第20話 嫉妬なんて、私には似合わないと思っていた
翌朝、目が覚めた瞬間に、私は布団の中で小さくうめいた。
理由はひとつしかない。
昨日、私は確かに嫉妬した。
しかもそれを、本人にほとんどそのまま知られてしまった。
そのうえで一条くんに、耳元で、あんな声で、
「嫉妬してくれるの、すごくうれしい」
なんて言われたのだ。
「……無理」
布団を顔まで引っ張り上げてつぶやく。
無理、というのは嫌だという意味ではない。
恥ずかしすぎて、今さらどんな顔で会えばいいのか分からない、という意味だ。
嫉妬。
そんな感情、もっと華やかで、自信のある女の子がするものだと思っていた。
少なくとも、私みたいに“私なんて”が口癖の地味な人間には似合わないと。
でも実際は、似合う似合わないなんて関係なかった。
苦しかったし、胸がきゅっとなったし、他の女の子と並んでいるのを見たくなかった。
それが嫉妬なら、私はちゃんと嫉妬したのだ。
しかも、そのことを彼は嬉しそうに受け取った。
その事実が、昨夜からずっと胸の奥をくすぐっている。
甘くて、恥ずかしくて、少しだけ怖い。
「栞ー、起きてる?」
母の声が廊下から聞こえた。
「起きてる」
「ならそろそろ起きなさい」
「……起きてるのに」
「ベッドの上で悩んでる声が聞こえるから言ってるのよ」
「……」
「当たり」
「お母さん」
くすくす笑う気配がして、私は観念して布団から出た。
洗面所で顔を洗いながら、鏡の中の自分を見る。
黒縁眼鏡をかける前の顔は、少しだけ寝不足気味だった。
私はタオルで水気を拭きながら、鏡の中に向かって小さく言う。
「嫉妬くらいで、何そんなに……」
そこで言葉が止まる。
何そんなに、ではない。
私はちゃんと分かっている。
ただ嫉妬したことだけじゃない。
その嫉妬を、彼に嬉しいと言われたことが、何より効いているのだ。
こんなのもう、完全に。
「……だめだ」
私は慌てて眼鏡をかけた。
いつもの自分に戻るために。
◇ ◇ ◇
学校に着くと、ひまりは私の顔を見た瞬間、ものすごく楽しそうに笑った。
「おはよ」
「……おはよう」
「はい、来ました」
「何が」
「“昨日の嫉妬が朝になってじわじわ効いてます”の顔」
「ひまり」
「図星でしょ」
「……」
「図星だ」
「朝からうるさい」
「だって、栞、分かりやすすぎるんだもん」
ひまりは私の前の席に腰かけて、頬杖をついた。
「で?」
「何が」
「昨日のあと、何かあった?」
「……」
「その沈黙、絶対何か言われてる」
「……」
「耳、ちょっと赤い」
「ひまり」
「はいはい、分かりました。言いたくないなら無理に聞きません」
そう言いつつ、ひまりの目はまったく納得していない。
私は小さく息をついて、鞄からノートを出した。
でも、ひまりに隠し通せるとも思っていなかった。
「……嫉妬してくれるの、うれしいって」
「うわ」
「その“うわ”やめて」
「いや、うわって言うでしょそれは」
「……」
「しかも絶対、いい声で言われたでしょ」
「ひまり」
「図星だ」
私はもう机に突っ伏したくなった。
でも、そうしたらそれこそ図星だと認めるようなものなので、どうにか踏みとどまる。
「ねえ」
ひまりが少しだけやわらかい声になる。
「昨日、しんどかった?」
「……うん」
「でも今は?」
「……昨日よりは、少しだけ」
「そっか」
「……」
「安心したから?」
私は返事に少しだけ間を置いた。
安心した。
たしかに、それはある。
彼が他の子を見ていなかったこと。
私に向ける特別さが、ちゃんとそこにあったこと。
それを言葉ではっきり受け取ったから、昨日の苦しさは少し和らいだ。
でも、それだけじゃない。
「……嬉しかった」
小さく言うと、ひまりがにやっとする。
「嫉妬したことが?」
「違う」
「言われたこと?」
「……」
「はい、それです」
私は何も言い返せなかった。
だって、その通りだったから。
◇ ◇ ◇
午前の授業が始まっても、私はどうにも落ち着かなかった。
ノートは取れている。
でも、頭の中ではずっと同じことを考えている。
私は嫉妬した。
そして、一条くんはそれを嬉しいと言った。
そのこと自体がもう、ひどく甘い。
普通なら気まずいだけで終わりそうな感情なのに、彼にかかるとどうしてこうなるんだろう。
一時間目と二時間目の間の休み時間、私は気づけば教室の入口を見ていた。
来るかもしれないと思っていた。
そして実際に、来た。
恒星は教室の前で立ち止まり、こちらを見つけると少しだけ目を細めた。
その表情がやわらかい。
昨日の“うれしい”をまだ引きずっているみたいに。
私はそれに気づいた瞬間、心臓がまた変な音を立てた。
「おはよう」
彼が言う。
「……おはよう」
どうにか返す。
声が少しだけ固かったかもしれない。
「朝から緊張してる?」
「……してません」
「してるね」
「してません」
「顔に書いてある」
「何て」
「“昨日のこと思い出してます”って」
私は思わず眼鏡の位置を直した。
図星すぎる。
「……一条くん」
「うん」
「そういうの、分かってても言わないでください」
「ごめん」
「……」
「でも、可愛いからつい」
「……!」
だめだ。
ほんとうにこの人はだめだ。
朝の教室で、そんな顔で、さらっと。
しかも、前より少しだけ甘さが隠れていない。
私は視線を逸らしながら、どうにか言った。
「……昨日のこと」
「うん」
「今ここで蒸し返さないでください」
「蒸し返してるつもりはないよ」
「じゃあ何ですか」
「うれしさの確認」
「最悪です」
「そう?」
「そうです」
彼は少しだけ笑った。
その笑い方があまりにも楽しそうで、私はますます悔しくなる。
でも、その悔しさの中に、ちゃんと甘さが混じっている。
そこがもう、ほんとうにだめだった。
「朝比奈さん」
少しだけ声がやわらぐ。
「昨日、ちゃんと本音言ってくれてうれしかった」
「……」
「だから今日は、安心してる」
「……」
「俺だけじゃなかったんだって分かったから」
私は何も言えなくなった。
俺だけじゃなかった。
それはつまり、彼も同じように私を気にしていて、私の反応に一喜一憂していたということだ。
そんなの、分かっていても、こうして言葉にされると全然違う。
「……授業始まります」
私は逃げるようにそう言った。
「うん」
「戻ってください」
「分かった」
でも彼は立ち去る直前に、小さく言った。
「またあとで」
その一言が、今日はやけに甘く聞こえた。
◇ ◇ ◇
昼休み、交流イベントのあと処理のため、私はひとりで資料室へ呼ばれた。
アンケートの束を仕分けするだけの簡単な仕事だと先生は言っていたけれど、資料室の中は静かすぎて、逆に落ち着かない。
紙をめくる音だけが響く。
窓から入る春の風が、時々カーテンを揺らす。
私はアンケートの学校別ファイルを分けながら、小さく息をついた。
たぶん、こういう静かなときがいちばん危ない。
余計なことを考えてしまうから。
昨日のこと。
今日の朝のこと。
“可愛い”なんてさらっと言われたこと。
全部が頭の中で反響している。
そのとき、ドアが軽くノックされた。
「朝比奈さん?」
声だけで分かる。
一条恒星だ。
私は思わず手を止めた。
「……どうぞ」
ドアが開いて、恒星が顔を覗かせる。
「先生に、こっち手伝ってって言われた」
「……そうなんだ」
「嫌だった?」
「……そういう聞き方、ずるいです」
「じゃあ、嫌じゃない?」
「……嫌じゃないです」
そこまで言うと、彼は少しだけ満足そうに笑った。
資料室は二人で作業するには十分な広さだけれど、それでも静かすぎて、声が少し近く聞こえる。
恒星は私の向かいに座って、同じようにアンケートを仕分け始めた。
「今日」
彼が小さく言う。
「朝から少し機嫌いい」
「……誰が」
「俺」
「自覚あるんだ」
「かなりある」
「どうして」
「栞が嫉妬してくれたから」
「……」
またそこへ戻る。
でも、それを正面から言われると、もうごまかせない。
「……嫉妬なんて」
私は小さく言った。
「私には似合わないと思ってました」
「どうして」
「どうしてって……」
そんなの、私だからに決まっている。
そう思ったのに、今日はその言葉をそのまま飲み込んだ。
代わりに、少し言い方を変える。
「もっと、自信ある人がするものかと」
「自信?」
「うん」
「関係ないと思うけど」
「あると思います」
「そう?」
「だって」
私は視線を紙の束に落とした。
「自分がその人の隣にいていいって、少しでも思えないと」
「……」
「嫉妬してる自分の方が、勝手にみっともなく見えるから」
そこまで言って、私は少しだけ後悔した。
また、自分を下げるような言い方をしてしまった気がしたから。
でも恒星は、すぐには否定しなかった。
少しだけ考えるみたいに黙って、それから静かに言った。
「じゃあ、昨日の栞は」
「……」
「みっともなくなんかなかったよ」
「……」
「むしろ、すごく可愛かった」
また。
どうしてそういう言葉を、そんな落ち着いた声で言えるんだろう。
私は紙を持つ指先に力を入れた。
「……それ、甘やかしてるだけです」
「違うよ」
「違います」
「違わない」
少しだけ、彼の声が強くなる。
「俺、栞が嫉妬してくれたの、ほんとにうれしかった」
「……」
「だって、俺のことを自分の中でちゃんと特別にしてくれてるってことだから」
「……」
「それ、みっともないどころか、すごく大事なことだと思う」
私は息を止めた。
特別。
その言葉は、私が自分に使うにはまだ少し重い。
でも、彼はこんなにも当然みたいに言う。
しかも、その目は少しもふざけていない。
「……一条くん」
「うん」
「そうやって」
「うん」
「私が逃げようとしてるところ、いちいち見つけるのやめてください」
「無理かも」
「どうして」
「見てるから」
あまりにも簡単に言われて、私はもう何も言い返せなかった。
見てるから。
その一言に、いろんな意味が詰まりすぎている。
昔から。
今も。
たぶん、これからも。
◇ ◇ ◇
アンケートの仕分けが終わるころには、私の胸の中のざわつきは、朝とは少し違うものに変わっていた。
恥ずかしい。
甘すぎる。
でも、昨日の嫉妬を“みっともない”と思わなくていいのかもしれない、という小さな安心が残っていた。
資料の束を棚へ戻しながら、私はぽつりと言った。
「……昨日」
「うん?」
「ちゃんと断ってたの、見て」
「……」
「安心したのは、本当です」
恒星が手を止める。
「そっか」
「うん」
「それ、かなりうれしい」
「……そればっかり」
「だって、うれしいから」
「……」
「安心してくれたなら、なおさら」
私は少しだけ視線をそらした。
彼はずるいくらいに真っ直ぐだ。
でも、その真っ直ぐさに、私はもう前ほど怖がるだけではなくなっている。
「あと」
私は少しだけ迷ってから続けた。
「似合ってたから、見てるのしんどかったって言ったの」
「うん」
「本当にそう思ったので」
「……」
「でも今は」
小さく息をつく。
「ちゃんと断ってるの見たあとなら、少しだけ違って見えます」
「どう違う?」
「……」
「栞?」
私は観念して、小さく言った。
「……ちゃんと、私の方を見てるんだなって」
言い終わった瞬間、資料室の空気が少しだけ止まった気がした。
恒星は静かに私を見ていた。
それから、やわらかく、でもひどく嬉しそうに笑う。
「うん」
「……」
「やっと伝わった」
「……前から伝わってました」
「ほんとに?」
「……少しは」
「少しなんだ」
「今は前より多いです」
そう言うと、彼は本当に幸せそうに目を細めた。
その顔を見た瞬間、私は胸の奥がきゅっとなる。
これ以上、何をどうしたらいいんだろう。
もうかなり好きになってしまっている気がするのに、まだ言葉にしきれない自分がもどかしい。
「栞」
彼が小さく呼ぶ。
「……何」
「嫉妬してくれてありがとう」
「……」
「あと、安心してくれてありがとう」
「……」
「俺、たぶん今かなり甘い顔してると思う」
「知ってます」
「ばれてる?」
「ばれます」
「そっか」
彼は少し笑った。
「じゃあ、もう少しだけ甘くしてもいい?」
私は本気で固まった。
「……何を」
「顔」
「……一条くん」
「だめ?」
「だめです」
「即答」
「今のは即答します」
「そっか」
「……」
「でも、それで赤くなるのは許して」
「許しません」
「厳しい」
「一条くんが甘すぎるんです」
「それは否定できない」
そんなやり取りをしている自分たちに、少しだけ笑ってしまった。
少し前の私なら、嫉妬なんてみっともないと思って、苦しさだけで終わっていたと思う。
でも今は違う。
苦しいだけじゃない。
その先にちゃんと甘さがある。
それを知ってしまったから、もう戻れない。
◇ ◇ ◇
放課後、ひとりで駅へ向かいながら、私は春の風を受けていた。
嫉妬なんて、私には似合わないと思っていた。
でも本当は、似合う似合わないじゃなかった。
誰かを特別に思ってしまったら、自然に出てくる感情なのだ。
そしてその感情を、彼はちゃんと大事なものとして受け取ってくれた。
そのことが、今日の私にはものすごく大きかった。
「……もうほんと、だめだな」
小さくつぶやく。
でも、その“だめ”は悪い意味じゃない。
ちゃんと好きになってしまっている方向の、だめだ。
私は黒縁眼鏡の位置を直しながら、少しだけ笑った。
嫉妬したことを認めた。
それを彼が喜んだ。
そして私は、それが少しうれしかった。
そんな時点で、たぶんもう答えはかなり近い。




