「じゃあ話して」
逃げられない。
ひまりの目は完全に獲物を逃がさないそれだった。
私はミルクティーのパックを両手で持ちながら、小さく息を吐く。
「……停電した」
「うん」
「準備室で」
「うん」
「……二人きりだった」
ひまりの目が少しずつ大きくなる。
「うん」
「それで」
「うん」
「……」
「待って、そこで止まらないで」
「……」
「栞」
「……キスしたら困る?って」
ひまりが固まった。
本当に、数秒間、完全に固まった。
「……は?」
「だから」
「え、何」
「そのまま」
「キスしたら困る?って言われたの!?」
「声大きい」
「いや大きくもなるでしょ!」
私は思わず顔を伏せた。
言っただけでまた熱くなる。
「で!?」
ひまりが勢い込んで身を乗り出す。
「何て答えたの」
「……答えられなかった」
「……うわ」
「だからその“うわ”やめて」
「いや、これはうわでしょ」
ひまりは頭を抱えるみたいにして空を仰いだ。
「え、待って。今、何合目?」
「何の」
「恋の山」
「知らない」
「いやでもかなり上でしょこれ」
私は返す言葉がなかった。
たしかに、かなり上だと思う。
少なくとも、ただの“ちょっと気になる”ではもう説明できない。
「で、今日の朝、あの空気だったわけ?」
「……うん」
「そりゃそうなる」
ひまりはしみじみと言った。
「平気な顔なんて無理だよ」
「……」
「むしろよく学校来たね」
「来ない選択肢はないでしょ」
「いや、心はサボりたがってたと思う」
「……」
「で?」
「何」
「栞、嫌だったの?」
その問いに、私は少しだけ黙った。
嫌、ではなかった。
困る。恥ずかしい。怖い。心臓に悪い。
でも、嫌だとはやっぱり思わない。
「……嫌じゃなかった」
小さく認めると、ひまりはまっすぐ私を見た。
「じゃあもう、かなり答え出てるじゃん」
「……」
「まだ口にできないだけで」
私は否定できなかった。
◇ ◇ ◇
午後の授業のあと、廊下で先生に呼び止められた。
「朝比奈、悪いけどこれ図書室に」
渡されたのは、返却期限が過ぎた本の一覧表だ。
「今日中でいいから」
「はい」
私は紙を受け取って歩き出した。
でも、数歩進んだところで、後ろからまた名前を呼ばれる。
「朝比奈さん」
振り返ると、恒星だった。
「……何」
「図書室?」
「うん」
「一緒に行く」
「どうして」
「俺も返す本あるから」
その手には確かに文庫本が一冊あった。
……でも、たぶん半分は口実だ。
それでも私は断れなかった。
だって、少し話したかったのは私も同じだから。
並んで歩く廊下は、昨日までと少し違う。
静かすぎるわけじゃない。
でも、二人ともどこか少しだけ慎重で、言葉を選んでいる感じがする。
「……昨日」
先に口を開いたのは私だった。
「うん」
「ごめん」
「何が?」
「何も答えられなくて」
恒星は少しだけ目を瞬いた。
それから、ほんとうにやわらかく首を振る。
「謝らなくていい」
「でも」
「困るかって聞いたの、俺だし」
「……」
「栞が答えられなくなるの、分かってた」
「……じゃあ、何で聞いたんですか」
「聞きたかったから」
あまりにも正直で、私は少しだけ息を詰めた。
図書室の前まで来て、私たちは立ち止まる。
中へ入る前に、恒星が小さく続けた。
「でも」
「うん」
「答えがないのも、答えのひとつだと思った」
「……」
「本当に嫌なら、栞はちゃんと拒否するから」
私は何も言えなくなる。
それは、その通りだったから。
私は困っていた。
でも、嫌だとは言えなかった。
言えなかったのは、怖かったからでもあるけれど、それだけじゃない。
「……一条くん」
「うん」
「今日」
「うん」
「ちょっとだけ、ぎこちなかった」
「……」
「私もだけど」
そこまで言うと、恒星は少しだけ笑った。
「ばれてた?」
「うん」
「そっか」
「……」
「だって、朝、栞の顔見た瞬間、昨日のこと全部思い出したから」
「……」
「まともに平気な顔するの、無理だった」
その言葉に、私は胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。
自分だけじゃなかった。
彼も同じように、昨日を持ち越していた。
そのことが、どうしようもなく甘い。
「……私も」
小さく言う。
「うん」
「ずっと考えてた」
恒星が、ほんの少しだけ息を止めたのが分かった。
「……それ、かなりうれしい」
「またそれ」
「だって、本当だから」
彼は少しだけ困ったように笑う。
「平気じゃないの、俺だけじゃなかったんだって思えるから」
私は視線を落とした。
そして、ほんの少しだけ笑う。
そうだ。
今日はずっとぎこちなかった。
でもそれは、嫌になったからじゃない。
意識しすぎて、平気な顔ができなかっただけだ。
それってたぶん。
かなり、幸せなことなのかもしれない。
◇ ◇ ◇
図書室への用事を済ませたあと、私たちはそのまま昇降口へ向かった。
特別な会話はしていない。
でも、隣にいるだけで少し落ち着く。
昨日のことはなかったことになっていない。
今日のぎこちなさも、ちゃんと二人の間にある。
でも、それでも並んで歩いていける。
そのことが、妙にあたたかかった。
「栞」
昇降口の前で、恒星が小さく呼ぶ。
私は少しだけ息を止めてから、顔を上げた。
「……何」
「今日は」
「うん」
「ちゃんと話せてよかった」
「……うん」
「俺、朝より今の方がずっと安心してる」
「……」
「また明日」
その一言が、今日の私にはとてもやさしく聞こえた。
「……うん」
「今度は、もっと普通の顔で会いたい」
「それは」
私は少しだけ困ったように笑う。
「一条くん次第でもあります」
「ひどい」
「ほんとです」
「でも努力する」
「……私も」
そう言って別れたあと、私は電車の中で窓に映る自分を見た。
まだ少し、頬が熱い。
でも朝みたいな苦しさは、もうなかった。
キス未遂の翌日。
平気な顔なんて、やっぱりできなかった。
でも、できなくてよかったのかもしれない。
だって、そのぎこちなさごと、ちゃんと二人の気持ちだったから。




