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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第21話 名前で呼ぶ、それだけで恋はこんなに苦しい

その週のはじまりは、なぜかずっと胸の奥が落ち着かなかった。


 交流イベントが終わって、学校の空気は少しずついつもの日常へ戻りつつある。

 廊下のざわめきも、先生たちの慌ただしさも、先週までよりは穏やかだ。


 なのに、私の心だけが全然穏やかじゃない。


 理由は分かっている。

 はっきりしすぎるくらい分かっている。


 一条恒星の呼び方だ。


 最近の彼は、ふとした瞬間に名字じゃなくて名前を呼びそうになる。

 いや、なりそう、じゃない。実際に何度か呼んでいる。

 しかも、そのたびにもう隠す気があるんだかないんだか分からない顔で、「もう、そう呼びたい」なんて言うのだから、本当に心臓に悪い。


 名前で呼ぶ。

 ただそれだけのことなのに、どうしてこんなに重いんだろう。


 朝、鏡の前でリボンを結びながら、私は自分の顔を見つめた。


 黒縁眼鏡。

 いつものまとめ髪。

 いつもの私。


 でも、この“いつもの私”が、最近は彼の前で少しずつ崩れている気がする。

 視線とか、声とか、ちょっとした距離とか。

 そういうもので簡単に揺れてしまう。


 名前なんて呼ばれたら、なおさらだ。


「栞ー」

 母の声が階下から聞こえてくる。

「朝ごはん冷めるわよー」

「今行く」

 返事をしながら、私はふと手を止めた。


 今、母は当然みたいに私を名前で呼んだ。

 それは当たり前のことで、何も特別じゃない。

 なのに、一条くんが同じように“栞”と呼ぶだけで、どうしてあんなに世界が変わったみたいな気持ちになるんだろう。


 考えても分からない。

 でも分からないまま、私はまた心臓の上あたりを押さえた。


「……ほんとに、苦しい」


 小さくつぶやいて、私は階段を下りた。


   ◇ ◇ ◇


 教室へ着くと、ひまりは私の顔を一目見ただけで、にやっとした。


「おはよ」

「……おはよう」

「今日は何」

「何が」

「“昨夜も一条くんのこと考えてました”の顔」

「ひまり」

「違うの?」

「……」

「図星」

 私は鞄を机に置いて、小さくため息をついた。


 最近のひまりは本当に容赦がない。

 いや、前から容赦はなかったけれど、私が分かりやすすぎるせいで、さらに遠慮がなくなっている気がする。


「今日は何でそんな顔してるの」

 ひまりが前の席に座りながら聞く。

「……名前」

「名前?」

「呼び方」

「ああ」

 ひまりは一秒で察した顔をした。

「ついにそこ来たか」

「何その言い方」

「いや、だって一番おいしいところじゃん」

「私の人生を食べ物みたいに言わないで」

「でも実際かなりおいしいよ?」

「ひまり」

「はいはい。で、何がそんなにしんどいの」

 私は少しだけ視線を落とした。

「……名前で呼ばれそうになるたびに」

「うん」

「すごく意識する」

「うん」

「でも、意識してるのがばれたくなくて」

「うん」

「変な反応になる」

「うん」

「全部分かってるなら、その相槌やめて」

 ひまりは笑いながら肩をすくめた。


「でもさ、栞」

「何」

「ほんとは呼ばれたいんでしょ」

「……」

「図星」

「……呼ばれたくないわけじゃない」

「はい出ました」

「でも」

「うん」

「呼ばれたらたぶん無理」

「何が」

「私の心臓が」


 ひまりは一瞬黙って、それから机に突っ伏した。

「ごめん、今の可愛かった」

「何で」

「もう完全に好きな子に名前呼ばれたい女子じゃん」

「……」

 否定できないのが悔しかった。


   ◇ ◇ ◇


 一時間目と二時間目のあいだの休み時間。


 私は次の授業のノートを出そうとして、筆箱を机の中に落とした。

 しゃがんで取ろうとした瞬間、同じタイミングで別の手が机の横から伸びてきた。


「はい」

 低くやわらかい声。


 顔を上げる。

 一条恒星だった。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 自然だ。

 あまりにも自然に筆箱を拾って渡してくる。

 それだけのことなのに、彼がこうして私の机のそばに立っているだけで、教室の空気は少し変わる。


「次、移動教室だよね」

「……うん」

「資料室の鍵、先生から預かってる?」

「まだ」

「じゃあ、一緒にもらいに行こうか」

「……」

「嫌?」

「……嫌じゃないです」


 そう答えると、恒星は少しだけ目を細めた。

「よかった」


 その“よかった”に、また胸がやわらかくなる。

 最近の私は、その一言だけで簡単に揺れすぎる。


 廊下へ出ると、人の流れの中で自然に彼が私の隣へ並ぶ。

 近い。

 でも前みたいに、その近さだけで息が詰まる感じではなくなってきた。


 その代わり、別のところが敏感になっている。


「栞」

 不意にそう呼ばれて、私は本当に立ち止まりそうになった。


「……っ」

 心臓が跳ねる。

 喉が急に乾く。


 恒星は一歩先で立ち止まって、少しだけ振り返った。

 その顔に、わずかな確信が見える。

 たぶん、わざとだ。


「一条くん」

 私はどうにか声を絞り出す。

「うん」

「……今」

「うん」

「わざとですか」

「そうだよ」


 即答だった。


 私は息を呑んだ。

 ごまかしもしないのか、この人は。


「どうして」

「呼びたかったから」

「……」

「もう、そう呼びたい」

 彼は少しだけ首を傾ける。

「だめ?」


 だめ、なんて言えるわけがない。

 でも、いい、ともすぐには言えない。


 私は廊下の窓の外を見た。

 春の光がまぶしい。

 でも今の私には、それより彼の声の方がずっと刺激が強い。


「……教室の外だから、って」

 やっとそれだけ言うと、恒星は少し笑った。

「完全なだめじゃないんだ」

「そういう言い方やめてください」

「ごめん」

「……」

「でも、じゃあ二人きりなら?」

「一条くん」

「うん」

「ほんとに、そういうとこです」

「どこ?」

「ずるい」


 彼は少しだけ楽しそうに笑った。

 でも、その笑い方が前より甘く見えるのは、きっと私の意識のせいだ。


「栞」

 また呼ばれる。

 今度は少しだけ静かに。

 私は反射的に彼を見る。


「返事して」

「……っ」

「呼んでるのに」

「……」

「栞」


 だめだ。

 何回も言われたら本当に無理だ。


 私は耳まで熱くなるのを感じながら、ものすごく小さな声で返した。


「……はい」


 その瞬間、恒星の表情が変わった。

 驚いたように目を見開いて、それから、ひどくやわらかく崩れる。


「……今の、すごく可愛かった」

「やめてください!」

 思わず声が大きくなる。

 近くを歩いていた何人かがこちらを見る気配がして、私は慌てて口をつぐんだ。


「ごめん」

 恒星はそう言いながらも、全然困っていない顔だった。

 むしろ、少しだけ幸せそうだ。


「……もう、呼ばないでください」

「それは無理かも」

「何で」

「返事がうれしいから」

「……」

「しかも、今みたいに頑張って返してくれると」

「……」

「もっと呼びたくなる」


 私はもう、それ以上何も言えなかった。


   ◇ ◇ ◇


 昼休み、ひまりにそのことを話すつもりはなかった。

 なかったのに、私の顔を見たひまりがあまりにも確信に満ちた顔で聞いてきたせいで、結局少しだけ白状することになった。


「何かあった」

「……」

「それもかなり甘いの」

「……」

「栞」

「……名前」

「うわ」

「その反応やめて」

「いや、だってとうとう来たじゃん」

「来た」

「呼ばれた?」

「……うん」

「で?」

「……返事した」

「うわぁ」

「だからやめて」

「待って、それどんな顔で?」

「知らない」

「絶対可愛かったやつじゃん」

「知らない!」

 ひまりは完全に楽しそうだった。

 でも、そのあと少しだけやわらかい顔で言う。


「よかったね」

「……何が」

「名前って、やっぱり一番近いから」

「……」

「名字よりずっと、特別感あるじゃん」

「……うん」

「それを嬉しいって思ってる顔してるよ、栞」

 私は少しだけ息を止めた。


 嬉しい。

 たしかに、そうだ。


 苦しい。

 恥ずかしい。

 でも、その全部の奥で、私はちゃんと嬉しいと思っている。


 彼が自分だけを名前で呼ぶこと。

 それを隠さないこと。

 そして、私がそれにちゃんと反応してしまうこと。


 そういうものが、たまらなく甘い。


「……でも」

 私は小さく言う。

「私からは、まだ呼べない」

「だよねえ」

「だって無理」

「うん」

「口に出した瞬間、心臓止まる」

「うん」

「そのくらい無理」

 ひまりは少しだけ笑ってから、私を見た。

「でも、いつか呼びたいんでしょ」

「……」

「図星」

「……呼びたくないわけじゃない」

「はい、十分です」


   ◇ ◇ ◇


 その日の放課後、私は交流イベント関連の報告書を先生に届けるため、職員室へ向かっていた。


 廊下の向こうから、恒星が歩いてくるのが見える。

 目が合う。

 彼は少しだけ歩幅をゆるめた。


「今、帰り?」

「……まだ。職員室」

「じゃあ、一緒に行く」

「……何で」

「俺も用事あるから」

「絶対今決めましたよね」

「半分くらい」

「半分なんだ」

「残り半分は、栞と歩きたかったから」

「……」


 最近、この人は本当に隠さない。


 恥ずかしいのに。

 でも、その“隠さなさ”に少しずつ慣れてきている自分もいる。

 そこがたぶん、一番危ない。


 廊下を並んで歩く。

 夕方の校舎は少し静かで、足音がやわらかく響く。


「ねえ」

 恒星が小さく言う。

「何」

「今日、名前で呼んだの嫌じゃなかった?」

 その聞き方が、思った以上に慎重で、私は少しだけ胸がきゅっとした。


 彼だって、平然としているように見えて、こういうところではちゃんと確認したいのだ。

 傷つけたくないし、傷つきたくもないのかもしれない。


「……嫌じゃないです」

 私はゆっくり言った。

「うん」

「でも、すごく困る」

「それは知ってる」

「あと、すごく恥ずかしい」

「うん」

「でも」

 私は少しだけ深呼吸した。

「嬉しい、です」


 言い終わった瞬間、自分で顔が熱くなる。

 こんなの、ほとんど告白じゃないかと思った。

 いや、違う。

 でも、かなりそれに近い。


 恒星は立ち止まりそうになるくらい驚いた顔をした。

 それから、少しだけ視線を落として笑う。


「……それ、かなり効く」

「何に」

「理性」

「……」

「すごく抱きしめたくなる」

「……っ、一条くん」

「ごめん」

「全然ごめんって顔してない」

「してないかも」

「……」


 だめだ。

 ほんとうに、この人はだめだ。

 でも、そんなふうに言われたことが、どうしようもなく甘いのも本当だった。


 職員室の前に着くと、私はようやく少しだけ呼吸を整えた。

 報告書を渡して、先生に確認印をもらう。

 その間も、廊下の向こうで待っている彼の気配が分かる。


 待たれている。

 それだけで、心が少しやわらかくなる。


 戻ると、恒星がすぐに気づいた。

「終わった?」

「……うん」

「じゃあ、少しだけ寄り道する?」

「え」

「購買の前、自販機あるでしょ」

「……」

「甘いの飲みたい気分」


 絶対、わざとだ。

 私が今どんな気持ちでいるのか、分かったうえで言っている。


「……少しだけなら」

 そう答えてしまうあたり、私もかなりだと思う。


   ◇ ◇ ◇


 自販機の前で、私はミルクティーを選んだ。

 恒星はブラックコーヒーにするのかと思ったら、甘いカフェオレを買った。


「一条くん、甘いの飲むんだ」

「意外?」

「少し」

「今日は甘い気分だから」

「……」

「今の顔、分かりやすい」

「何ですか」

「絶対、今の台詞に反応した」

「してません」

「してるよ」


 彼は缶を開けながら、少しだけ楽しそうに笑う。

 その笑い方を見ていると、こっちまで少しずつ緊張がほどける。


 でも、ほどけた分だけ、別の意味で危ない。


「栞」

 不意にまた名前を呼ばれる。

 私は反射的に顔を上げた。


「……何」

 今度は少しだけ自然に返せた気がした。


 恒星は、それだけで少し嬉しそうに目を細める。

「今の、よかった」

「……」

「前より慣れてきた?」

「……少しだけ」

「そっか」

「でも」

「うん」

「私からはまだ無理です」

「俺の名前?」

「……」

「呼びたい?」

「……」

「栞」

「……そういう聞き方ずるいです」

「うん。でも気になる」

 私はミルクティーの缶を両手で持ったまま、少しだけ俯いた。


 呼びたいかと聞かれたら、たぶん呼びたい。

 でも、そのひと言を口にしたら、何かがもう一段階進んでしまう気がして怖い。


「……練習なら」

 気づけば、そんなことを言っていた。


「え?」

 今度は恒星が少し驚いた顔をする。

 私も自分で何を言っているんだろうと思った。


「練習、なら」

「うん」

「……いつか」

「いつか?」

「……人がいないときに」

 そこまで言って、私はもう無理だと思った。

 顔が熱すぎる。


 でも恒星は、ひどくやさしい顔で笑った。


「うん」

「……」

「じゃあ、その“いつか”を楽しみにしてる」

「楽しみにしないでください」

「無理かも」

「……」

「だって、それだけで今日しばらく頑張れそうだから」

「……それ、ずるいです」

「また言った」

「ほんとにそうなので」


 夕方の自販機の前。

 缶の冷たさ。

 甘いミルクティー。

 そして、名前ひとつでこんなに心が揺れる自分。


 私はもう、どこまで行ったら落ち着くのか分からなくなっていた。


   ◇ ◇ ◇


 帰り道、私は駅のホームで電車を待ちながら、自分の手の中の缶を見つめていた。

 もう中身は空なのに、捨てるタイミングを失っている。


 名前で呼ばれる、それだけで恋はこんなに苦しい。

 でも、その苦しさはもう、嫌なものだけじゃない。


 むしろ甘い。

 恥ずかしくて、胸が熱くなって、でも何度も思い出したくなる。


 私は少しだけ空を見上げた。

 春の夕方はまだ明るくて、風がやわらかい。


 いつか、人がいないときに。

 そんな条件つきでも、自分から彼の名前を呼ぶ未来を、私は少しだけ思い描いてしまっていた。


 その未来を考えるだけで、また胸がぎゅっとなる。


「……ほんとに、苦しい」


 でもその言葉の中には、ちゃんと幸せも混ざっていた。

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