第27話 少しだけ変わった私を、あなたは見逃してくれない
その朝、私はいつもより二十分早く起きた。
……起きてしまった、の方が正しいかもしれない。
昨夜、布団に入ってからもずっと考えていたのだ。
昨日、自分の口で言ってしまったことを。
隣に立ちたい。
その言葉を口にした瞬間の胸の熱さも。
それを聞いた一条くんの、あまりにもやわらかい顔も。
全部、まだちゃんと体の中に残っている。
そして、その余韻の中で。
私はひとつ、今までなら絶対にやらなかったことをしようとしていた。
鏡の前に立つ。
髪をほどいて、櫛を通す。
それから、いつもよりほんの少しだけ、横の髪を残してみる。
たったそれだけ。
結び方を少し変えて、前髪の流れを少し整えるだけ。
服も制服だし、眼鏡もいつもの黒縁だし、遠目にはほとんど変わらないだろう。
でも私にとっては、かなり大きな違いだった。
だって、今までの私は“目立たない方”へ、“変わらない方”へ、ばかり自分を寄せてきたから。
少しでも可愛く見せたい、とか。
少しでも好きな人に気づいてほしい、とか。
そういうことを、自分に許してこなかった。
でも今朝の私は、その“許さなかったこと”を、ほんの少しだけ自分に許している。
「……何してるんだろう」
小さくつぶやいて、私は鏡の中の自分を見る。
劇的に変わったわけじゃない。
でも、少しだけいつもよりやわらかい。
少しだけ、女の子っぽい気がする。
そう思った瞬間、急に恥ずかしくなった。
やっぱりやめようか。
いつも通りに戻した方がいいんじゃないか。
こんなの、一条くんに気づかれたらどうするの。
いや、気づかれないのもそれはそれでちょっと嫌かもしれない。
「……最悪」
私はその場で顔を覆いたくなった。
もう、思考が完全に恋する人のそれだ。
「栞ー」
母の声が下から飛んでくる。
「朝ごはん!」
「今行く!」
私は慌ててカーディガンを羽織り、階段を下りた。
食卓についた瞬間、母が私を見て少しだけ目を細めた。
「……あら」
「何」
「今日はちょっと雰囲気違う」
「……そう?」
「うん。かわいい」
「お母さん」
「ほんとよ」
母は楽しそうに笑う。
「何かいいことあるの?」
「ない」
即答したけれど、父まで新聞の向こうから顔を出した。
「いや、ある顔だな」
「ないってば」
「そうかあ?」
「そうだよ」
でも、家族にすら少し気づかれるなら、学校ではどうだろう。
いや、たぶん大半の人は気づかない。
でも、もし。
もし、あの人が気づいたら。
そう思った瞬間、胸がまたそわついた。
◇ ◇ ◇
教室へ向かう廊下を歩きながら、私は何度も自分の髪に触れそうになる手を止めた。
気にしたら負けだ。
自然にしないと、自然に。
そう思っている時点で自然じゃないのだけれど。
教室に入ると、ひまりが一秒で気づいた。
「うわ」
「……何」
「何そのうわ、って顔」
「いや、そりゃうわってなるよ」
「ならないで」
「なるって。栞、今日ちょっと違う」
私は鞄を机に置きながら、小さく目をそらした。
「……そうかな」
「そうだよ」
ひまりは立ち上がって、私の髪をじっと見る。
「え、待って、これ自分でやった?」
「……うん」
「何があったの」
「何も」
「嘘」
「何もない」
「いやいやいや」
ひまりは満面の笑みで私の前の席に座った。
「何もない人は朝からそんな微調整しない」
「微調整って言わないで」
「でもそうでしょ」
「……」
「一条くん?」
「……」
「はい図星」
私はため息をついた。
でも、ひまりの反応を見て少しだけほっともした。
変ではない、ということだ。
少なくとも、不自然じゃない。
「可愛いよ」
ひまりがふいに真面目な声で言う。
「……」
「いつもの栞も好きだけど、今日のちょっと頑張ってる感じ、すごい可愛い」
「……頑張ってる感じ、って」
「だってそうじゃん」
「……」
「隣に立ちたいって思ったんでしょ」
私は息を止めた。
そこをそんなにまっすぐ言われると弱い。
「……うん」
「なら、いいじゃん」
「……」
「そういう努力、全然図々しくないよ」
私はその言葉に、少しだけ目を伏せた。
たしかに昨日までの私なら、こういうことを“図々しい”で片づけていた。
でも、ひまりは当たり前みたいに“いいじゃん”と言う。
その軽さに、少しだけ救われる。
そのとき、教室の入り口が少しだけざわついた。
私は反射的に顔を上げる。
一条恒星が入ってきた。
いつも通り、きれいで、整っていて、少しだけ目立つ。
でも今の私には、彼の視線が自分を見つける瞬間まで分かってしまう。
目が合った。
その瞬間、彼の表情がほんの少しだけ止まった。
止まった。
確実に。
私は心臓が変な跳ね方をするのを感じた。
気づいた。
たぶん、気づかれた。
「おはよう」
彼が近づいてきて言う。
でも、その声はいつもより少しだけ低かった。
「……おはよう」
どうにか返す。
恒星は私を見たまま、一拍置いた。
その一拍が長い。
長すぎる。
「……今日」
「……何」
「すごく可愛い」
私は本気で固まった。
教室の空気が一瞬で遠くなる。
周りのざわめきも、椅子を引く音も、全部どうでもよくなって、ただその言葉だけが耳の中に残る。
すごく可愛い。
さらっと。
でも、少しも冗談みたいじゃなく。
ちゃんと見たうえで。
そう言った。
「……っ」
何か返そうとしても、うまく言葉が出ない。
顔が一気に熱くなる。
絶対、耳まで赤い。
「……一条くん」
「うん」
「朝からそれは、ほんとうに」
「うん」
「だめです」
「どうして」
「どうしてもです」
「でも本当だよ」
「……」
「いつも可愛いけど、今日はまた違う」
だめだ。
追い打ちまでかけるのか、この人は。
私はとっさに眼鏡の位置を直して俯いた。
「ひまり」
「何」
「助けて」
「無理」
ものすごく楽しそうな声が返ってきた。
「だって今の一条くん、完全に理性飛んでるし」
「瀬名さん」
恒星が少しだけ苦笑する。
「そういう実況やめて」
「でも図星でしょ?」
「……否定しにくい」
それを認めるのもやめてほしい。
私はもう、机に突っ伏したくて仕方なかった。
でもそんなことをしたら余計に肯定することになるので、どうにか座ったまま耐える。
恒星は少しだけ身を引いて、それでもまだ目を細めたまま言った。
「放課後、ちょっといい?」
「……」
「今の感想、ちゃんと言いたい」
「今ので十分です!」
思わず強めに返してしまう。
でも彼はそれを聞いて、むしろ少しだけ嬉しそうに笑った。
「じゃあ、放課後も言う」
「一条くん」
「うん」
「ほんとうに、そういうとこです」
「知ってる」
完全にだめだった。
◇ ◇ ◇
午前中、私はほとんど上の空だった。
黒板の文字は見えている。
ノートも一応取っている。
でも頭の中ではずっと同じ言葉が繰り返されていた。
今日、すごく可愛い。
すごく、なんて。
いつも可愛いけど、なんて。
そんなふうに言われると思っていなかった。
いや、少しは気づいてくれたら嬉しいと思っていた。
でも、実際に気づかれて、しかもあんなにまっすぐ言われたら、話は別だ。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
でも、その恥ずかしさの奥で、胸がふわふわしているのも本当だった。
昼休み、ひまりに「今なら何食べても甘く感じるでしょ」と言われて、本気で否定できなかったくらいには。
「栞」
「何」
「今日の一条くん、だいぶやばくない?」
「……」
「いつもより隠してない」
「……」
「で、栞はどうなの」
「何が」
「嬉しい?」
「……」
「図星」
「……嬉しい、けど」
「うん」
「その十倍くらい恥ずかしい」
「それが恋です」
「まとめないで」
ひまりは笑いながらも、少しだけ真面目な顔で言った。
「でもさ」
「何」
「今日、栞がちょっと頑張ったこと」
「……」
「ちゃんとあの人に届いてるの、よかったね」
私はその言葉に、少しだけ黙った。
よかった。
たしかに、その通りだ。
頑張ったことが、ちゃんと届いた。
それを、あんなに嬉しそうに受け取ってもらえた。
そのことが、じんわりとうれしい。
私は今まで、自分が何かしても、どうせ大きくは変わらないと思っていた。
でも、ほんの少し変えただけで、彼はすぐに気づいた。
それはたぶん、すごく大きなことだった。
◇ ◇ ◇
放課後、私はいつもより少しだけ緊張しながら、中庭の端にある小さなベンチへ向かった。
恒星に呼ばれているからだ。
夕方の光はやわらかくて、花壇の色も少しだけ濃く見える。
その中で、彼はベンチのそばに立っていた。
私に気づくと、少しだけ息を吐くように笑う。
「来てくれてありがとう」
「……うん」
「逃げるかもって、少し思ってた」
「そんなにひどくないです」
「でも、今日は朝からかなり可愛かったから」
「……」
「余計に緊張した」
私は思わず顔を上げた。
「一条くんが?」
「うん」
「……」
「そんな顔する?」
「……だって、全然そう見えなかったので」
「見えないようにしてた」
「何で」
「理性が飛んでるって瀬名さんに言われたから」
私は少しだけ笑ってしまった。
その瞬間、恒星も目を細める。
「今日」
彼が静かに言う。
「どうして少し変えたの?」
「……」
「聞いてもいい?」
その問いに、私は少しだけ迷った。
でも、ここでごまかしても、たぶん彼には分かる。
それに、今日は自分から少しだけ前へ行った日だ。
なら、その理由もちゃんと持っていたい。
「……昨日」
私はゆっくりと言葉を探す。
「隣に立ちたいって思ったから」
恒星が、ほんの少しだけ息を止める。
「……」
「それで」
「うん」
「ほんのちょっとだけでも、自分で自分を“無理”って決めるのやめようかなって」
「……」
「だから、少しだけ」
そこまで言うと、彼はしばらく何も言わなかった。
ただ、まっすぐに私を見ていた。
その目がやわらかくて、でも熱を持っていて、私は少しだけ落ち着かなくなる。
「……栞」
「何」
「それ、すごくうれしい」
「……」
「今日の髪ももちろん」
「……」
「でも、それより」
彼は少しだけ近づく。
「その理由が、すごく嬉しい」
私はもう、何も返せなかった。
だってそれは。
外見の変化そのものじゃなく、その裏にある気持ちを受け取ってくれた、ということだから。
それが、あまりにも欲しかった反応すぎて。
「……一条くん」
「うん」
「そういうの、ほんとに」
「うん」
「だめです」
「どうして」
「嬉しすぎるので」
言ってから、自分で固まる。
今のはかなり甘いことを言ってしまった気がする。
でも恒星は、それを聞いて、ほんとうに我慢がきかなくなったみたいに目を伏せた。
「……だめだ」
「え」
「今日の栞、ほんとにだめ」
「何がですか」
「可愛すぎて」
「……!」
「理性の方が危ない」
「……」
「今、抱きしめたら困る?」
あまりにも低い声でそう言われて、私は息を止めた。
困る。
たぶん、すごく困る。
でも、その問いが怖いだけじゃない自分がいて、余計に困る。
「……一条くん」
「うん」
「それ、反則です」
「うん」
「答えにくいの、分かってて聞いてる」
「それも、うん」
「……」
「でも」
彼は少しだけ目を細める。
「今日は本当に頑張ったって分かったから」
「……」
「甘やかしたくなる」
私はもう、視線を逸らすしかなかった。
でも、その逸らした先で、自分の頬がかなり熱いことも分かっていた。
◇ ◇ ◇
少し沈黙が落ちたあと、恒星がふとやわらかく言った。
「ありがとう」
「……何が」
「変わろうとしてくれたこと」
「……」
「無理しすぎないでほしいとは思う」
「うん」
「でも、俺の隣に立ちたいって思ってくれてるなら」
「……」
「ちゃんと応えたい」
その言葉に、私はまた胸がいっぱいになる。
この人は、どうしてこうなんだろう。
嬉しいことばかり言う。
欲しかった言葉ばかりくれる。
そして、そのたびに私を少しずつ前へ進ませる。
「……たぶん」
私は小さく言う。
「今日、勇気出したの」
「うん」
「けっこう大きかったです」
「知ってる」
「……」
「だから、見逃すわけない」
そう言って笑う顔が、あまりにも甘かった。
私はやっぱり、この顔を知ってしまったことでもうだいぶ戻れないのだと思う。
◇ ◇ ◇
帰り道、駅へ向かいながら、私は何度も自分の髪に触れそうになる手を止めた。
たった少し変えただけ。
それなのに、彼はすぐに気づいた。
しかも、誰よりも先に、ちゃんと嬉しそうに。
そんなの、好きになるしかないじゃない。
心の中でそう思って、私は立ち止まりそうになった。
今のは、かなり危なかった。
ほとんど答えみたいなものだ。
でも、まだ声には出せない。
出したら最後、もうごまかせないから。
それでも、自分の中にその言葉が出てきたこと自体が、かなり大きかった。
「……もう、ほんとに」
だめだ。
でも、その“だめ”は甘い。
私は夕暮れの風を受けながら、少しだけ笑ってしまった。




