第24話 はじめての“帰りたくない”は、恋の匂いがした
その日の放課後、私は資料室の前で一度だけ深呼吸をした。
交流イベントの後処理は、ようやく大きな山を越えつつある。
今日は確認済みの報告書をまとめて職員室へ回すだけ、と先生は言っていた。
たぶん、そこまで長引かない。
長引かない。
それ自体はいいことのはずなのに、私はそれを考えた瞬間、胸の奥が少しだけさみしくなるのを感じてしまった。
最近の放課後は、ほぼ確実に一条くんと顔を合わせる。
資料の確認とか、後処理とか、名簿の仕分けとか。
全部にちゃんと理由はある。
でも、その理由の向こう側に、私たちだけの少し甘い時間があることを、私はもう知ってしまっている。
だから、作業がすぐ終わると聞くと、少しだけ惜しいと思ってしまうのだ。
「……だめだな」
小さくつぶやいてから、私は扉を開けた。
資料室の中には、すでに恒星がいた。
窓際の机に寄りかかるように立っていて、私が入った瞬間、すぐに顔を上げる。
「お疲れさま」
「……お疲れさま」
「来てくれると思ってた」
「来るって言いました」
「うん。でも、言われても嬉しい」
「……」
最近この人は、本当に隠さない。
前なら、そういうまっすぐさにいちいち怯えていたのに、今はそれを少しだけ嬉しいと思ってしまう自分がいる。
そのことに、自分で少し驚く。
「今日の作業」
恒星が机の上の紙束を指で示す。
「確認済みを学年ごとに分けて、先生の箱に入れるだけ」
「……少ない」
「うん」
「……」
「ちょっと物足りない?」
その問いに、私は思わず顔を上げた。
どうしてそういうところだけ、妙に鋭いんだろう。
言い当てられると困る。
「……別に」
「別に、って顔じゃない」
「一条くん」
「はい」
「そういうの、ほんとに」
「うん」
「見抜かないでください」
「無理かも」
「……」
彼は少しだけ笑って、机の向かいの椅子を引いた。
「座る?」
「……うん」
向かい合って資料を仕分け始める。
単純作業だ。
それなのに、向かいに彼がいるだけで、空気が少しだけ甘い。
紙を揃える音。
窓の外から聞こえる運動部の掛け声。
夕方へ傾いていく光。
その全部が静かで、落ち着いていて、でも心臓だけが少し落ち着かない。
「今日」
恒星がぽつりと言った。
「朝から、ちょっと静かだった」
「……そう?」
「うん」
「それは、いつもでは」
「そういう静かじゃなくて」
彼は仕分けながら、少しだけ目を細める。
「何か考えてるときの方」
「……」
「当たってる?」
「……たぶん」
「何考えてたの」
私は少し迷った。
正直に言うには、少し恥ずかしい。
でも、もう最近は、彼の前で完全に隠し通すのも難しくなっている。
「……今日、早く終わるって聞いて」
「うん」
「ちょっと、残念かもって」
「……」
「思ってしまったので」
言い終わって、私は資料の束に視線を落とした。
あまりにもそのままの本音だった。
こんなの、ほとんど“もっと一緒にいたい”と言っているようなものだ。
恒星はすぐには何も言わなかった。
でも、向かい側の空気がふっと変わったのが分かる。
「……それ」
彼がようやく言う。
「かなり甘い」
「……」
「今、すごく嬉しい」
「……最近そればっかり」
「だって本当にそうだから」
「……」
私はますます顔を上げられなくなる。
でも、こうして嬉しそうにされると、否定したくなくなる自分もいた。
「栞」
名前で呼ばれる。
しかも、今のは少しだけ低くてやわらかい。
私は小さく息を吸った。
「……何」
「作業終わったら」
「うん」
「少しだけ寄り道しようか」
「……寄り道?」
「うん」
「どこに」
「大したとこじゃない」
「……」
「駅前まで行く途中」
「……」
それはもう、放課後の約束だった。
名目も何もない。
ただ一緒に帰るのに、少しだけ寄り道をする。
そんなの、ほとんど。
「……少しだけなら」
気づけば、そう言っていた。
恒星が小さく笑う。
「うん。少しだけ」
◇ ◇ ◇
作業は本当にすぐ終わった。
資料を箱へ入れて、確認表に印をつけて、先生の机へ届ける。
たったそれだけなのに、終わってしまうと、やっぱり少しだけ惜しい。
でも、そのあとがある。
そう思うだけで、胸の奥が変に熱い。
校門を出たあたりで、恒星が歩幅を少しだけゆるめた。
私も自然にそれに合わせる。
夕方の街は、部活帰りの学生や買い物帰りの人たちでほどよく賑わっていた。
でも、校内とは違って、学校の知り合いに見られる緊張が少ない。
それだけで、少し呼吸がしやすい。
「どこに行くんですか」
「コンビニ」
「……コンビニ」
「嫌だった?」
「嫌じゃないですけど」
「よかった」
本当に、大した場所じゃなかった。
でもその“普通さ”が、逆に少しだけ甘い。
コンビニに入ると、恒星は迷いなく飲み物コーナーへ向かった。
私は少し迷って、温かいミルクティーを取る。
「また甘いやつ」
「……好きなので」
「知ってる」
「……」
「その顔」
「何」
「“また知ってるって言った”って顔」
「……言わないでください」
「ごめん」
そう言いながらも、彼は楽しそうだ。
私はもう、最近こういうやり取りをするたびに、少しだけ自分が甘やかされている気がする。
彼はカフェオレを手に取った。
「今日はブラックじゃないんですね」
「今日は甘い気分だから」
「……」
「またその顔」
「何でもないです」
レジを済ませて、外へ出る。
駅前の少し奥まったところに、小さなベンチがある。
大通りから少し外れていて、人の流れはあるのに、そこだけ少し静かだった。
「ここ」
恒星が言う。
「座る?」
「……うん」
ベンチは二人で座ると、少しだけ近い。
でも、くっつくほどではない。
その半端な距離が、妙に意識される。
私は缶を両手で持ちながら、小さく息を吐いた。
ミルクティーの温かさが手に沁みる。
「落ち着く」
ぽつりと言うと、恒星が少しだけこちらを見た。
「ここ?」
「うん。学校の中より」
「そっか」
「……見られてないわけじゃないけど」
「うん」
「知ってる人がいないだけで、こんなに違うんだなって」
「……」
「学校だと、どうしても気にしちゃうから」
「うん」
「でも今は」
私は少しだけ周りを見た。
「ちょっとだけ、普通」
その言葉に、恒星はほんの少しだけ目を細めた。
「じゃあ」
「うん?」
「今、普通にデートっぽいって思ってる?」
「……!」
私は缶を落としかけた。
「一条くん」
「ごめん」
「全然ごめんって顔してない」
「ちょっと嬉しい顔してる」
「……」
「図星だった?」
「……そういう聞き方ずるいです」
「うん。でも気になる」
私は視線を自販機の光るパネルに逃がした。
頬が熱い。
でも、否定できない。
たしかに今、少しだけそう思ったのだ。
何でもない放課後。
コンビニで飲み物を買って、駅前のベンチに座る。
それだけなのに、妙に特別で、妙に甘い。
こんなの、デート未満だけど、ただの帰り道とも違う。
「……ぽいとは、思いました」
観念してそう言うと、恒星が小さく息をついた。
それは笑いと安堵が混ざったみたいな音だった。
「うれしい」
「……」
「じゃあ、俺だけじゃなかった」
「……一条くんも思ってたんですか」
「かなり」
「……」
「学校出たあたりから、ちょっと」
「かなり早いですね」
「だって、栞と二人で寄り道って、それだけで特別だよ」
その言葉に、私はもう返せなくなってしまった。
特別。
たぶん、そうなのだ。
◇ ◇ ◇
ベンチに座って、私たちはしばらくどうでもいい話をした。
先生の癖の話。
交流イベントでひまりが他校の子とすぐ仲良くなっていた話。
資料室の鍵が毎回見つかりにくい話。
どれも特別ではない。
でも、その“特別じゃない話”を二人でしている時間が、妙にあたたかい。
私は缶の残りを少しずつ飲みながら、ふと気づいた。
今の私は、もう“何を話せばいいんだろう”と悩んでいない。
彼とこうしている時間そのものが、少しずつ自然になってきている。
そのことがうれしい。
でも、同時に少しだけ怖い。
「栞」
急に名前を呼ばれて、私は反射的に顔を上げた。
「……何」
「今の返事、前より自然」
「……」
「慣れてきた?」
「……少しだけ」
「そっか」
恒星はその返事を、ほんとうにうれしそうに受け取った。
そういう顔を見せられるたびに思う。
この人は、私の小さな変化をいちいち大事にしすぎる。
「……一条くん」
「うん」
「そういう顔」
「どんな」
「嬉しそうな顔」
「うん」
「見ると、変に落ち着かなくなるので」
「どうして」
「……私が何かしたみたいだから」
「してるよ」
「え」
「ちゃんと」
彼は缶を持ったまま、少しだけ目を細める。
「栞、最近すごく変わった」
「……」
「逃げなくなったし」
「……」
「本音を言ってくれるし」
「……」
「一緒にいてくれるし」
「……」
「それ、俺にはすごく大きい」
私は缶を持つ指先に力を入れた。
どうしてそんなふうに言うんだろう。
私はまだ、大したことはしていない。
答えも出していないし、好きだって綺麗に言えてもいない。
でも彼は、そこへ至るまでの小さな変化を、ひとつひとつ拾ってくれる。
それが、優しすぎて、甘すぎて、苦しい。
「……帰りたくないかも」
気づけば、そんな言葉がぽろっとこぼれていた。
自分で言った瞬間、私は本気で固まった。
何を言っているんだろう、私は。
恒星も一瞬だけ目を見開いた。
でもそのあと、ものすごくやわらかい顔で笑う。
「俺も」
「……」
「今、同じこと思ってた」
私はもう、何も言えなかった。
帰りたくない。
ただそれだけのことなのに、その言葉には今の私の気持ちがかなり詰まっていた。
もっと一緒にいたい。
この時間が終わってほしくない。
そう思ってしまっている。
それを口にしてしまったら、もうごまかせない。
「……でも」
私はどうにか言葉をつなぐ。
「帰らないと」
「うん」
「明日も学校だし」
「うん」
「……」
「知ってる」
彼は少しだけ首を傾ける。
「でも、そう思ってくれたなら十分うれしい」
また、その“十分”だ。
でも、今日はその言葉が少しだけ切なく響いた。
たぶん彼も同じように、まだ先へ行けないことを知っている。
だからこそ、今のこの小さな“帰りたくない”を大事にしてくれるのだ。
◇ ◇ ◇
改札の前で立ち止まる。
ここまで来るあいだも、私はずっと少しだけ惜しかった。
時間はちゃんと流れているのに、もっとゆっくり歩けたらいいのにと思ってしまう。
「じゃあ」
恒星が小さく言う。
「また明日」
「……うん」
「栞」
「何」
「今日は、来てくれてありがとう」
「……私も」
私は少しだけ迷って、それでも続けた。
「寄り道、できてよかった」
彼の目がほんの少しだけ揺れる。
それから、やわらかく笑った。
「うん」
「……」
「次も、また少しだけ付き合って」
「……少しだけなら」
「それでもうれしい」
「……」
最後まで、やっぱりそう言う。
でも、もう前みたいには困るだけじゃなかった。
うれしい、と言われるたびに、私の中にも同じ温度が広がる。
改札を通って振り返ると、恒星はまだそこに立っていた。
視線が合う。
彼は小さく手を上げた。
私も、ほんの少しだけ同じように返した。
それだけで、胸の奥がまたくすぐったくなる。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私は窓に映る自分をじっと見ていた。
頬が、少しだけやわらかい。
困っているようで、でもどこかうれしそうだ。
はじめての“帰りたくない”は、恋の匂いがした。
たぶん、そういうことなのだと思う。
大きな告白じゃなくても。
特別な場所じゃなくても。
コンビニのミルクティーと駅前のベンチだけで、こんなにも気持ちは動く。
そして私は、もっと一緒にいたいと思ってしまった。
それはもう、かなり明確な気持ちだった。
「……ほんとに、だめだな」
小さくつぶやいて、私は窓の外へ視線を向けた。
でも、その“だめ”は、前よりずっと甘い。




