第18話 まだ恋人じゃないのに、近いってどういうことですか
交流イベントの準備が本格的に始まってから、私はひとつだけ、はっきり分かったことがある。
一条恒星は、たぶん、かなり意識的に私の近くを取っている。
最初は気のせいかと思った。
思いたかった。
だって、そうじゃないと説明がつかないことが増えすぎるから。
でも、三日も続けばさすがに気づく。
資料運搬の担当表を見ると、さりげなく私と同じ動線にいる。
受付確認のときも、「朝比奈さん、こっち分かる?」と当然みたいに隣へ呼ぶ。
人が多い場所では、自然に私の歩く側を空ける。
重い段ボールを持とうとすると、いつの間にか隣にいて「それ俺が持つ」と言う。
しかも、それを“特別なこと”として見せないのが、いちばんたちが悪い。
今日も朝からそうだった。
「朝比奈、これ準備室まで運んでくれるか」
先生に言われて、私は小さくうなずいた。
「はい」
机の上には、来客用のパンフレットが入った箱が二つ。
そこそこ重そうではあるけれど、持てないほどじゃない。
私は片方に手をかけた。
その瞬間。
「そっちは俺が持つ」
横から伸びてきた手が、あっさり箱を持ち上げる。
見なくても分かる。
分かりたくないのに分かる。
一条恒星だ。
「……持てます」
私は小さく言う。
「うん、持てるのは知ってる」
「じゃあ」
「でも二つあるなら、分けた方が早いでしょ」
「……」
「ほら、行こう」
まるでそれが当然みたいな顔で言う。
教室のあちこちで、ちらっとこちらを見る気配がする。
それが分かるから余計に困る。
でも、ここで「いいです」と言い張るのも不自然だ。
私は結局もう一つの箱を持って、彼のあとについて歩き出した。
廊下へ出る。
朝の校舎はまだ人の流れがそこそこあって、すれ違うたびに何人かの視線がこちらを向いた。
恒星はそれに慣れているのだろう。
でも、私が慣れる日はたぶん一生来ない。
「……見られてます」
小さく言うと、恒星は前を向いたまま返した。
「うん」
「うん、じゃなくて」
「気になる?」
「気になります」
「そっか」
「そっか、じゃないです」
「でも、今さら完全に避ける方が変だと思う」
「……」
「それに」
彼は少しだけこちらを見た。
「荷物持ってる朝比奈さんを放って歩く方が、俺はいや」
そういうことを、そんな声で言わないでほしい。
私は箱の角を見つめたまま、黙るしかなかった。
だって、それを“いや”と言われると、私の方こそ何も言えなくなるから。
◇ ◇ ◇
準備室へ着いて箱を下ろすと、私はようやく小さく息をついた。
「ありがとう」
恒星が言う。
「……何で一条くんがお礼言うんですか」
「一緒に持ってくれたから」
「先生に言われたので」
「それでも」
そう言って彼はほんの少しだけ笑った。
その笑い方が最近、前よりずっと近く見える。
私は眼鏡の位置を直しながら、小さく視線を逸らした。
「……最近」
「うん」
「自然すぎるんです」
「何が?」
「……そういうの全部」
彼は少しだけ首をかしげる。
「そういうの?」
「荷物持つとか、隣にいるとか」
「……」
「気づかないと思ってるなら、そうでもないです」
そこまで言うと、恒星は一瞬だけ目を見開いた。
それから、少しだけ満足そうに笑った。
「気づいてたんだ」
「……」
「うれしい」
「それ、すぐ言うのやめてください」
「でも、本当にうれしいから」
「……」
「気づかれないようにしてるつもりはないけど、分かってもらえないと少し寂しいし」
「……分かるようにしないでください」
「難しい」
「即答しないでください」
いつものやりとり。
でも今日は、その中に少しだけ別の意味が混ざっている。
彼はたぶん、隠していない。
自分が私の近くにいたいことを。
私を優先してしまうことを。
それを“普通”として扱っている。
それが、ものすごく甘くて、ものすごく困る。
「朝比奈さん」
「……何ですか」
「嫌?」
「……」
「近いの」
その聞き方がずるい。
嫌なら嫌で、きっと彼は引くのだろう。
でも、そこで嫌じゃないと言ったら、今度は私の方が何かを認めることになる。
私は箱の角を指先でなぞるみたいにしながら、小さく言った。
「……嫌じゃ、ないです」
「うん」
「でも」
「うん」
「近いです」
「それは知ってる」
「知っててやってるんですね」
「だって、前より近づいていいって思えたから」
「……」
前より近づいていい。
そんなふうに、さらっと。
でもまっすぐに。
言う。
私はもう返す言葉が見つからなくなって、準備室の窓の外を見るしかなかった。
◇ ◇ ◇
その日の昼休み、ひまりは私が椅子に座るなり、すぐに頬杖をついた。
「で」
「何」
「さっきの」
「何の」
「準備室まで荷物運ぶやつ」
「見てたの?」
「見える位置にいたの」
「……」
「何かもう、普通にペア感出てたけど」
「やめて」
「やめないよ。だって事実だもん」
「……」
「栞」
「何」
「嬉しかった?」
「……」
「はい沈黙」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、ねえ」
「うるさい」
「でもさ」
ひまりは少しだけ真面目な顔になった。
「前の栞なら、“目立つからやめてください”ってもっと強く言ってたと思う」
「……」
「今は、困ってるけど、ちゃんと受け取ってる感じある」
「……そうかも」
「いいじゃん」
「いいのかな」
「いいよ」
「……」
「だって、近づきたいんでしょ?」
そのひと言に、私は少しだけ目を伏せた。
近づきたい。
たぶん、そうだ。
今でも、近づくほど怖い気持ちは消えていない。
でもその一方で、彼が自然に隣を取ってくれることに、少し安心してしまう自分もいる。
それは、もう認めるしかない。
「……うれしいときも、ある」
私は小さく言った。
「うん」
「でも、うれしいって思った瞬間に、“こんなに近くていいのかな”って怖くなる」
「うん」
「まだ恋人でもないのに」
「うん」
「この距離、どういう扱いしたらいいのか分かんない」
ひまりはそこまで聞いて、少しだけ笑った。
「そのままでいいんじゃない?」
「また雑」
「雑じゃないよ。今はまだ“そのまま”の時期なんでしょ」
「……」
「名前つける前の、いちばん甘いとこ」
「ひまり」
「何」
「ほんとに私の人生を少女漫画みたいに言うのやめて」
「でも今かなりそういう感じ」
「……」
否定できないのが嫌だった。
◇ ◇ ◇
午後は交流イベントの最終確認が入っていて、校内の動線を何度か歩いて確認することになった。
私は資料配布の位置確認。
恒星は受付と全体の誘導。
完全に別ではない。むしろ、要所要所でどうしても動線が重なる。
「朝比奈さん、こっち」
廊下の角で呼ばれる。
「……はい」
「来客札の設置、高さこれで見やすい?」
「少しだけ下の方が」
「このくらい?」
「……うん、それなら」
「了解」
会話が短い。
でも、その短いやり取りのたびに、彼は当然みたいに私の方を見る。
その“当然”が、最近の私にはちょっと甘すぎる。
体育館前の通路を確認していたときだった。
別クラスの男子たちが、大きなパネルを抱えて向こうから歩いてきた。
通路はそこまで広くない。
私はとっさに壁際へ寄ろうとした。
その瞬間、恒星の手が私の腕を軽く引いた。
「こっち」
「……っ」
引かれた勢いで、私は彼のすぐ近くに収まる。
壁と彼の間みたいな位置。
近い。
とにかく近い。
大きなパネルが通り過ぎていくあいだ、私は息を止めていた。
制服の袖が触れるか触れないかの距離。
彼の肩越しに見えるパネルの端。
そして、自分の心臓の音。
男子たちが通り過ぎてからも、私はすぐに動けなかった。
「……大丈夫?」
恒星が少し低い声で聞く。
「……近いです」
ようやくそれだけ言うと、彼はほんの少しだけ笑った。
「うん。危ないよりはいい」
「……」
「ぶつかられるよりましでしょ」
「そういう問題じゃないです」
「じゃあ、何の問題?」
「……」
「栞?」
名前で呼ばれる。
こんな近い距離で。
それだけで、余計にだめだ。
「……心臓に悪いです」
気づけば、そう言っていた。
恒星は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ困ったみたいに笑う。
「俺も」
「……え」
「正直、俺もかなり悪い」
「……」
「今、近すぎて」
その返しはだめだ。
ほんとうにだめだ。
私は反射的に一歩下がって、壁際から抜け出した。
抜け出したのに、足元が少しふわふわして、ちゃんと立てている気がしない。
「……一条くん」
「うん」
「そういうの、本当にやめてください」
「どれ」
「今の全部」
「無理かも」
「どうして」
「だって、ほんとだから」
私は顔を覆いたくなった。
でも廊下の真ん中でそれをやる勇気はない。
代わりに眼鏡の位置を直して、視線をそらす。
すると恒星が少しだけ身をかがめるようにして、私の顔を見た。
「でも」
「……」
「近いってちゃんと言ってくれるの、うれしい」
「何でですか」
「前なら黙って逃げてた」
「……」
「今は、困ってても逃げない」
その言葉に、私は少しだけ呼吸を忘れた。
たしかに、そうかもしれない。
前の私なら、こんな距離になった瞬間に、もっと強く拒絶したか、気まずさで完全に固まっていた。
今は、困っている。
すごく困っている。
でも、そこで終わっていない。
近い、とうろたえながらも、その近さをなかったことにはしていない。
それは、きっと少し進んでいるということだ。
◇ ◇ ◇
その日の最後の確認は、中庭側の通路だった。
人の流れを想定して立ち位置をチェックしていると、恒星が何気ない調子で言った。
「明日、本番だね」
「……うん」
「たぶん忙しい」
「そうですね」
「でも、できるだけ栞の近くにいるつもり」
「……」
「困ったらすぐ来て」
「……来るんですか」
「行くよ」
「……」
「絶対」
その断言が、やけに胸に残る。
絶対。
そんな簡単に言える言葉じゃないのに、彼は迷いなく言う。
それがどれだけ心強いか、私が分かってしまっているのが悔しい。
「……一条くん」
「うん」
「そうやって、当然みたいに言うの、ずるいです」
「どうして」
「頼りたくなるので」
言った瞬間、私は自分で固まった。
今のはほとんど、“頼りにしてる”と認めたみたいなものじゃないか。
恒星も少しだけ目を見開いた。
でも次の瞬間、ひどくやわらかく笑う。
「頼って」
「……」
「むしろ、そのために近くにいる」
「……それ、かなり重いです」
「重い?」
「甘すぎるって意味です」
「そっか」
「笑わないでください」
「ごめん。でも、うれしい」
やっぱり、そこへ戻る。
でも、そのたびに私は、前より少しだけその甘さに慣れてきている自分に気づく。
慣れてきている、というより。
受け取ることを、少しずつ覚え始めているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
帰り道、ひとりで駅へ向かいながら、私は何度も今日のことを思い返していた。
まだ恋人じゃない。
それは、たしかだ。
でも、彼はもう隠すつもりもなく私の近くにいる。
私も、困りながら、その近さを拒みきれなくなっている。
人混みで腕を引かれて。
廊下で自然に隣に呼ばれて。
荷物を持たれただけで胸があたたかくなる。
こんなの、どう考えても危ない。
危ないのに、少しだけうれしい。
「……ほんと、どういうこと」
小さくつぶやいて、私は眼鏡の位置を直した。
まだ恋人じゃないのに、近い。
近いのに、ちゃんと気持ちを急かしてはこない。
でも甘い。
その距離感が、ずるいくらい絶妙だ。
きっと、今はいちばん難しい時期なのだろう。
でも同時に、いちばん甘い時期でもあるのかもしれない。
駅のホームに立ちながら、私は思う。
怖い。
でも、もう前みたいに遠くへ戻りたいとは思わない。
近いってどういうことですか、なんて抗議しながら。
たぶん私はもう、その近さを少しずつ好きになっている。




