第28話 イベントの夜、恋人じゃない二人にしては甘すぎる
その日の午後、空は朝からずっと曇っていた。
重たい灰色の雲が低く広がっていて、放課後の校舎の空気まで少しだけ暗い。
雨が降りそうで降らない。そんな中途半端な空模様だった。
そして、私の心もたぶん同じくらい中途半端に落ち着かなかった。
今日は交流イベントの最後の片づけ日だ。
大きな催しは終わっていても、備品の確認や掲示物の回収、報告書の最終整理がまだ残っている。
つまり、また一条くんと顔を合わせる可能性が高い。
しかも昨日の続きがある。
――今日の髪、すごく可愛い。
――今、抱きしめたら困る?
あの中庭で言われた言葉が、朝からずっと頭の奥に残っていた。
思い出すたびに胸のあたりが熱くなる。
それなのに、その熱を嫌だと思えない自分がいて、また困る。
「おはよ」
教室でひまりが声をかけてきた。
「……おはよう」
「今日もいい顔」
「何その評価」
「“昨日の余韻でまだ心臓がおかしいです”の顔」
「やめて」
「でもそうでしょ」
「……」
「図星」
私はため息をついて鞄を机に置いた。
「今日、最後の片づけだっけ?」
ひまりが聞く。
「うん」
「じゃあ、また一条くんと?」
「……たぶん」
「今日の栞、耐えられる?」
「何に」
「甘さ」
「……」
「はい、無理そう」
「ひまり」
「だって昨日の話だけで顔赤かったもん」
「それは」
「それは?」
「……どうしようもないでしょ」
そこまで言うと、ひまりが少しだけやわらかく笑った。
「うん、でもさ」
「何」
「最近の栞、ちゃんと嬉しそうだよ」
「……」
「困ってるけど、逃げたいだけじゃなくなってる」
私は返事をしなかった。
でも、その通りだと思った。
前なら、こんな状況はただただ怖いだけだった。
今は、怖いのに、それと同じくらい会いたい。
その矛盾が、ますます私を落ち着かなくさせる。
◇ ◇ ◇
授業が終わって、放課後。
最後の片づけは、体育館脇の準備室と、校舎裏手の備品倉庫で行うことになっていた。
先生たちはいくつかの班に分かれて指示を出していて、生徒もばらばらに動いている。
私は掲示用のパネル回収と、備品チェック表の最終確認を頼まれていた。
「朝比奈さん」
名前を呼ばれて振り向く。
一条恒星だった。
腕には腕章。いつも通り整っているのに、今日はなぜか少しだけ影が濃く見えた。
曇り空のせいかもしれない。
「……お疲れさま」
「お疲れさま」
「今から準備室?」
「うん」
「俺も」
それだけ言って、彼は当然みたいに私の隣へ並んだ。
最近、もうそれが自然になりすぎている。
最初は近いだけで息が詰まりそうだったのに、今は隣に来てくれると少し安心してしまう自分がいる。
「今日でだいたい終わりだね」
恒星が言う。
「……そうですね」
「さみしい?」
「……」
「その沈黙は、少しは思ってるってことでいい?」
「……ずるいです」
「うん」
「そういう聞き方」
「でも、気になる」
私は少しだけ視線を落とした。
「……少しだけ」
「うれしい」
「最近それしか言ってない」
「本当にそうだから」
その返し方がもうあまりにも彼らしくて、私はほんの少しだけ笑ってしまった。
すると恒星も目を細める。
そのやわらかさを見るたび、胸が甘くなる。
◇ ◇ ◇
準備室では、思ったよりも片づけが長引いた。
イベントで使った資料箱、ネームプレート、クリップボード、案内板。
全部を確認して、倉庫に戻すものと職員室へ持っていくものに分けていく。
先生が途中で別の呼び出しを受けて席を外し、生徒だけが残る時間が少しできた。
準備室には、私と恒星、それから別クラスの男子一人がいたのだけれど、その男子も「倉庫の方手伝ってきます」と出ていってしまった。
気づけば、室内は二人きりだった。
別に珍しいことじゃない。
最近、こういうことは何度もあった。
でも今日は、曇り空のせいで窓の外が早く暗くなっていて、準備室の空気もいつもより静かで、少しだけ違って感じる。
「これ、最後」
恒星が案内板を畳みながら言う。
「……うん」
「終わったら、倉庫に運ぶだけだね」
「そうですね」
会話は普通だ。
でも、普通のふりをしているだけで、私はさっきから妙に彼の声を意識してしまっていた。
二人きりになると、やっぱり少しだけ低くなる。
少しだけ近くなる。
そういうのが、今の私は前よりずっと分かる。
「栞」
不意に名前で呼ばれて、私は手を止めた。
「……何」
「今日」
「うん」
「昨日より、もっと近い気がする」
「……」
「俺だけかな」
その言い方が、少しだけ慎重で、でも甘い。
私は答えに迷った。
近い。
たしかにそうだ。
でも、その“近い”が物理的な話だけじゃないことも分かっている。
「……たぶん」
私は小さく言った。
「私も、少し」
恒星が息を呑む気配がした。
その沈黙が長くなる。
次の瞬間だった。
――ぱちん。
どこかで、小さな音がした。
そして、準備室の蛍光灯がふっと消えた。
「……え」
私は思わず顔を上げる。
真っ暗、ではない。
曇り空の残りの明るさが窓から少しだけ入っている。
でも、急に視界が暗くなったせいで、距離感が一瞬分からなくなる。
「停電?」
私が小さく言うと、恒星も低い声で答えた。
「たぶん、一時的なものだと思う」
「……」
「大丈夫?」
「……うん、たぶん」
そう答えながらも、心臓はかなり速くなっていた。
暗さが怖いわけじゃない。
でも、この状況が妙に意識されてしまう。
二人きり。
少し暗い準備室。
外の音は遠くて、ここだけ切り離されたみたいに静かだ。
「動かない方がいい」
恒星が言う。
「足元、備品あるから」
「……うん」
私はその場でじっとした。
けれど、暗さで彼の輪郭が少し曖昧になった瞬間、逆に存在感だけが強くなる。
近くにいるのが分かる。
でもはっきり見えない。
それが、ものすごく心臓に悪い。
「……一条くん」
「うん」
「今、どこ」
聞いてから、自分で少し恥ずかしくなる。
でも、暗いときにそう確認したくなるのは仕方ないと思う。
「ここ」
彼の声が、思ったより近くからした。
次の瞬間、私の指先に何かが軽く触れた。
はっと息を止める。
彼の手だ。
「……っ」
「ごめん」
恒星がすぐに言う。
「位置分かるようにしただけ」
「……」
「嫌だった?」
「……嫌じゃ、ない」
暗がりの中だと、声が少しだけ正直になる気がした。
彼の指先は、それ以上強くは触れてこなかった。
でも離れもしない。
ただ、“ここにいる”と知らせるみたいに、そっと触れている。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
甘すぎる。
でも、離れてほしくないと思ってしまう。
「……栞」
「何」
「今、かなり危ない」
低い声。
暗いせいか、いつもよりずっと近く、ずっと甘く聞こえる。
「何が」
小さく聞き返すと、少しの沈黙のあと、恒星が息を吐くように言った。
「理性」
私は完全に息を止めた。
だめだ。
そんな言葉を、こんな場所で、こんな声で言われたら、本当にだめだ。
でも、暗がりは人を少しだけ正直にするのかもしれない。
「……私も」
気づけば、そんなことを言っていた。
「え」
「……心臓、かなり危ないです」
言った瞬間、もう終わったと思った。
何を言っているんだろう私は。
けれど恒星は笑わなかった。
笑うどころか、少しだけ苦しそうに息を飲んだ気配がした。
「……それ」
「……」
「今、聞くのきつい」
「どうして」
自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか分からない。
でも、暗がりの中だと、少しだけ勇気が出る。
いや、理性が薄くなるのかもしれない。
「どうしてって」
恒星が少しかすれた声で言う。
「今、抱きしめたいって思ってるから」
全身が熱くなった。
指先がまだ触れている。
暗くて、顔ははっきり見えない。
でも、たぶん彼も相当ぎりぎりなのだと、声だけで分かる。
「……一条くん」
「うん」
「今ここで、それは」
「困る?」
あまりにも静かに、でもまっすぐ聞かれて、私は答えられなくなった。
困る。
たぶん、すごく困る。
でも、その先が言えない。
ほんとうに嫌なら、すぐに“No”と言えるはずだ。
でも私は今、それができない。
その沈黙だけで、たぶん十分だったのだろう。
恒星の呼吸が少しだけ深くなる。
「……キスしたら」
彼が低く言う。
「困る?」
胸の奥が、どくんと大きく鳴った。
キス。
その言葉が、暗い準備室の中でやけに生々しく響く。
私は何も言えなかった。
言えないまま、ただ指先の触れあいだけが熱を持つ。
困る。
でも、拒めない。
それが、今の私の正直だった。
そのとき。
――ぱっ。
蛍光灯が突然ついた。
「……っ」
私は思わず手を引いた。
視界が一気に明るくなる。
さっきまで曖昧だった距離がはっきり見えてしまって、余計に恥ずかしい。
恒星も少しだけ目を細めた。
でも、その顔は驚くほど平静に見える。
……見えるだけで、耳がほんの少し赤い。
私はもう、自分の顔なんて見なくても分かった。
絶対に真っ赤だ。
「……」
「……」
「停電、戻ったね」
彼が先にそう言った。
その普通すぎる一言に、私は少しだけ笑いそうになった。
笑うしかなかったのかもしれない。
「……そうですね」
「うん」
「……」
「……」
気まずい。
でも、それ以上に、さっきまでの空気がまだ残っていて、逃げ出したいのに終わってほしくない気持ちもある。
なんなんだろう、この感じは。
「倉庫」
恒星が小さく言う。
「運ばないと」
「……うん」
「そのあと」
「……」
「今日は、ちゃんと帰す」
私はその言い方に、また心臓が変な音を立てるのを感じた。
ちゃんと帰す。
それはつまり、本当ならこのまま何かしていたかもしれない、という意味が含まれている気がしたからだ。
彼は案内板を持って、何事もなかったみたいに扉へ向かった。
でも歩き出す前に、一度だけこちらを見て、少しだけやわらかく笑う。
「ごめん」
「……何が」
「今、かなり本気だったから」
私は返事もできず、その場に立ち尽くした。
◇ ◇ ◇
倉庫までの道は、驚くほど静かだった。
私も彼も、必要以上のことは言わない。
でも、沈黙は重くない。
むしろ、さっきのことを二人ともちゃんと抱えたまま歩いている感じがした。
倉庫へ案内板を戻し終えて、校門の前まで来たところで、恒星が足を止めた。
「今日は」
「……」
「ちゃんと帰って、落ち着いて」
「……一条くんも」
「うん」
「落ち着いてください」
「難しい」
「……」
「でも努力する」
その返しに、私は少しだけ笑ってしまった。
笑った瞬間、彼も目を細める。
「今の、ちょっと救われた」
「……そうですか」
「うん。俺だけじゃなくてよかった」
その言葉に、私は息を呑む。
俺だけじゃなくて。
それはつまり、私も同じように揺れていると、彼は感じているということだ。
「……」
「また明日」
恒星が言う。
「……うん」
「逃げないで」
「……逃げません」
「うん」
彼はそれ以上何も言わず、でも少しだけ名残惜しそうに視線を残して去っていった。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私は窓の外を見たまま、ずっと同じことを思い返していた。
暗い準備室。
指先に触れた手。
理性が危ない、という低い声。
そして、キスしたら困る?という問い。
私は答えられなかった。
でも、それが答えなのかもしれないとも思った。
ほんとうに嫌なら、きっともっとはっきり拒めたはずだ。
でも私はただ、息を止めて、何も言えなくなった。
それは、怖かったから。
でも、怖いだけじゃなかったから。
「……もう、ほんとにだめだ」
小さくつぶやくと、窓に映る自分の顔が少しだけ赤いままだった。
イベントの夜。
恋人じゃない二人にしては、甘すぎた。
でも、だからこそ分かったこともある。
私はもう、“ただ憧れているだけ”の場所には戻れない。
彼のことを、ちゃんとひとりの男の子として、近くで意識してしまっている。
キス、という言葉ひとつで、こんなに心が揺れるくらいに。




