第22話 恋人未満のくせに、保護者みたいに甘やかさないで
その日の朝、私は教室に入る前から、なんとなく嫌な予感がしていた。
交流イベントが終わった翌週とは思えないくらい、先生たちが朝から慌ただしいのだ。
廊下では部活の勧誘ポスターの張り替え、教室では提出物の再確認、学年集会の案内まで重なっていて、空気が少しだけざわついている。
こういう日は、だいたい何かある。
私はそういう勘だけは、昔から妙に当たる。
「おはよ」
ひまりがやってきて、私の机に鞄を軽くぶつけた。
「……おはよう」
「何その顔」
「何って」
「“今日は平穏に終わる気がしません”の顔」
「そんな顔してる?」
「してる。かなり」
ひまりは私の前の席に座って、にやっとした。
「でも分かる。今日なんかバタバタしてるもんね」
「……うん」
「栞、こういう日に限って変に抱え込むから気をつけなよ」
「抱え込まないよ」
「いや抱え込むって」
「……」
「しかも一条くん関係が混ざると、余計に」
「ひまり」
「図星」
私はため息をついて、鞄からノートを出した。
最近ほんとうに、この親友は私の心を読むのがうますぎる。
でも、今日は図星とは少し違った。
一条くんのことを意識していないわけじゃない。
むしろ、最近は常にどこかで意識している。
名前で呼ばれるだけで胸が苦しくなるし、少し甘いことを言われるとその日一日引きずる。
ただ、今日の落ち着かなさはそれだけじゃない。
純粋に、忙しそうな一日になりそうで嫌なのだ。
そして、その予感は一時間目の終わりにはきれいに当たった。
◇ ◇ ◇
「朝比奈、悪いけどこれ、昼までに準備室へ」
担任がそう言って渡してきたのは、予想以上に分厚いプリントの束だった。
「え」
思わず変な声が出る。
「結構ありますね」
「学年分だからな」
先生は悪びれもせず言う。
「印刷室の都合で遅れて、今来た。交流イベント後のアンケート集計の補足資料」
「……」
「ついでにこっちの名簿も、資料室の棚に入れといてくれるか」
「……はい」
断れない量だった。
持てないほどではない。でも、軽いわけでもない。
私はそれを抱えて立ち上がる。
ひまりが心配そうに見る。
「手伝おうか?」
「大丈夫」
「絶対大丈夫じゃない量」
「でも今、ひまりも先生に呼ばれてるでしょ」
「うっ」
たしかにその通りだった。
ひまりは今から別件で職員室に行かなければならないらしい。
「じゃあ、半分あとで持つ?」
「ううん、一回で行く」
「栞」
「大丈夫」
言いながら、自分でも少し不安だった。
でも、こういうときに“無理です”と言うのが苦手なのだ。
持てる範囲なら持ってしまう。
その方が早いし、周りに迷惑をかけずに済むから。
私はプリントの束を抱え直して、教室を出た。
廊下へ出た瞬間、ずしりと腕に重みがくる。
やっぱり重い。
しかも紙って、地味に持ちにくい。
角が腕に食い込むし、前も見えにくい。
「……大丈夫じゃないかも」
小さくつぶやいたところで、今さら引き返すのも悔しい。
私はゆっくりと階段の方へ歩き出した。
そのときだった。
「朝比奈さん」
背後から聞こえた声に、私は思わず足を止めた。
振り返るまでもない。
一条恒星だった。
「何してるの」
「……見れば分かると思います」
「分かるよ。だから聞いてる」
「先生に頼まれて」
「その量を?」
「……うん」
恒星は一瞬だけ眉を寄せた。
その表情が、ほんの少し険しい。
怒っているわけじゃない。けれど、明らかに“納得していない顔”だった。
「貸して」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「持てます」
「持てるかどうかの話じゃない」
「……」
「朝比奈さん」
少しだけ低い声。
私はそれに弱い。
「今、腕痛いでしょ」
「……」
「しかも前見えてない」
「……」
「貸して」
有無を言わせないほど強くはない。
でも、“拒否されると思っていない”くらいには当然の声音だった。
私は少しだけ唇を引き結んで、プリントの束を抱え直した。
「……私、自分で運べます」
「知ってる」
「じゃあ」
「でも、無理してるのも分かる」
「……」
「それが嫌なんだよ」
その言葉に、私は反射的に顔を上げた。
嫌なんだよ。
さらっと言ったのに、そこだけ妙に熱を持って胸に残る。
「……一条くん」
「うん」
「それ、ずるいです」
「どうして」
「断りづらいので」
「じゃあ断らないで」
ほんとうにこの人は、こういうときだけ遠慮がない。
でも、プリントの重さで腕がじわじわ痛くなってきているのも事実だった。
私が言葉に詰まった、その隙に。
恒星はあっさり半分以上の束を私の腕から持っていった。
「……っ」
「よし」
「よくないです」
「軽くなったでしょ」
「それは、まあ」
「じゃあ行こう」
結局、私は残りの束を抱えたまま、彼と並んで階段へ向かうしかなかった。
◇ ◇ ◇
階段を上るあいだ、恒星はいつもより少しだけ前を歩いた。
たぶん、私が足元を見やすいようにしてくれているのだろう。
そういう細かい気遣いに気づくたび、私は少しずつ、でも確実に心が揺れる。
「……そこまでしなくてもいいのに」
小さく言うと、恒星は振り返らずに返した。
「何が?」
「今の」
「どれ」
「……前歩くのとか」
「見えにくそうだから」
「……」
「あと」
彼は一段上で少しだけ足を止めた。
「朝比奈さん、こういうとき絶対“大丈夫”って言うから」
「……」
「先回りしないと、ほんとに無理するでしょ」
図星すぎて何も言えない。
私はたしかに、助けてほしいときほど“大丈夫”と言ってしまう。
それを見抜かれているのが、少し悔しくて、でも同時に少しだけうれしい。
「……私、そんなに分かりやすいですか」
「うん」
「嫌です」
「どうして」
「何でも見抜かれると困るので」
「全部は見抜けてないよ」
「嘘です」
「本当」
恒星は少しだけ笑った。
「でも、無理してるのだけは分かる」
「……」
「それは分かるようになった」
その“ようになった”に、時間の積み重なりが含まれている気がして、私はまた何も言えなくなった。
準備室に着いてプリントを机へ置くと、ようやく腕が軽くなる。
思っていた以上に力が入っていたらしく、指先が少しじんとした。
私が小さく手を振ると、恒星がすぐに気づく。
「痛い?」
「……少しだけ」
「ほら」
「……」
「やっぱり無理してた」
「そこまで大げさな」
「大げさじゃないよ」
彼は本気でそう思っている顔をしていた。
からかいもない。ふざけてもいない。
ただ、少しだけ眉を寄せて、私の指先を見ている。
その視線が妙にやさしくて、私は落ち着かなくなる。
「……大丈夫です」
「またそれ」
「ほんとに」
「朝比奈さん」
「……何」
「今のは、“痛いけど我慢できます”の大丈夫でしょ」
「……」
「そういうの、もうちょっと細かく申告して」
なんだろう、その言い方。
先生でも親でもないのに、妙に生活に入り込んでくる。
「……保護者みたい」
ぽろっと本音が出た。
恒星は一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑う。
「保護者?」
「……」
「それはちょっと嫌かも」
「どうして」
「恋人未満なのに保護者枠は悲しい」
「……!」
私は言葉を失った。
今、さらっと。
でもたしかに、“恋人未満”って言った。
つまりこの人は、今の私たちをそういう位置に置いて考えている。
それがうれしいのに、恥ずかしくて、顔が一気に熱くなる。
「……一条くん」
「うん」
「そういうの、ほんとに急に言いますよね」
「思ったこと言っただけ」
「それがだめなんです」
「だめ?」
「心臓に悪いです」
「俺も結構悪い」
「……」
「今の顔見てると」
だめだ。
こういう流れで、平然と追い打ちをかけてくるのが本当にだめだ。
私は眼鏡の位置を直して、なんとか話題を変えようとした。
「……ひまりが」
「うん」
「“それもうほぼ彼氏なんだよなあ”って言いそう」
「瀬名さん、言いそう」
「絶対言う」
「でも、少し分かる」
「何が」
「俺もそう思うときある」
もうだめだった。
資料室の窓を開けて、そのまま外へ逃げたくなるくらいにはだめだった。
◇ ◇ ◇
その日の昼休み、私は案の定、ひまりに問い詰められた。
「はい、何があった」
「何も」
「ある顔」
「……」
「栞」
「……一条くんに、荷物持たれた」
「ああ、それは見た」
「見てたの!?」
「遠くからだけど」
「……」
「で?」
「で、って」
「それでそんな顔になるわけないから、続きがあるでしょ」
私は諦めて、小さく言った。
「……保護者みたいって言ったら」
「うん」
「恋人未満なのに保護者枠は悲しいって」
ひまりは一瞬黙って、次の瞬間、机に突っ伏した。
「ちょっと無理」
「何が」
「甘すぎる」
「……」
「それで?」
「それで、って」
「栞、どう思ったの」
「……」
「はい、そこ大事」
私は小さく息を吐いた。
どう思ったか。
それを正直に言うのは、かなり恥ずかしい。
でも、ひまりにはたぶん隠しきれない。
「……うれしかった」
「うん」
「でも」
「うん」
「そんなふうに当然みたいに世話焼かれると、私、たぶん」
「たぶん?」
「……慣れそうで、怖い」
ひまりが顔を上げる。
「慣れたいんだ」
「違う」
「違わないじゃん」
「……だって」
私は弁当箱の隅を見る。
「優しくされるたびに、最初はびっくりするけど」
「うん」
「最近、ちょっと安心しちゃう」
「うん」
「それが当たり前になったら、なくなったときつらい」
そこまで言うと、ひまりは少しだけやわらかい顔になった。
「でもさ」
「何」
「なくなる前提で怖がってたら、今ある甘い時間まで損するよ」
「……」
「まあ、栞がそういうの苦手なのは分かるけど」
「……」
「でも、一条くん、なくす側じゃなくて積み重ねる側って感じする」
私はその言葉に少しだけ黙った。
たしかに。
彼は、軽い好意のふりをして近づく人じゃない。
少しずつ、でもちゃんと積み重ねる人だ。
だからこそ、こんなに怖いのかもしれない。
本気で大事にされることに慣れていない私には。
◇ ◇ ◇
午後の授業が終わったあと、校内の備品を片づける作業が入った。
私は脚立の横で、掲示物を外して段ボールへ入れる役目をしていた。
先生が足りないらしく、ちょっとした雑用が次々回ってくる。
「朝比奈、そっちの上のテープも取れるか?」
声をかけられて、私は少し背伸びをする。
「……たぶん」
「危なかったら呼べよ」
「はい」
呼べよ、と言われても、こういうときに素直に呼べた試しがない。
私は椅子に乗るほどではない高さの掲示物に手を伸ばした。
あと少し。
届きそうで届かない。
その瞬間、背後から伸びた腕が、あっさりテープを剥がした。
「はい」
「……っ」
振り返ると、当然みたいな顔で恒星が立っている。
「……びっくりした」
「呼ばないから」
「……」
「先生、呼べって言ってたのに」
「……届きそうだったので」
「届いてなかった」
「……」
「ほら」
彼は剥がした掲示物を私の持つ段ボールへ入れる。
その流れがあまりにも自然すぎて、私は抗議の言葉を失った。
「……もう」
「うん」
「ほんとに保護者みたいです」
「だからそれは嫌だって」
「何でそんなにそこだけこだわるんですか」
「だって」
彼は少しだけ声を低くする。
「もっと違う立場になりたいから」
その一言で、また心臓が跳ねる。
校舎の片隅。
周りには人もいる。
それなのに、急にここだけ甘くなる。
「……一条くん」
「うん」
「今、そういうの」
「うん」
「だめです」
「どうして」
「顔に出るので」
「出てる?」
「たぶん」
「可愛い」
「……」
私はもう、本当に返す言葉がなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道、ひとりで駅へ向かいながら、私は今日一日のことを何度も思い返していた。
荷物を持たれて。
無理してるのを見抜かれて。
保護者みたい、と言ったら、恋人未満だから嫌だと言われて。
掲示物まで当然みたいに取られて。
なんなんだろう、この人は。
でも、たぶんもう答えは出ている。
私はそうやって甘やかされるのが、嫌じゃない。
むしろ、かなりうれしい。
そして少しずつ、それに慣れ始めている。
それが怖い。
でも、たぶんそれ以上に、あたたかい。
「……ほんとに、ずるい」
小さくつぶやいて、私は黒縁眼鏡の位置を直した。
恋人未満のくせに、保護者みたいに甘やかさないで。
そう思うのに。
もし明日その甘さがなくなったら、私はたぶん、かなりさみしくなる。
そんなふうに思ってしまう時点で、もうだいぶ深いところまで来ているのかもしれない。




