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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第26話 あの人の隣に立ちたいと思ってしまった

その朝、私は鏡の前で、いつもより少しだけ長く立ち止まっていた。


 黒縁眼鏡をかける前の自分。

 かけたあとの自分。

 まとめた髪。

 少しだけ整えた前髪。


 どれも、ほんの小さな違いでしかない。

 たぶん他人が見ても気づかないくらいの変化だ。


 でも、今の私にはその“ほんの少し”が妙に気になった。


 昨日、私ははっきり認めてしまった。

 彼女じゃないのに、取られそうになると苦しい、と。

 そして、そう思ってしまうくらいには、一条恒星が私の中で大きくなっているのだと。


 その自覚は、朝になっても消えなかった。

 むしろ、少しずつ輪郭がはっきりしてきている。


 私はもう、ただ守られて困っているだけじゃない。

 ただ優しくされてうろたえているだけでもない。


 ――あの人の隣に立ちたい。


 昨日の帰り道、ふとそう思ってしまった。

 思ってしまってから、ずっとその言葉が胸の中に残っている。


 隣に立ちたい。

 それは、今までの私にはなかった願いだった。


 前なら、“私なんて”で終わっていた。

 釣り合わない。目立つ。無理。そう言って自分から線を引いていたはずだ。


 でも今は、違う。


 無理だと思う気持ちはまだある。

 自信なんて全然ない。

 それでも、それでも。


 遠くから見ているだけでは、もう足りないと思ってしまった。


「……ほんとに、どうしたんだろう」


 小さくつぶやいてから、私は眼鏡をかけた。

 いつもの私に戻る。

 でも、戻ったようで戻っていない気もした。


「栞ー」

 母の声が下からする。

「朝ごはんー」

「今行くー」


 階段を下りながらも、私はぼんやり考えていた。


 隣に立ちたい、なんて。

 そんなことを思うなんて、ずいぶん変わったと思う。

 それとも、これが恋なのだろうか。


 恋。

 まだ、その言葉を自分に対して使うのは少し怖かった。


   ◇ ◇ ◇


 教室へ入ると、ひまりは私の顔を見た瞬間、少しだけ目を細めた。


「おはよ」

「……おはよう」

「何か今日、違う」

「何が」

「顔」

「そんなに変?」

「変っていうか」

 ひまりは私の前の席に座って、じっと私を見た。

「昨日より、ちょっと覚悟決まってる顔」

「……」

「何かあった?」

「……」

「栞」

「……私、たぶん」

 そこまで言って、少し言葉を探す。

「一条くんの隣に、立ちたいのかも」

 ひまりが一瞬だけ息を止めた。


「……うわ」

「その反応やめて」

「いや、やめられないでしょ」

「そんなに?」

「そんなに」

 ひまりは机に肘をついて、ちょっとだけ嬉しそうに笑った。

「それ、かなり大きい前進だよ」

「……そうかな」

「そうだよ」

 彼女は指を折るみたいにしながら言う。

「今までの栞は、“釣り合わない”“私なんて”“近づくの怖い”が基本だったでしょ」

「……うん」

「でも今は、“隣に立ちたい”なんでしょ」

「……」

「方向が全然違う」

 私は小さく息を吐いた。


 自分でも、その違いは分かっている。


 釣り合わないと思う気持ちが消えたわけじゃない。

 怖さがなくなったわけでもない。

 でも、その上で“それでも近づきたい”が出てきた。


 それはたしかに、前の私とは違う。


「でも」

 私は机の端を指でなぞる。

「そう思うと、逆に今の自分が嫌になる」

「何で」

「だって、今までずっと自分から引いてたくせに」

「うん」

「急に“隣にいたい”なんて、図々しい気がして」

「それ、図々しいって言わない」

「……」

「普通に恋だよ」

 ひまりがさらっと言う。


 私は一瞬だけ黙った。

 恋。

 またその言葉。


 まだ正面から頷くのは怖い。

 でも、否定する元気ももうあまりなかった。


   ◇ ◇ ◇


 午前中の授業中、私は何度か一条くんの方を見てしまった。


 前から見ていた。

 でも今の“見る”は、少し違う。


 ただ気になって視線が向くのではなく、ちゃんとその表情や仕草を追っている。

 誰と話すとき、どんな目をするのか。

 笑うとき、どこが少しやわらぐのか。

 私を見たときだけ、どこが変わるのか。


 そんなものばかり見てしまう。


 そして、見れば見るほど分かる。

 彼はやっぱり、私に向ける顔が少し違う。


 それが嬉しい。

 でも、嬉しいだけじゃなく、少しだけ苦しい。

 その違いに甘えてしまいそうになるから。


 二時間目の終わり、教室移動のタイミングで廊下に出ると、向こうから恒星が歩いてきた。


 目が合う。

 彼は少しだけ歩幅をゆるめて、私の隣に並ぶ。


「おはよう、の続き」

「……何それ」

「朝、ちゃんと話せなかったから」

「……」

「今日、少し顔違うね」

 私は心臓が跳ねるのを感じた。

「……違わないです」

「違うよ」

「どこが」

「少し、前向き」

「……」

「何かいいことあった?」

 その聞き方がやさしくて、少しずるい。


 私は少し迷って、それでも小さく言った。


「……考え方が、少しだけ変わったかも」

「うん」

「前より」

「うん」

「逃げる方ばっかりじゃなくて」

「……」

「もう少し、ちゃんと見たいって」

 恒星の表情が、ほんの少しだけやわらいだ。

 その変化が前よりずっと見えるようになってしまっている。


「そっか」

 彼は低い声で言う。

「うれしい」

「……」

「その顔で言われると、ほんとに嬉しいの分かる」

「本当に嬉しいから」

 さらっと返されて、私はもうどうしていいか分からない。


 彼は一瞬だけ、何か言いかけるみたいに唇を動かした。

 でも、そこへ別のクラスの男子が「一条!」と声をかけてきて、会話はそこで途切れた。


 恒星はそちらへ振り向いて、すぐにいつもの“みんなに見せる顔”に戻る。

 穏やかで、少し距離があって、綺麗な笑い方。


 私はその変化を、少しだけ眩しいと思いながら見ていた。


 やっぱり、ああいう人なのだ。

 人前で完璧に見える人。

 でも私はもう、その完璧さの奥にあるものを知ってしまっている。


 そのことが、前よりもっと彼を好きにさせる。


   ◇ ◇ ◇


 昼休み、ひまりは私のお弁当箱を見ながら言った。


「今日はちゃんと食べてるね」

「……昨日も食べた」

「昨日は上の空だった」

「……」

「今日は、悩んでるけどちょっと浮いてる」

「浮いてる?」

「恋の方向に」

「ひまり」

「はいはい」

 彼女は卵焼きをひとつ盗りながら笑った。

「で、どうするの」

「何を」

「隣に立ちたい件」

 私は少しだけ黙った。


 どうするも何も、今すぐ何か大きなことができるわけじゃない。

 急に自信がつくわけでもない。

 でも、何もしないままでも嫌だった。


「……まずは」

「うん」

「少しでも、自分で自分を“無理”って決めるのやめたい」

「おお」

「だって、一条くんはたぶん、そこ気にしてないのに」

「うん」

「私だけがそこで引いてたら、ずっと進めないから」

 ひまりは少しだけ目を丸くして、それからにやっとした。


「それ、かなりいいじゃん」

「……そうかな」

「そうだよ。めちゃくちゃ成長してる」

「急に褒めないで」

「でもほんとに」

 彼女は箸を持ったまま言う。

「栞が自分でそう言えるようになるの、すごい大きい」

 私は少しだけ目を伏せた。


 まだ、自信はない。

 でも、ひまりの言う通り、前より少しだけ“自分で自分の首を絞める”のをやめられそうな気はしていた。


 そのタイミングで、教室のドアのところが少しだけざわつく。

 私はもう反射でそちらを見る。


 恒星だった。


 人前ではやっぱり穏やかで、整った顔。

 でも、私と目が合った瞬間だけ、そこにほんの少しだけやわらかいものが混じる。


 その差を見るたびに、胸が少しだけ熱くなる。


「朝比奈さん」

「……はい」

「放課後、少しいい?」

「……うん」

「話がある」

「……」

 その一言に、ひまりが隣で無言のまま机をばんばん叩き始めた。

 やめてほしい。

 でも気持ちは分かる。


 私はどうにか小さく頷いた。

 恒星もそれを見て、小さく笑って去っていく。


「何あれ」

 ひまりがようやく声を出す。

「“話がある”って、完全に少女漫画」

「私の人生を」

「分かってるけど今のは言わせて」


   ◇ ◇ ◇


 放課後。

 呼び出されたのは、校舎裏に近い小さな中庭だった。


 人通りはあるけれど、長く立ち話をする人は少ない場所。

 ベンチと花壇があるだけの、小さな空間。


 恒星は先に来ていて、私に気づくと少しだけ表情をやわらげた。


「来てくれてありがとう」

「……うん」

「急にごめん」

「大丈夫」


 少し沈黙が落ちる。

 でも、今日は前みたいな気まずさより、何かを待つ感じの方が強かった。


「今日」

 恒星が静かに言う。

「朝の顔見て、少し気になってた」

「……」

「何か、前と違うこと考えてるのかなって」

 やっぱり見抜かれている。

 私は少しだけ苦笑した。


「……一条くんって」

「うん」

「そういうの、ほんとによく分かりますよね」

「分かるようになった」

「……」

「栞のことだから」

 その言い方がやさしすぎて、私はまた少しだけ困った。


「……考えてました」

 私は正直に言う。

「何を」

「……前は」

 言葉を探す。

「近づくのが怖いとか、釣り合わないとか、そういうことばっかりだったけど」

「うん」

「今は」

「うん」

「それでも、隣にいたいって思う」

 言った瞬間、胸が熱くなる。


 恒星はしばらく何も言わなかった。

 ただ、私を見ている。

 その視線の温度があまりにもやわらかくて、逃げたくなるのに逃げたくない。


「……それ」

 彼がやっと言う。

「かなり、嬉しい」

「……」

「栞がそう思ってくれてるなら」

「……」

「俺、たぶんもっと頑張れる」


 その返事に、私は少しだけ笑ってしまった。

「何で一条くんが頑張るんですか」

「だって」

 彼も少し笑う。

「隣に立ちたいって思ってくれてるなら、ちゃんとそこにいていいって思わせたいから」


 私は息を呑んだ。


 そこにいていいって思わせたい。

 そんなふうに言われたことなんて、今まで一度もなかった。


 自分の気持ちより先に、私の不安の方を見てくれる。

 それがこの人らしいと思う。

 そして、だからこそ好きになってしまうのだとも思う。


「……一条くん」

「うん」

「そういうの」

「うん」

「ずるいです」

「また?」

「だって、ちゃんと欲しい言葉ばっかり言うので」

 恒星が少しだけ目を見開いた。

 それから、ひどくやわらかく笑う。


「じゃあ、もっと言っていい?」

「……」

「だめ?」

「……少しだけなら」

「少しだけなんだ」

「……」

「栞、今日ほんとに可愛い」

「……!」

「今の“少しだけなら”の言い方も」

「……」

「あと、隣にいたいって言ってくれたのも」

「……」

「全部、かなり効いてる」


 私はもう、どうしていいか分からなかった。

 でも、今日は前よりほんの少しだけ、その甘さを受け取れている気がした。


 彼の隣に立ちたい。

 その気持ちを言葉にしたからかもしれない。


   ◇ ◇ ◇


 帰り道、私はひとりで駅まで歩きながら、何度もその言葉を思い返していた。


 隣に立ちたい。

 それは、たぶん今日の私にとって、一番大きな変化だった。


 前は“無理”としか思えなかった。

 でも今は、“無理かもしれないけど、それでも立ちたい”になっている。


 それは、ずっと大きな前進だ。


 もちろん、自信はまだない。

 彼の隣にふさわしいかなんて、今でも分からない。

 でも、隣にいたいと思うことまでやめなくていいのかもしれない。


「……ほんとに、変わったな」


 小さくつぶやいて、私は眼鏡の位置を直した。


 明日もまた、彼に会う。

 たぶんまた甘いことを言われて、困って、でも嬉しくなる。


 そういう毎日を、私は少しずつ好きになっているのだと思う。

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