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憧れの御曹司が、なぜか私にだけ甘すぎる。けれど私はまだ、あの日の男の子だと気づけない  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第17話 “はじまり”の次の日は、距離感がいちばん難しい

 月曜日の朝、私は家を出る前から、すでにだいぶ落ち着かなかった。


 鏡の前でリボンの位置を直して、黒縁眼鏡をかけて、髪の結び目を確認して。

 それを三回くらい繰り返したところで、ようやく母に言われた。


「栞」

「……何」

「今日、鏡に喧嘩売ってるの?」

「売ってない」

「じゃあ和解しなさい。そろそろ遅れるわよ」

「……今行く」


 急かされて玄関へ向かいながら、私は小さく息を吐いた。


 分かっている。

 今日は何も特別な日じゃない。

 学校へ行って、授業を受けて、放課後に少し交流イベントの準備があるだけ。

 それだけだ。


 ……でも、その“それだけ”が、今の私には少しもそれだけじゃない。


 だって、先週の最後に。

 私はたしかに彼の手に触れて、“はじまりなら、いいかも”なんて言ってしまったのだ。


 あれは夢じゃない。

 勢いだけでもない。

 たぶん、あの時の私は本当にそう思った。


 でも、そう思ったことと、その次の日から何事もなかったみたいに平然としていられるかは、まったく別の話だった。


 つまり何が言いたいかというと、今日の私は、ものすごく気まずい。


 彼に会ったら、どういう顔をすればいいんだろう。

 昨日までみたいに、少し困った顔で「おはよう」って言えばいいのか。

 それとも、もっと何か変わるのか。


 変わっていたら困る。

 でも、何も変わっていないのも、たぶん少し寂しい。


「……ほんとに面倒くさい」


 自分で自分にそうつぶやいて、私は靴を履いた。


「何か言った?」

 父が新聞を持ったまま顔を上げる。

「何も」

「最近のおまえ、ひとり言多くないか?」

「お父さんがうるさいから」

「理不尽だな」

「行ってきます」

「おう、いってらっしゃい」

 母がにこっと笑う。

「今日もちゃんと可愛いわよ」

「……朝から変なこと言わないで」

「変じゃないでしょ」

「変です」

「はいはい」


 母の軽口に少しだけ救われながら、私は家を出た。


 春の朝の空気はやわらかいのに、胸の中だけが妙にせわしない。

 駅までの道を歩くあいだ、私は何度も深呼吸した。


 大丈夫。

 答えを出したわけじゃない。

 でも、逃げないって決めた。

 なら、今日の気まずさくらい、なんとかなるはずだ。


 ……たぶん。


   ◇ ◇ ◇


 教室に着くと、ひまりは私の顔を見た瞬間に、ものすごく分かりやすく笑った。


「おはよ」

「……おはよう」

「はい、来ました」

「何が」

「“昨日の自分の発言が今朝になってじわじわ恥ずかしくなってる顔”」

「ひまり」

「図星」

「朝から元気すぎる」

「だって、今日の栞、すごいんだもん」

「何が」

「顔が全部しゃべってる」

「そんなわけない」

「あるよ。めちゃくちゃある」

 ひまりは私の前の席に座って、頬杖をついた。

「で、どうするの」

「何を」

「一条くんと会ったら」

「……普通にする」

「できる?」

「……努力はする」

「できないやつだ」


 その断言が悔しい。

 でも、否定もできない。


 私は鞄から教科書を出すふりをしながら、小さく息をついた。

「だって、しょうがないでしょ」

「うん」

「先週の最後、あんな感じで終わったのに」

「うん」

「今日から急に平然としてたら、それはそれで変じゃない?」

「うん」

「でも、意識しすぎるのも変だし」

「うん」

「どうしたらいいか分かんない」

「うん」

「……その全部に相槌打つのやめて」

「いや、全部その通りだなと思って」

 ひまりはけらけら笑う。

「でもさ、栞」

「何」

「たぶん向こうも同じくらい気まずいと思うよ」

「……」

「そこはちょっと安心していいんじゃない?」

「安心できるかな」

「少なくとも、“自分だけじゃない”って意味では」

 私はその言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


 そうかもしれない。

 あの人だって、きっと平然とはしていない。

 そう思うと、ほんの少しだけ呼吸がしやすい。


 でもその直後、教室の入口の方が少しだけざわついた。


 私の心臓も、あまりにも分かりやすく跳ねる。


 ひまりが「はい来た」と小さくつぶやいたのが聞こえた。


 顔を上げる。


 一条恒星が、そこにいた。


   ◇ ◇ ◇


 最初に思ったのは、変わらない、だった。


 制服も、表情も、立ち方も、いつも通りきれいで整っている。

 学校中の視線を自然に集める、あの人のまま。


 でも、次の瞬間に思った。


 ――いや、ちょっと違う。


 たぶん、変わらないようにしているだけだ。


 入口に立ったまま、彼は一瞬だけ教室の中を見回した。

 その視線が私を見つけた瞬間、ほんの少しだけ止まる。

 それから、ほんとうにわずかに表情がやわらぐ。


 私の胸の奥も、そこで少しだけほどけた。


 彼はいつもみたいにまっすぐ私の席へ来るわけではなく、一度自分の席に鞄を置いてから、自然な歩幅でこちらへ来た。

 その慎重さが、余計に今の状況を意識させる。


「おはよう」

 いつもと同じくらいやわらかい声。


「……おはよう」

 どうにか返せた。

 声は裏返らなかった。たぶん、及第点だ。


 恒星はその返事を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。

「よかった」

「……何が」

「ちゃんと返してくれて」

「……」

「今日、避けられる可能性も考えてたから」

「……避けないです」

「うん」

「たぶん」

「たぶんなんだ」


 そこで、彼が少しだけ笑う。

 私もつられて少しだけ口元がゆるむ。


 でも、その笑いが重なった瞬間、二人とも同時に少しだけ黙ってしまった。

 空気が変わる。

 先週までとは違う、少し甘い沈黙。


 気まずい。

 でも、嫌じゃない。

 むしろ、少しだけくすぐったい。


「栞」

 突然、そう呼ばれて、私は肩を揺らした。

「……っ」

「あ、ごめん」

 恒星も少しだけ目を見開く。

「また」

「……」

「朝比奈さん、って言おうとした」

「……絶対嘘です」

「ばれた?」

「ばれます」

 彼は小さく笑った。

「どうしようかな」

「何が」

「もう、そう呼びたい」

「……」


 朝からそんなことを言わないでほしい。

 心臓に悪すぎる。


 私は眼鏡の位置を直すふりをして、少しだけ顔を逸らした。

「……教室です」

「うん」

「朝です」

「うん」

「みんないます」

「知ってる」


 知ってるならどうしてそんなに平然としているんだろう。

 いや、平然には見えるけれど、たぶん彼も完全に平気なわけじゃない。

 その証拠に、目がいつもより少しだけ甘い。


「じゃあ」

 恒星が少しだけ身を引く。

「続きは放課後?」

「……何の」

「さあ」

「一条くん」

「ごめん」

「全然ごめんって思ってないですよね」

「少しは思ってる」

「少しなんだ」

「でも、うれしい方が大きい」

「……」

「栞がちゃんとここにいるから」


 だめだ。

 朝から、ほんとうにだめだ。


 私はもう返す言葉が見つからなくて、小さく俯くしかなかった。

 でも、その俯いた顔がたぶん真っ赤なんだろうなと、自分でも分かる。


 恒星はそれを追い詰めるようには見なかった。

 少しだけ満足したみたいに、でもやわらかく笑って、自分の席へ戻っていった。


 後ろから、ひまりが机をばんばん叩いている気配がした。


   ◇ ◇ ◇


「……何なの今の」

 一時間目の前、ひまりが早口でささやく。

「知らない」

「知らないじゃないよ!」

「ほんとに知らない」

「名前呼びしかけてたよね!?」

「……」

「しかも“続きは放課後?”って何!?」

「……」

「何なのあの甘さ!? 朝から糖度高すぎでしょ!」

「ひまり」

「何」

「うるさい」

「うるさくもなるよ!」


 私は教科書を開いて顔を隠したくなった。

 でも、ひまりの騒ぎ方が少しだけありがたいのも本当だった。

 私ひとりで抱えていたら、きっと恥ずかしさでどうにかなっていた。


「でも」

 ひまりが少しだけトーンを落とす。

「よかったじゃん」

「……何が」

「ちゃんと、変に壊れてなかった」

「……」

「栞が思ってるより、ちゃんと“はじまり”の続きしてたよ」


 その言葉に、私は少しだけ息をついた。


 たしかにそうだ。

 急に恋人になったわけじゃない。

 でも、先週の最後の時間が、なかったことにはなっていない。

 ちゃんと、続きをしている。


 そのことが、思った以上にうれしかった。


   ◇ ◇ ◇


 授業のあいだも、休み時間も、私たちは前より少しだけ視線を交わすことが増えた。


 教室の中では、話しすぎない。

 近づきすぎない。

 でも、完全に他人みたいにも振る舞わない。


 その距離が絶妙で、逆に意識してしまう。


 ノートを取りながら、ふと顔を上げると、遠くの席から恒星がこちらを見ている。

 目が合う。

 彼はほんの少しだけ笑う。

 私は慌てて目を逸らす。


 それだけなのに、胸の奥があたたかくなる。


 ……重症だと思う。


 昼休み、ひまりとパンを半分こしながら、私はぽつりと言った。


「前より、近い気がする」

「うん」

「でも、付き合ってるわけじゃない」

「うん」

「なのに、空気だけちょっと甘い」

「うん」

「どうしたらいいの」

「どうもしなくていいんじゃない?」

「そんな雑な」

「いや、でも実際そうじゃん」

 ひまりはパンをもぐもぐしながら言う。

「今がいちばんおいしい時期なんだよ」

「何それ」

「付き合う直前の、でも気持ちはちゃんと通ってる、みたいな」

「……」

「少女漫画だったら読者が一番転がるところ」

「ひまり」

「何」

「私の人生をジャンル分けしないで」

「でもしてることはかなりそう」

「……否定できないのが嫌」


 ひまりはけらけら笑っていた。


 でも、笑いながらも彼女の言うことは少しだけ分かる。

 今の私たちは、たぶんまだ恋の途中だ。

 答えは出ていない。

 でも、ただの憧れや思い出だけじゃなくなっている。


 その曖昧さが、苦しい。

 でも、少し甘い。


   ◇ ◇ ◇


 放課後、交流イベントの準備で資料室へ向かうと、恒星はすでにそこにいた。


「お疲れさま」

「……お疲れさまです」

「今日は敬語なんだ」

「一応」

「一応なんだ」


 机の上には、来週使う案内用のバインダーや配布リストが広げられている。

 今日はそれをクラスごとに仕分けする作業らしい。


 私は恒星の向かいに座った。

 座った瞬間、妙に距離が近いことに気づいてしまって、少しだけ落ち着かなくなる。


「朝」

 恒星が資料を揃えながら言う。

「ちょっと緊張した」

「……朝から、ですか」

「うん」

「どうして」

「先週の続きがどうなるか分からなかったから」

「……」

「栞が、また一歩引くかもしれないとも思った」

「……」

「でも、ちゃんと目を見ておはようって言ってくれたから、かなり安心した」


 私は手元のリストを見つめるふりをした。

 そうしないと、たぶん顔がもたない。


「……私も」

「うん?」

「ちょっと、緊張してました」

「ちょっと?」

「……かなり」

「そっか」


 その“そっか”のあと、彼はほんの少しだけ微笑んだ。

 それが嬉しそうで、私も少しだけ肩の力が抜ける。


「でも」

 私は小さく続けた。

「何も変わってなかったら、それはそれで少しさみしかったかも」

 言った瞬間、しまった、と思った。

 こんなの、かなり甘いことを言っている。


 でも恒星は、驚いたように一瞬だけ目を見開いてから、ゆっくり笑った。


「それ、朝よりずっと甘い」

「……」

「今日の栞、少し無防備かも」

「違います」

「違わないよ」

「……」

「かわいい」


 私は持っていたペンを危うく落としかけた。


「……っ、一条くん」

「うん」

「作業してください」

「してるよ」

「口の方が動いてます」

「それは否定できない」

「否定してください」

「無理」


 だめだ。

 放課後のこの人は、やっぱり少し甘い。

 しかも今日は先週の続きがあるせいで、私の方も前より少しだけ心の扉が開いてしまっている。


 その組み合わせは、かなり危険だった。


 作業そのものは単純だった。

 でも、並んだバインダーの色を確認しながら、たまに手が触れそうになったり、同じ紙に伸ばした指が近づいたりするたびに、胸の中がいちいち騒ぐ。


 一度、同じプリントを同時に取ろうとして、指先が触れた。


「……っ」

 私は反射的に手を引く。


 恒星は少しだけ目を細めた。

「逃げた」

「逃げてません」

「逃げたよ」

「……びっくりしただけです」

「俺もびっくりした」

「……」

「でも、嬉しかった」

「毎回それ言いますよね」

「だって本当だから」

「……」

「手、あったかいね」

「……!」


 もう本当に、どうしたらいいんだろう。

 私はペンを握りしめたまま、しばらく何も言えなかった。


 資料をまとめ終えたころには、外の空はすっかり夕方の色に変わっていた。


「終わった」

 恒星が最後のファイルを閉じる。

「……終わりましたね」

「うん」

「……」

「……」


 作業が終わると、少しだけ沈黙が落ちる。

 でもその沈黙は、前より気まずくなかった。


 なんとなく、そのまま帰るのが惜しい気がしてしまう。

 たぶん、彼も同じなのだろう。

 すぐに立ち上がらない。


「ねえ」

 恒星が小さく言う。

「何ですか」

「今日の朝、夢じゃなかったよね」

「……え」

「おはようって返してくれたとき」

「……」

「ちゃんと続きなんだって思えて、ちょっとほっとした」


 私は息を止めた。


 それ、私も思った。

 でも、自分だけじゃなかったんだ。


「……夢じゃないです」

 小さく返すと、恒星はやわらかく笑った。

「よかった」

「……」

「じゃあ、放課後も夢じゃない」

「……そうですね」

「手、触れたのも」

「……」

「栞?」

「一条くん」

「うん」

「そういう確認、いちいちしないでください」

「だってうれしいから」

「……」

「本当に始まったんだなって思うと」

 その言葉に、私はもう返せなくなった。


 本当に始まった。

 恋の答えにはまだ早い。

 でも、“はじまり”だけは、もう確かにそこにある。


 私は少しだけ俯いて、それから、小さく言った。


「……私も、ちょっとだけ」

「うん?」

「そう思ってます」


 恒星の呼吸が、ほんの少し止まった気がした。

 次の瞬間、彼は今までよりずっと甘い目で私を見た。


「それ、かなりうれしい」

「……知ってます」

「どうして」

「その顔、今日何回も見たので」

「見てるね」

「……見るって決めたので」

「うれしい」


 もうだめだ。

 結局またそこへ戻る。

 でも、前みたいに“困るだけ”では終わらない。


 困る。

 恥ずかしい。

 でも、ちゃんと胸があたたかい。


   ◇ ◇ ◇


 帰り道、ひとりで駅へ向かいながら、私は何度も今日のことを思い出していた。


 付き合っているわけじゃない。

 でも、先週までとも明らかに違う。

 空気が少し甘くて、視線が少し近くて、言葉の端々に「うれしい」が混ざる。


 それは、恋人未満の、いちばん難しい距離なのかもしれない。


 でも今の私は、その難しさを前ほど嫌いじゃなかった。

 むしろ、少しだけ愛おしいとすら思ってしまう。


 はじまりの次の日は、距離感がいちばん難しい。

 でも、難しいまま少しずつ近づいていくのも、きっと悪くない。


 そう思いながら、私は改札を抜けた。


 春の夕方の風はやわらかくて、胸の中も少しだけやわらかかった。

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