第16話 はじまりの約束は、恋の答えにはまだ早い
その夜、私は自分でも信じられないくらい静かだった。
静か、というより、何も考えられない時間と、考えすぎてどうにかなりそうな時間が交互に来る、妙な状態だった。
ベッドに座って、制服から部屋着に着替えて、髪をほどいて。
いつもなら何となくスマホを見たり、本を開いたりするのに、今日はそのどれも手につかなかった。
頭の中に残っているのは、昼休みの廊下で言われた言葉ばかりだ。
『昔の続きだからじゃなくて』
『今、ちゃんと好きになってほしい』
何度思い出しても、心臓が変な音を立てる。
恥ずかしい。甘すぎる。反則だ。
でもそれ以上に、うれしかった。
昔の思い出を大切にしてくれていたことももちろんうれしい。
でも、今の私を見て、今の私に求めてくれていることが、どうしようもなく胸に響いていた。
それは、きっと、私がいちばん欲しかった言葉に近かったからだ。
自分ではずっと、“昔のつながりがあるから優しいのかもしれない”と思っていた。
そう考えれば少しは楽だった。
でも本当は、そうじゃない可能性の方が、ずっと怖くて、ずっと見ないふりをしていただけだった。
そして今日、その逃げ道はほとんどなくなった。
彼はちゃんと言ったのだ。
昔だけじゃない、と。
今の私を、今の私として好きになってほしい、と。
「……もう、無理じゃん」
ぽつりとこぼして、私は顔を両手で覆った。
無理、というのは嫌だという意味ではない。
もう、前みたいに“私なんて”で全部を閉じてしまうことはできない、という意味だ。
それでも、だからって、すぐに綺麗な恋の答えを出せるわけではなかった。
だって私はまだ、自分がこんなふうに大事に扱われることに慣れていない。
嬉しいと同じくらい、怖い。
手を伸ばしたいのに、なくしたときのことを考えてしまう。
近づきたいのに、近づくほど自分の弱さが見える。
でも。
それでも。
私はもう、彼を失いたくないと思ってしまっている。
そこまで考えたところで、スマホが小さく震えた。
ひまりからだった。
『生きてる?』
私は思わず少しだけ笑ってしまう。
『たぶん』
『たぶんって何』
『心臓がまだうるさい』
『はい恋する女子高生』
『やめて』
『でも否定できないでしょ』
『……できない』
送ったあと、自分でちょっとだけ顔が熱くなる。
こういうことを文字にするのも、まだ慣れない。
すぐに返信が来た。
『よし』
『よし、じゃない』
『でもさ』
『何』
『答え急がなくていいんだから、明日はちゃんと会って話せば?』
『話すって何を』
『少なくとも、逃げないってことを』
『……』
『あんた、そこが一番大事なんだよ』
私は画面を見つめたまま、少しだけ息を吐いた。
たしかにそうかもしれない。
好きです、付き合ってください、みたいな分かりやすい答えを今すぐ返せなくても。
でも、逃げないことならできるかもしれない。
彼の気持ちをなかったことにしない。
自分の気持ちも、ごまかしきらない。
そのうえで、ちゃんと向き合う。
それは、たぶん今の私にできる精一杯だ。
『……明日、ちゃんと会う』
そう送ると、ひまりからはすぐに
『えらい』
『あと可愛い』
『うるさい』
と返ってきた。
私はスマホを枕元に置いて、天井を見上げた。
明日、ちゃんと会う。
そう決めただけなのに、また心臓が少しだけ速くなる。
でも、今日はその速さが、前より少しだけ怖くなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、私はいつもより少しだけ早く家を出た。
早く出たのは逃げるためじゃない。
会いたかったからでも、たぶん、ある。
そのどちらも混ざっているのが、今の私らしいと思う。
駅までの道には、春の朝のやわらかい光が落ちていた。
昨夜の雨が少しだけ残した湿り気が、空気の中にかすかに混じっている。
私は黒縁眼鏡の位置を直しながら、小さく深呼吸した。
大丈夫。
答えを出す必要はない。
でも、逃げない。
それだけは、ちゃんと。
学校に着くと、教室へ入る前に一度だけ廊下の窓に映る自分を見た。
やっぱり、いつも通りの地味な私だ。
でも、少しだけ表情が違う気がした。
怖いままでいる顔じゃなくて。
少しだけ覚悟を決めた顔。
……自分で言うのも変だけど。
「おはよ」
教室に入るなり、ひまりが声をかけてきた。
そして私の顔を見るなり、口元をにやっとさせる。
「何その顔」
「何」
「今日は逃げない日の顔」
「……」
「図星なんだ」
「……うるさい」
「でもいい顔だよ」
「朝から恥ずかしいこと言わないで」
「今日の栞にはこれくらい言っとかないと」
ひまりはそう言って、自分の席へ戻っていく。
私は小さく息を吐いて、席に着いた。
でも、視線は無意識に教室の入口へ向いてしまう。
来るだろうか。
来たら、どうする。
どういう顔をすればいい。
どういう声で話せばいい。
そんなことを考えているうちに、教室の前が少しざわついた。
心臓が跳ねる。
一条恒星が、そこにいた。
いつも通り整っていて、いつも通り目立つ。
でも今日は、彼の顔を見た瞬間に、まずほっとしてしまった。
会えた。
ちゃんと会えた。
それだけで、胸の奥が少しあたたかくなる。
彼も私に気づいて、少しだけ目を見開いた。
それから、静かに笑う。
「おはよう」
「……おはよう」
昨日までより、少しだけ自然に返せたと思う。
少なくとも、声は震えなかった。
彼は教室の中まで来ることはしなかった。
でも、視線で少しだけ「あとで」と伝えるみたいに、ほんの少し首を傾けた。
私は、小さくうなずいた。
たったそれだけのやり取りなのに、ひまりが後ろで机をばんばん叩いている気配がした。
振り向かないけれど、絶対変な顔をしている。
◇ ◇ ◇
その日の授業は、珍しく少しだけちゃんと頭に入った。
もちろん、完全に落ち着いていたわけじゃない。
休み時間になるたびに、昼休みが近づいてくることを意識したし、彼もどこかで私の方を見ている気がして、落ち着かないことには変わりなかった。
でも、それでも前みたいに全部から逃げたくなる感じではなかった。
たぶん、私は昨日の夜のうちに少しだけ決めていたのだ。
完璧な答えはまだ出せない。
でも、彼にちゃんと会って、自分の気持ちのところまでは正直でいよう、と。
そして昼休み。
私は席を立つ前に、ひまりに小さく言った。
「行ってくる」
「うん」
ひまりはすごくやさしい顔で頷いた。
「いってらっしゃい、栞」
その言い方が、妙にあたたかくて、私は少しだけ笑ってしまった。
教室の外へ出ると、恒星はもう窓際で待っていた。
待っていた、という言い方がしっくりくるくらい、自然にそこにいた。
「来てくれてありがとう」
「……逃げないって、決めたので」
「……」
「だから、来ました」
言い切った瞬間、彼の目がほんの少しだけやわらかくなる。
「うれしい」
「……毎回それ言いますね」
「本当だから」
「今日は許します」
「今日は?」
「……少しだけ、私もそうなので」
そこまで言って、私は耳まで熱くなるのを感じた。
何でこんなことまで言ってるんだろう。
でも、恒星は笑わなかった。
むしろ少しだけ息を止めたみたいに見えた。
「朝比奈さん」
「うん」
「それ、かなり甘い」
「一条くんにだけは言われたくないです」
彼が少しだけ笑う。
その笑い方に、私も少しだけ救われる。
「昨日のこと」
恒星が静かに言った。
「急がせたなら、ごめん」
「……」
「でも、言わなきゃ後悔すると思った」
「……うん」
「今も、それは変わってない」
私は彼の目を見た。
逃げないと決めたから。
その目は、やっぱりまっすぐだった。
でも、前より少しだけ待ってくれている感じがある。
私がちゃんと立てる場所を残しながら、それでも気持ちは隠さない目。
ずるい。
でも、それがうれしい。
「……私」
私はゆっくりと言葉を探した。
「一条くんのこと、昔の男の子だって思い出して」
「うん」
「それで、すごくうれしかった」
「……」
「でも、それ以上に」
胸の奥が熱くなる。
「今の一条くんが、今の私を好きだって言ってくれたことの方が、たぶん、もっと……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
もっと、何なのか。
うれしい。怖い。大事。全部混ざっている。
でも、恒星は急かさなかった。
ただ静かに待っていてくれる。
「もっと、心に残ってる」
やっとそう言うと、彼はほんの少しだけ目を伏せた。
安堵したみたいに。
「そっか」
「うん」
「それだけで、十分うれしい」
「……一条くん、すぐ十分って言う」
「でも本当だから」
私は少しだけ困ったように笑ってしまった。
「でも」
私は続ける。
「まだ、好きですって、きれいに言えるほど整理できてない」
「うん」
「怖いのもあるし」
「うん」
「私なんて、って思う癖もまだある」
「知ってる」
「……」
「でも、それでも、前よりずっと近づきたいと思ってる」
言い切った瞬間、胸がどくどくと鳴る。
これはほとんど告白みたいなものじゃないかと思った。
でも、完全な答えではない。
今の私に言える、本当にぎりぎりの本音だった。
恒星はしばらく黙っていた。
その沈黙が長く感じられて、私は少しだけ不安になる。
重かっただろうか。
中途半端だっただろうか。
困らせただろうか。
でも、彼が次に見せた表情を見た瞬間、その不安は少しだけほどけた。
うれしそうだった。
心の底から。
でも、それだけじゃなくて、少しだけ切なそうでもあった。
「……ありがとう」
彼がやっと言う。
「そうやって言ってくれるの、すごくうれしい」
「……」
「昔を思い出してくれたことも」
「うん」
「今の俺を見てくれてることも」
「……」
「でも」
彼は少しだけ困ったように笑った。
「今ここで、はい付き合います、って言わせたいわけじゃない」
「……」
「それは、朝比奈さんが自分で決めてくれないと意味ないから」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
この人は、時々本当にずるいくらい甘いのに、私の答えを勝手に奪うようなことはしない。
そこが、たまらなく好きになってしまいそうで困る。
「だから」
恒星は静かに手を差し出した。
「栞」
その呼び方に、私は少しだけ息を止める。
「今度は、ちゃんと俺を知って」
「……」
「昔の続きじゃなくて」
「……うん」
「今の俺として」
差し出された手を見る。
きれいな手だと思った。
でもそれ以上に、昔どこかで見た気がした。
泣きそうな顔で、でも私の方へ伸ばされていた小さな手。
今は大きくなって、でもやっぱりまっすぐに、私を待っている。
私は少しだけ迷った。
迷って、それでも、ゆっくり手を伸ばした。
触れた指先は、思ったよりあたたかかった。
握る、というほど強くはない。
ただ、そっと触れるくらい。
でも、その触れ方が今の私にはちょうどよかった。
恒星が少しだけ目を細める。
その顔が、ひどくうれしそうで、やさしくて、甘くて、私はまともに見ていられなくなる。
「……これ」
私は小さく言った。
「答えじゃないです」
「うん」
「まだ、ちゃんと恋の答えにはできない」
「うん」
「でも」
彼の手に触れたまま、私は言った。
「はじまりなら、いいかも」
その言葉に、恒星がほんの少し息を呑んだ。
それから、今まで見た中でいちばんやわらかく笑った。
「……うん」
「……」
「それ、すごくうれしい」
「やっぱり言う」
「言うよ」
私は少しだけ笑う。
彼も笑う。
たぶん、これが恋の答えではない。
まだ私は、自分の気持ちにちゃんと名前をつけきれていない。
好き、と言い切るには、まだ怖さも迷いも多い。
でも、昔の約束と今の想いが重なって、ここから始まっていくのだということだけは分かった。
はじまりの約束は、恋の答えにはまだ早い。
けれど、それでいい。
だって恋は、たぶんこういうふうに始まるのだ。
少しずつ、じれったく、でも確かに。
◇ ◇ ◇
教室へ戻ったあと、ひまりは私の顔を見て、何かを悟った顔で口元を押さえた。
「……何」
「いや」
「何」
「まだ付き合ってない?」
「うん」
「でも完全に何かあった」
「……うん」
「で、栞」
「何」
「その顔、めちゃくちゃ可愛い」
「やめて」
「無理。だって、今のあんた、ちゃんと恋が始まった顔してる」
「……」
「否定しないんだ」
「……できない」
「よし」
何が“よし”なのか分からないけれど、ひまりがうれしそうなので、まあいいことにした。
私は席に着いて、窓の外を見た。
春の光はやわらかくて、風も穏やかだった。
恋の答えには、まだ早い。
でも、はじまりには、たぶんちょうどいい。
そう思ったら、胸の奥が少しだけくすぐったくて、でも前よりずっとあたたかかった。




