第19話 恋のはじまりに、ライバルはちゃんと現れる
交流イベント当日の朝、私はいつもより三十分早く学校へ着いた。
正確には、“着いてしまった”。
落ち着かなかったのだ。
家にいてもそわそわするし、学校へ行ってもどうせそわそわするなら、もう早く行ってしまった方がましだと思った。
今日は本番。
系列校の生徒や保護者、先生たちも来る。
校内は朝から少し浮き足立っていて、廊下を歩く足音も、先生たちの声も、どこかいつもより速い。
私の担当は資料配布と来客誘導。
ひまりには「絶対テンパるから深呼吸しな」と朝から三回言われた。
「栞」
「……何」
「今日、顔が完全にイベントスタッフの顔してる」
「それはいいことなんじゃないの」
「うん。でも、恋する女子高生の顔も混ざってる」
「ひまり」
「図星」
「……うるさい」
私は資料束を抱えながら、ひまりを軽くにらむ。
でもそのにらみがまったく効いていないことは、自分でも分かっていた。
だって、図星だからだ。
今日ずっとそわそわしている理由は、イベントそのものだけじゃない。
当然のように、一条恒星がいるからだ。
忙しくて、たぶんいつもみたいにゆっくり話す時間はない。
でもその分、校内のあちこちで顔を合わせるだろうし、同じイベントの中で動く時間も長い。
近くにいるのに、ずっと一緒ではない。
でも、彼がどこかにいると分かるだけで、胸の奥が妙に落ち着かない。
「はい、資料班はこっち集合ー」
先生の声が飛んで、私ははっと我に返った。
午前のうちはとにかく忙しかった。
受付に来る人へ資料を渡して、案内の紙を補充して、校舎のどこに何があるかを説明する。
人の流れが切れたと思ったら、すぐ次の波が来る。
余計なことを考える暇がないのは、ある意味ありがたかった。
少なくとも、午前中の私は、恒星のことを意識して赤くなったりする余裕すらなかった。
でも。
「朝比奈さん」
聞き慣れた声が後ろからすると、やっぱり心臓はちゃんと跳ねる。
振り返ると、恒星が立っていた。
今日はスタッフ用の腕章をつけていて、普段の制服姿とはまた少し違って見える。
受付を仕切っているからか、いつも以上に人目を引いていた。
それなのに、私を見るときの顔だけは少しだけやわらぐ。
「大丈夫?」
「……うん」
「資料、足りてる?」
「今のところは」
「困ったら呼んで」
「……またそれ」
「だって本当だから」
「……」
忙しい中でも、彼はちゃんとこうして声をかけてくる。
そのことがうれしくて、でも同時に少し困る。
「そっちは?」
私も聞き返す。
「受付、忙しそう」
「忙しいけど、何とか」
「無理してない?」
「今日は栞の方が無理しそう」
「……してないです」
「ちょっとしてる」
「してません」
「してるよ」
「……」
こんなやり取りをしているだけで、少しだけほっとする自分がいる。
その安心感が最近どんどん自然になっていて、私はそれを自覚するたびに少しだけ怖くなる。
でも今日は、そんなやわらかい時間は長く続かなかった。
「恒星さま」
すぐ近くから、明るくはっきりした声がした。
私は反射的にそちらを見る。
そこに立っていたのは、見たことのない女子生徒だった。
うちの学校の制服ではない。系列校のものだろう。
肩までの髪を綺麗に巻いていて、メイクも少し大人っぽい。ぱっと見ただけで、華やかな子だと分かる。
しかも、その子は最初から恒星だけを見ていた。
私なんて最初から視界に入っていないみたいに。
恒星の表情が、ほんの少しだけよそいきになる。
「何か?」
穏やかではあるけれど、私に向ける声より少しだけ距離がある。
その違いが分かってしまう自分が嫌だった。
「受付でお見かけして、もしかして一条グループの……って思って」
女子生徒はにこにこと笑う。
「やっぱりそうですよね?」
「……学校のイベントなので、その呼び方はやめてもらえると助かります」
「ごめんなさい。でも、有名だから」
悪びれた様子はあまりない。
むしろ、親しげに話しかけるための口実のようにも見えた。
私はそこに立っているのが急に場違いに思えて、少しだけ資料束を抱え直した。
別に、何でもない。
彼は人気者だし、こういうふうに話しかけられるのも珍しくないのかもしれない。
そう自分に言い聞かせるのに、胸の奥が少しだけきつくなる。
「もしよかったら、イベント終わったあと少しお話しできませんか?」
女子生徒がさらっと言う。
「連絡先とか――」
そこで、空気が変わった。
恒星の顔は笑っていた。
でも、その笑いの温度が一段下がったのが、すぐに分かった。
「ごめん」
声も穏やかだった。
けれど、はっきりしている。
「そういうのは必要ない」
女子生徒が少しだけ目を瞬く。
たぶん、想像していた返しではなかったのだろう。
「え、でも」
「受付に戻るから」
恒星はそこで会話を終わらせるように、きっぱり言った。
「イベント楽しんで」
その冷たさに、私は息を止めた。
怒っているわけではない。
声を荒げてもいない。
でも、明確に線を引いている。
今まで見たことのない種類の、はっきりした拒絶だった。
女子生徒は「あ、はい……」と引き下がった。
でも、その去り際にようやく私を見て、少しだけ不思議そうな顔をした。
私はその視線に、ひどく居心地の悪い気持ちになった。
何だろう、この感じ。
責められたわけでもないのに、胸が苦しい。
「朝比奈さん」
恒星が私を見る。
「大丈夫?」
「……え」
「顔、少し」
彼は言葉を探すみたいに一瞬だけ迷った。
「固い」
私は慌てて首を振った。
「……大丈夫です」
「ほんとに?」
「うん」
「……」
「一条くん、受付戻らないと」
自分でもびっくりするくらい、声が少し固くなった。
恒星はそれを聞いて、わずかに眉を寄せる。
でも今は本番中だ。ここで長く引き留めるわけにもいかないのだろう。
彼は小さくうなずいた。
「あとで話そう」
「……」
「逃げないで」
「……逃げません」
「うん」
そう言って彼は受付の方へ戻っていった。
私はその背中を見送りながら、胸の奥が変にざわざわするのを抑えられなかった。
◇ ◇ ◇
「栞」
気づくと、ひまりがいつの間にか隣に来ていた。
「何」
「今の、見てた」
「……」
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃないかも」
「だよね」
ひまりは小さくため息をついた。
「分かりやすすぎる」
「私が?」
「うん」
「……何が」
「傷ついた顔」
私は何も言えなかった。
傷ついた。
そうなのかもしれない。
でも、何に?
他校の女子が彼に近づいたこと?
連絡先を聞こうとしたこと?
それとも、そんな場面を見て、胸が苦しくなった自分自身に?
「私、別に」
どうにか言葉を探す。
「彼女じゃないし」
「うん」
「だから、ああいうの見ても」
「うん」
「何も言える立場じゃないし」
「うん」
「でも、なんか……」
そこで喉の奥がつまる。
「しんどかった」
ひまりは黙って私の腕を軽く叩いた。
「嫉妬じゃん」
「……」
「立派に」
「……言わないで」
「言うよ。分かりやすすぎるもん」
「……」
「でも、よかったじゃん」
「何が」
「ちゃんと断ってた」
私は少しだけ視線を上げた。
さっきのやり取りが頭の中によみがえる。
あのときの恒星は、驚くほどはっきり線を引いていた。
私に向ける甘さや柔らかさとは全然違う声だった。
それは、どこかほっとする記憶でもあった。
でもその一方で、じゃあ私は何なのだろう、という苦しさも残した。
何でもないはずなのに、何でもないではいられない。
その曖昧さが、今日はひどく胸に刺さる。
◇ ◇ ◇
午後のイベントは、午前より少し落ち着いていた。
でも、私の心の中は全然落ち着いていなかった。
資料を渡しながらも、校内の案内をしながらも、頭の隅ではずっとさっきの光景を反芻してしまう。
華やかな他校の女子。
慣れた感じで話しかける声。
連絡先を聞く流れ。
そして、冷たいくらいきっぱりと断る恒星。
あの瞬間、私は確かにほっとした。
でもそれと同じくらい、言いようのない苦しさがあった。
もし彼があんなふうに誰かと並んでいたら。
もしその相手が、私みたいに地味で、ぎこちなくて、すぐ困るような人じゃなかったら。
もっと自然で、もっと似合って、もっと堂々と隣にいられる人だったら。
そんな想像をしてしまって、自分で嫌になる。
「朝比奈さん」
呼ばれて振り返ると、恒星がいた。
午後の光の中でも、彼はやっぱり目立つ。
でも、今はそのことがいつも以上に苦しかった。
「休憩、少し取れそう?」
「……うん」
「じゃあ、こっち」
彼は校舎の裏手に近い、少し人の少ない通路へ私を連れていった。
イベント中だから完全に二人きりではない。でも、少なくとも人目は減る。
「さっき」
恒星が静かに言う。
「怒ってた?」
「……怒ってない」
「じゃあ」
「……」
「何がつらかった?」
まっすぐすぎる。
でも、だからこそごまかせない。
私は少しだけ俯いて、制服の袖をつまんだ。
「……似合ってたから」
「え」
「……ああいう子と、普通に」
言いながら、自分の言葉に自分で傷つく。
「世界が近い感じがして」
「……」
「見てるの、ちょっとしんどかった」
そこまで言って、私は息を止めた。
こんなの、ほとんど嫉妬の告白みたいなものじゃないか。
でも、もう引っ込められなかった。
恒星はしばらく黙っていた。
私はその沈黙が怖くて、顔を上げられない。
重かっただろうか。
面倒だと思われただろうか。
まだ何の関係でもないくせに、って呆れられただろうか。
でも、次に聞こえた彼の声は、少しだけ震えるくらいやわらかかった。
「……それ、かなりうれしい」
私は思わず顔を上げた。
恒星は、驚いたように、でも抑えきれないみたいに嬉しそうだった。
その顔を見た瞬間、心臓が変な鳴り方をする。
「うれしい、って」
「うん」
「何で」
「栞が、ちゃんとそう思ってくれたから」
「……」
「似合ってたからしんどいって」
彼は少しだけ息を吐く。
「それ、俺のことちゃんと見てくれてるってことだよね」
「……」
「しかも、少しは気にしてくれてる」
“少しは”どころじゃない。
でも、そんなこと言えるわけがない。
私は視線を逸らしながら、小さく言った。
「……嫌でした」
「うん」
「近づいてるの見るの」
「うん」
「でも、そういうの言える立場じゃないって思ったら、余計に嫌で」
「……」
「何か、自分がすごく中途半端で」
「栞」
名前を呼ばれて、私は反射的に彼を見る。
恒星は今まで見た中でもかなり甘い顔をしていた。
それなのに、声は低くて、少しだけ本気で困らせにくる響きがある。
「安心して」
「……」
「俺が見てたのは、最初から君だけだよ」
だめだ。
それはほんとうにだめだ。
私はその場で言葉を失った。
息を吸うのも忘れるくらい、胸の奥が熱くなる。
「……っ」
「それに」
恒星は少しだけ目を細める。
「似合うとか似合わないで言うなら」
「……」
「俺の隣にいてほしいって思うのは、昔からずっと栞だけ」
私は完全に固まった。
甘すぎる。
まっすぐすぎる。
それなのに、冗談にも聞こえない。
どうしたらいいのか分からないまま立ち尽くしていると、恒星が少しだけ身をかがめた。
距離が近くなる。
でも触れない。
その触れなさが、逆に甘い。
「嫉妬してくれるの、すごくうれしい」
低い声で、耳元に近い距離でそう言われて、私は本気で息を止めた。
「……一条くん」
「うん」
「それ、反則です」
「ごめん」
「全然ごめんって思ってない」
「うん、たぶん今かなりうれしい」
「……」
私は顔が熱くて仕方なかった。
でも、その熱の中に、さっきまでの痛さはもうあまり残っていなかった。
代わりにあるのは、恥ずかしいくらいの甘さと、そして少しだけ、安心だった。
◇ ◇ ◇
そのあとのイベントは、不思議なくらいちゃんと動けた。
胸はまだ落ち着かない。
顔だってたぶん赤かった。
でも、もうさっきみたいな苦しさはなかった。
彼が誰を見ているのか。
誰のことを特別に扱っているのか。
それを、ちゃんと言葉で受け取ってしまったからだ。
もちろん、だからといって全部が解決したわけじゃない。
私はまだ彼女じゃないし、正式に何かが決まったわけでもない。
それでも、今日の私は、前より少しだけ自分のいる場所を信じられる気がした。
イベントの片づけが終わって、夕方の校舎が少しずつ静かになっていくころ。
ひまりが私の顔を見るなり、すぐに吹き出した。
「何その顔」
「……何」
「いや、さっきまで死にそうな顔してたのに、今ちょっとだけ幸せそう」
「……」
「何言われた?」
「……言わない」
「えー」
「言わない」
「絶対甘いやつじゃん」
「……」
「栞」
「何」
「今日、嫉妬した?」
私は一瞬黙って、それから小さく言った。
「……した」
「うわ、認めた」
「うるさい」
「でもよかった」
「何が」
「ちゃんと好きな人に嫉妬できるくらい、前に進んでるってこと」
私は何も言い返せなかった。
たしかに、そうなのかもしれない。
前の私なら、こういう気持ちは“みっともない”とか“立場がない”で潰していた。
でも今日は、苦しかったけど、ちゃんとその感情を口にした。
それを彼は喜んだ。
そして安心させてくれた。
そんなことをされたら、もう。
前よりずっと、好きになってしまうに決まっている。
◇ ◇ ◇
帰り道、私は夕暮れの駅前を歩きながら、何度も耳元で言われた言葉を思い出していた。
『嫉妬してくれるの、すごくうれしい』
あんなことを、あんな声で言われて、平気でいられる人なんているんだろうか。
たぶん私は無理だ。
今もまだ思い出すだけで、胸のあたりが熱い。
でも、今日ははっきり分かった。
私はちゃんと嫉妬した。
そして、そのことを隠しきれなかった。
それはきっと、彼のことを“自分には関係ない人”とは思えなくなっている証拠だ。
近づきたい。
でも怖い。
その気持ちは相変わらず消えていない。
ただ、今日そこにもうひとつ、新しい気持ちが増えた。
――取られたくない。
そんなふうに思ってしまった自分に、私は少しだけ笑ってしまう。
「……もうだめかも」
小さくつぶやいて、私は改札へ向かった。
恋のはじまりに、ライバルはちゃんと現れる。
そしてそのおかげで、自分の気持ちの輪郭が少しだけはっきりする。
今日の私は、たぶんその痛みと甘さを両方知ったのだと思う。




