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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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タイトル未定2026/03/29 13:28

交流イベントが終わって数日経っても、あの日のざわつきは、私の中からきれいには消えていなかった。


 駅前のベンチで、はじめて「帰りたくないかも」と口にしてしまったこと。

 一条くんがそれを、あまりにも自然に、うれしそうに受け取ったこと。

 それ自体は、思い出すたびに胸が甘くなる。


 でも、その甘さと一緒に、別のものも残っていた。


 ――あの他校の女子のことだ。


 華やかで、堂々としていて、少し大人びていて。

 何のためらいもなく一条くんに近づいて、連絡先を聞こうとした子。


 彼はきっぱり断っていた。

 それはちゃんと見た。

 そのあと、私に「最初から君だけだ」とまで言ってくれた。


 だから、安心したはずだった。


 なのに、完全には消えない。


 たぶん私は、あの子そのものに傷ついたんじゃない。

 “そういうふうに、彼へ自然に近づける誰かがいる”という現実に、静かに刺されたのだ。


 私はまだ、彼女じゃない。

 名前を呼ばれて、少し甘い時間を重ねて、特別だと言われて。

 それでもまだ、“彼女”とは言えない。


 その曖昧な位置にいるまま、彼のまわりに誰かが現れるたび、私はこれから何度でも同じように揺れるのかもしれない。


 そう思うと、少しだけ息が詰まった。


「栞、今日ほんとに静かだね」

 朝のホームルーム前、ひまりが私の机の前に立って言う。

「……そう?」

「そう」

 彼女は椅子を引いて座り、じっと私の顔を覗き込んだ。

「考えてる顔」

「……」

「一条くん?」

「……うん」

「最近、もう否定しなくなったね」

「否定する体力がない」

「重症だなあ」


 ひまりはそう言ったあと、少しだけ笑みを消した。


「何が引っかかってるの?」

「……」

「言いたくなかったらいいけど」

「……他の子が」

「うん」

「一条くんに普通に近づいてくるの、まだちょっと、慣れない」

「そっか」


 私は視線を机の木目に落とした。


「断ってくれたのに」

「うん」

「ちゃんと私の方を見てるって、分かったのに」

「うん」

「それでも、苦しいって思う自分が嫌」

「何で嫌なの」

「だって、彼女でもないのに」

 そこまで言って、喉の奥が少しつまる。

「こんなの、勝手すぎる気がするから」


 ひまりはしばらく黙って、それから小さくため息をついた。


「勝手でいいんじゃない?」

「雑」

「雑じゃないよ」

 彼女は机に頬杖をついた。

「好きになりかけてる相手が、ほかの女の子に近づかれて苦しいなんて、めちゃくちゃ普通」

「……」

「むしろ、栞はそこをずっと“私には似合わない”でごまかしてただけ」

「……」

「でももう、ごまかせないところまで来てる」

 その通りだった。


 私はもう、遠くから憧れているだけじゃない。

 彼が誰を見て、誰に笑って、誰の近くにいるのか。

 そういうことが自分の心を動かす場所まで来てしまっている。


 それを認めるのは、やっぱり少し怖い。


   ◇ ◇ ◇


 その日の昼休み、担任がクラスに入ってきて言った。


「交流イベントの協力で、系列校との合同反省会がある。各校の補助スタッフ代表数名が昼休みに会議室集合」

 教室の空気が少しざわつく。

「うちからは一条、九条、朝比奈、あと二名」


 私は心の中で固まった。


 系列校との合同。

 つまり、あの日の“華やかな女子たち”も来る可能性があるということだ。

 しかも、恒星と同じ場にいる。


 いや、同じ場にいること自体は今さらだ。

 問題は、自分がその空間をちゃんと平静に受け止められるかどうかだった。


「はい行ってらっしゃい、修行の時間です」

 ひまりが小声で言う。

「修行って何」

「嫉妬耐性つける修行」

「そんなのいらない」

「でも必要そう」

「ひまり」

「はいはい、ごめん。でも終わったら報告ね」

「何を」

「心が何回死んだか」

「縁起でもないこと言わないで」


 そう返したけれど、半分くらい本気で死にそうだった。


   ◇ ◇ ◇


 会議室には、うちの学校の生徒と、系列校の代表たちがすでに集まり始めていた。


 私はなるべく静かに端の方の席へ向かおうとした。

 でも、その途中で恒星が私に気づいたらしく、自然に手を上げる。


「こっち」

 低く穏やかな声。


 その一言だけで、何人かがこちらを見る。

 私は一瞬だけ足を止めた。


 恒星は自分の隣の席を少しだけ引いていた。

 あまりにも自然で、でも明らかに“ここに座って”という仕草だった。


 心臓が跳ねる。


 今、ここで?

 他校の子たちもいるのに?

 そんなふうに当然みたいに隣を確保するの?


「朝比奈さん?」

 恒星が少しだけ首をかしげる。

「……」

「座らない?」

「……座ります」


 ほかに選択肢なんてないみたいに、私はそこへ座った。


 その瞬間、斜め向かいの席から視線を感じた。

 顔を上げると、あの日、恒星に話しかけていた系列校の女子がいた。


 目が合う。

 彼女は一瞬だけ驚いたような顔をした。

 それから、すぐに微笑んだ。

 感じのいい笑顔だ。悪意があるようには見えない。


 でも、その“悪意のなさ”が逆に胸に刺さる。


 だって、彼女にとって私は、ただ“今、隣に座っている同学年の女子”くらいの認識かもしれない。

 でも私にとっては、その相手がひどく気になるのだ。


 会議が始まっても、私は少し落ち着かなかった。


 反省点の共有。

 来年度への改善案。

 配布物の修正点。


 話し合っている内容は真面目なのに、私の頭の端ではずっと別のことが引っかかっている。

 視線の位置とか、距離とか、隣にいることの意味とか。


「一条くん」

 会議の途中、その女子がふいに声をかけた。

「先日は、急に話しかけてごめんなさい」

 私は反射的にそのやり取りに意識を向ける。


 恒星は穏やかに顔を上げた。

「いえ」

「ちょっと失礼でしたよね」

「もう気にしてないよ」

「よかった」

 彼女はふっと笑って、それから少しだけ私の方を見る。

「そちらの方と一緒にお仕事されてたんですね」

 一瞬、息が止まった。


 話しかけられると思っていなかった。

「……はい」

 どうにか返す。

「朝比奈さん」

「名前まで覚えてる」

 彼女はにこやかに言った。

「お仕事、すごくちゃんとしてたので」

「……ありがとうございます」


 悪い子じゃない。

 むしろ感じはいい。

 それが余計につらい。


 感じの悪い相手なら、もっと簡単に身構えられた。

 でも、こうして普通に笑って話しかけられると、自分の方だけが変に意識しているみたいで居心地が悪い。


 そのとき、机の下で、何かがほんの少しだけ私の手の甲に触れた。


 驚いて視線を落とす。

 恒星の指先だった。


 完全に握るわけではない。

 ただ、机の下で、一瞬だけ“ここにいる”と伝えるみたいに触れただけ。


 私は息を呑んだ。


 会議室の空気は何も変わらない。

 他の人たちは資料をめくっている。

 なのに、私だけの世界が一瞬止まったみたいだった。


 恒星は前を向いたまま、何事もない顔をしている。

 でも、ほんのわずかに肩の力が入っているのが分かる。


 ……わざとだ。

 しかも、私を安心させるために。


 それが分かった瞬間、胸の奥のざわざわが少しだけほどけた。


 ずるい。

 でも、あまりにも効果がある。


   ◇ ◇ ◇


 会議が終わったあと、廊下へ出たところで、例の女子――系列校の生徒がこちらへ歩いてきた。


「一条くん」

 やっぱり、真っ先に彼を見る。

「今度、資料の確認でまたご一緒になるかもしれないので」

「うん」

「そのときはよろしくお願いします」

「こちらこそ」

 そこまでなら普通だった。

 でも彼女は続けた。

「朝比奈さんも」

「……え」

「よかったら次、一緒にお話ししませんか」

 私は少しだけ戸惑う。

「……私、ですか」

「はい。少し気になってたので」

「……」


 その“気になってた”に、別の意味はないのだろう。

 たぶん本当に、交流イベントのときから見ていて、単純に話してみたくなっただけだ。


 でも、私はなぜかうまく笑えなかった。


 私が少し返事に詰まった、そのとき。

 恒星がさりげなく一歩だけ前へ出た。


「その件は、先に俺が朝比奈さんと確認する」

 声は穏やかだった。

 でも、その言い方には明確な線があった。


 女子が少しだけ目を瞬く。

「え?」

「担当が重なるところ、うちの学校側で先に擦り合わせたいから」

「……あ、そうなんですね」

「うん」

「じゃあ、そのあとなら」

「必要があれば、こっちから連絡するよ」


 その返しに、私はまた息を止める。


 必要があれば、こっちから連絡する。

 彼はいつも通り丁寧に言っている。

 でも、ほとんど拒絶に近い。


 女子生徒は一瞬だけ黙って、それから「分かりました」と微笑んだ。

 でも、その笑顔の奥に、少しだけ理解した色が浮かんだ気がした。


 彼女は軽く会釈して去っていく。


 廊下に残ったのは、私と恒星だけ。


「……」

「……」

「今の」

 ようやく私が言うと、恒星がこちらを見る。

「うん」

「かなり、はっきりしてました」

「そう?」

「そうです」

「……」

「どうして」

 聞いた瞬間、彼は少しだけ困ったように笑った。


「また、栞がしんどそうな顔するかなと思って」

「……」

「それが嫌だった」

 私は何も言えなくなる。


 私が苦しそうな顔をするから。

 その理由だけで、彼はこうして迷いなく線を引く。


 そんなふうにされて、嬉しくないわけがない。

 でも、それと同じくらい、自分の中の独占欲みたいなものが見えてしまって、少し苦しい。


「……彼女でもないのに」

 思わず、そうこぼしていた。


 恒星が目を細める。

「うん」

「こんなの、私が勝手に苦しくなってるだけなのに」

「違うよ」

「でも」

「栞」

 名前を呼ばれて、私は顔を上げた。

「俺が君をそうさせてる」

「……」

「だったら、ちゃんと責任取る」

「……っ」

「そういう意味でも、ああいうのは放っておきたくない」


 責任取る。

 その言葉の重さに、私は言葉を失った。


 軽い慰めではない。

 彼は本気でそう言っている。

 それが分かるから、余計に胸が苦しい。


   ◇ ◇ ◇


 教室へ戻ると、ひまりがすぐに察した顔をした。


「何かあった」

「……」

「何その顔」

「……分かんない」

「分かんない顔じゃないよ」

 彼女は私の机に肘をつく。

「もっと具体的」

「……」

「栞」

「……また、取られそうで苦しかった」

 そう言った瞬間、自分で少しだけ息を止めた。


 取られそう。

 そんな言葉、口にしたのは初めてかもしれない。


 ひまりは一瞬黙って、それから少しだけやわらかく笑った。


「それ、かなり大事な自覚だよ」

「……」

「だってもう、“気になる”とか“近いと困る”じゃないもん」

「……」

「取られたくないんじゃん」

「……うん」


 やっと、認める。


 私はもう、彼が他の子に向く可能性そのものが嫌だ。

 もちろん彼は何もしていない。

 むしろ、ちゃんと断ってくれている。

 それでも苦しくなるのは、私の中で彼がちゃんと特別だからだ。


「で?」

 ひまりが少しだけにやっとする。

「一条くん、どうした」

「……」

「守った?」

「……」

「守ったんだ」

「……うん」

 そこまで言うと、ひまりは机に突っ伏した。

「だめだ、それは甘い」

「ひまり」

「何」

「私、たぶん、かなり重い」

「恋はだいたい重いよ」

「そういう問題じゃなくて」

「でも栞」

 ひまりは顔を上げて、少しだけ真面目に言った。

「向こうも相当重いじゃん」

「……」

「だから釣り合ってるよ」


 その言葉に、私は何も言えなかった。

 釣り合う。

 まだその言葉には慣れない。

 でも、前より少しだけ、拒絶したくならなかった。


   ◇ ◇ ◇


 帰り道、夕暮れの駅前を歩きながら、私は今日のことを何度も思い返していた。


 会議室の机の下で触れた指先。

 あの女子への、穏やかで、でも明確な線引き。

 そして「ちゃんと責任取る」という低い声。


 彼女じゃない。

 でも、取られそうになると苦しい。


 それは矛盾しているようで、今の私にはどうしようもなく本当だった。


 名前のない関係のまま、心だけがどんどん先へ行ってしまう。

 それは少し怖い。

 でももう、止まれないところまで来ている気がする。


「……ほんとに、だめかも」


 小さくつぶやく。


 でも、その“だめ”は、今日また少し甘かった。

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