第15話 思い出したくなかったんじゃない。失いたくなかっただけだ
その夜、私は布団に入ってからも、なかなか眠れなかった。
目を閉じるたびに、今日の放課後の準備室が浮かぶ。
『好きな子が、目の前でそんな顔してたら』
『だから、たまには素直に受け取って』
あまりにもだめだった。
何がだめって、言葉の甘さもそうだけど、それを言うときの一条くんの顔が、私が想像していたよりずっと真剣だったことだ。
からかいじゃなかった。
勢いでもなかった。
ちゃんと分かっていて、ちゃんと私に向けて言っていた。
そんなの、もう。
「……眠れるわけない」
私は布団を鼻先まで引き上げた。
部屋は暗いのに、頭の中だけが妙に明るい。
考えたくないのに考えてしまう。
嬉しいのに、恥ずかしくて、どうしようもなく落ち着かない。
でも今日、もうひとつ強く残っているものがあった。
噴水。
白い石の縁。
濡れた手の感触。
泣きそうな男の子。
そして、彼が言った「ちゃんと覚えてる」という言葉。
私は布団の中でゆっくりと目を閉じた。
ずっと、“思い出せない”と思っていた。
でも本当は、思い出しかけるたびに自分で蓋をしていただけなのかもしれない。
思い出してしまったら、いろんなことがつながってしまうから。
彼の優しさも。
彼のまっすぐさも。
昔から今まで続いていたものかもしれないと、認めなければいけなくなるから。
それが怖かった。
でも、怖いだけじゃない。
胸の奥のもっと静かな場所で、私はもう知っていたのだと思う。
あの男の子が誰なのかを。
ただ、名前をつける勇気がなかっただけで。
◇ ◇ ◇
翌朝、私は少しだけ寝不足のまま学校へ向かった。
春の朝の空気はやわらかいのに、私の頭の中は昨夜からずっと忙しいままだ。
駅までの道を歩きながらも、ぼんやりと過去の断片が浮かんでは消えていく。
小さな手。
高い塀。
庭の白いベンチ。
お菓子の皿。
泣きそうな声で呼ばれる、自分の名前。
今までなら、その断片が出てくるたびに私は考えるのをやめていた。
でも今日は、少しだけ違った。
逃げないで見よう、と思った。
ちゃんと見よう、と彼にも言ったのだから。
その代わり、胸はずっと落ち着かない。
何かがもうすぐつながってしまいそうで、でもつながった瞬間に戻れなくなる気もしていた。
教室へ着くと、ひまりがすぐに私の顔を見て目を丸くした。
「おはよ……って、え、何その顔」
「……何」
「泣いた?」
「泣いてない」
「じゃあ寝不足」
「……たぶん」
「たぶん、じゃないね」
ひまりは私の前の席に座って、じっと顔をのぞき込んでくる。
「何かあった?」
「……」
「栞」
「……ちょっと、思い出しそう」
「何を?」
「昔のこと」
ひまりの目が少しだけ真面目になる。
「一条くん?」
「……うん」
そこまで言った瞬間、喉の奥が少しつまる。
今まで何度も“そうかもしれない”と思ってきた。
でも、こうして口にすると急に現実味が増す。
「なんかね」
私は小さく言った。
「噴水とか、ベンチとか、そういうのが少しずつ」
「うん」
「でも、顔がはっきり出ないままだったのに」
「うん」
「昨日から、変に近くて」
「……」
「もう、たぶん分かってるんだと思う」
ひまりは黙って聞いてくれた。
その沈黙がありがたかった。
「でもさ」
彼女は少しだけやわらかく言う。
「分かるのが怖いの?」
「……怖い」
「どうして」
「分かったら」
私は机の木目を見つめたまま答える。
「全部ほんとだったんだって、認めなきゃいけないから」
「……」
「昔から覚えててくれたことも」
「うん」
「今の優しさにもちゃんと理由があることも」
「うん」
「そうしたら、もう“私なんて”で逃げられない」
ひまりは少しのあいだ何も言わなかった。
それから、ため息をつくみたいに笑う。
「うん、でも」
「何」
「もう逃げきれないとこまで来てるよね」
「……」
「それにさ」
ひまりは少しだけ目を細めた。
「栞、ほんとは思い出したいんでしょ」
「……」
「思い出したくなかったんじゃなくて、思い出したあとに失うのが怖かっただけじゃない?」
その言葉が、胸の真ん中にすとんと落ちた。
思い出したくなかったんじゃない。
失うのが怖かっただけ。
私はその場でしばらく動けなくなった。
そうだ。
たぶん、それだ。
私は昔の記憶そのものを拒んでいたわけじゃない。
むしろ、どこかではずっと大事なものだと知っていた。
でも思い出してしまったら、今の彼とのつながりにも名前がついてしまう。
そうしたら、もしそれが壊れたとき、自分がどれだけ痛いのかを考えてしまって、怖くて触れなかったのだ。
「……ひまり」
「何」
「今すごく嫌なこと言われた気がする」
「核心ってだいたいそういうものだよ」
「優しくない」
「優しいよ。今日はかなり」
ひまりはそう言って、少しだけ笑った。
「だって、栞。ほんとに嫌なら、ここまで揺れてないもん」
◇ ◇ ◇
その日の午前中、私はずっと心がそわそわしていた。
授業は聞いている。ノートも取っている。
でも頭の奥では、ずっと同じことを考えている。
思い出したくなかったんじゃない。
失いたくなかっただけ。
その言葉は、思った以上に私の中に残った。
そして、その言葉が正しいのだと、自分でも分かってしまった。
四時間目が終わって、昼休みになる。
教室の空気が緩み、あちこちで椅子の音がする。
私はお弁当を取り出しながら、なんとなく入口の方を見てしまった。
そこに恒星が立っていた。
目が合う。
ほんの一瞬だけ、彼の表情がやわらかくなる。
最近、その変化が前よりずっと分かるようになってしまった。
嬉しそうになるとき。
少しだけ緊張しているとき。
迷っているとき。
彼は教室の中へは入ってこなかった。
代わりに、視線だけで「少しいい?」と聞くみたいに、静かに首を傾ける。
私は少し迷って、それから立ち上がった。
ひまりが一瞬だけ私を見たけれど、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
行ってこい、という意味なのかもしれない。
廊下へ出ると、恒星はいつもの窓際の方へ少しだけ移動した。
私もそのあとを追う。
「お弁当、これからだった?」
「……うん」
「ごめん、少しだけ」
「……大丈夫です」
そう返した自分の声が、いつもより少し素直に聞こえた。
彼もそれに気づいたのか、ほんの少しだけ目を細める。
「何かあった?」
「……どうしてですか」
「今日、朝比奈さんがいつもより静か」
「それはいつも」
「そういう静かじゃなくて」
恒星は少しだけ迷うみたいに言葉を選ぶ。
「考えてる顔」
その言い方が、あまりにもその通りで、私は苦笑するしかなかった。
「……考えてる」
「うん」
「たぶん、かなり」
「何を?」
私はすぐには答えられなかった。
言ってしまえば、もう後戻りができない気がしたから。
でも、ここまで来てまた逃げるのも違う気がした。
「……昔のこと」
小さく言うと、恒星の表情がわずかに変わった。
期待と緊張が同時に浮かんだみたいな顔だった。
「……そっか」
「うん」
「思い出せそう?」
「まだ、ちゃんとは」
「うん」
「でも」
私は自分の手元を見た。
「たぶん、もう分かってるんだと思う」
その瞬間、彼の呼吸がほんの少し浅くなる。
見ていないふりをしても分かるくらいには。
私は小さく息を吸った。
「噴水とか」
「……うん」
「白いベンチとか」
「うん」
「泣きそうな顔とか」
言いながら、自分の胸の奥が熱くなっていく。
「私、もう、たぶん」
彼の顔を見る。
ちゃんと見ようと思ったから。
「一条くんなんだって、分かってる」
言い切ったあと、廊下の空気が少しだけ変わった気がした。
恒星はしばらく何も言わなかった。
ただ、私を見ていた。
その目があまりにもやわらかくて、私は先に逸らしたくなる。
「……遅いよ」
やっと出たその言葉は、責めるよりずっと甘かった。
私は少しだけ困ったように笑った。
「……ごめん」
「そこは謝るんだ」
「だって」
「うん」
「たぶん、気づいてたのに」
「……」
「私の方が、認めたくなかったんだと思う」
そこまで言って、胸が少しだけ痛くなる。
「思い出したくなかったんじゃなくて」
「……」
「思い出したあとに、なくなったら嫌だったから」
恒星の目が、ほんの少しだけ揺れた。
私はそこで、ああ、ちゃんと届いてしまったんだと思った。
今の言葉は、たぶんかなり本音だったから。
「朝比奈さん」
「うん」
「それ」
「……」
「かなり、ずるい」
「え」
「そんなこと言われたら、嬉しいに決まってる」
私は思わず顔が熱くなるのを感じた。
だってそれは、ほとんど。
ほとんど、私が失いたくないと思うくらい大事に思っていた、と認めたみたいなものじゃないか。
でも、もう引っ込める気にはなれなかった。
恒星は少しだけ息を吐いて、ほんとうに安堵したみたいに笑った。
「……思い出してくれて、うれしい」
「まだ全部じゃない」
「うん」
「ほんとに断片だけ」
「それでも」
「……」
「それでも、俺には十分」
また、その言い方。
でも今日は、前よりもっと甘く聞こえた。
私は少しだけ視線を下げて、唇を噛みそうになるのをこらえた。
「……でも」
恒星が静かに続ける。
「俺が欲しかったのは、それだけじゃない」
「……」
「昔の君を思い出してくれるのも、もちろんうれしい」
「……うん」
「でも、今の君に、今の俺を見てほしい」
その声はやわらかいのに、まっすぐだった。
「昔の続きだからじゃなくて」
「……」
「今、ちゃんと好きになってほしい」
心臓が、どくん、と大きく鳴った。
そこまで言うんだ。
そんなふうに、ちゃんと。
私はもう、まともに顔を上げられなくなってしまう。
でも、嬉しい。
嬉しいのに、それ以上に胸がいっぱいになって、何を返したらいいのか分からない。
「……一条くん」
「うん」
「それ、かなり」
「うん」
「ずるいです」
「また?」
「だって」
私はとうとう小さく笑ってしまった。
「そんなふうに言われたら、こっちばっかり恥ずかしい」
恒星も少しだけ笑う。
その笑い方が、前よりずっとやわらかくて、甘い。
「俺だって恥ずかしいよ」
「嘘です」
「本当」
「全然そんなふうに見えない」
「見えないようにしてる」
「……」
「でも、かなり心臓うるさい」
私は思わず顔を上げた。
その目が、ちゃんと私だけを見ていて、またすぐに目を逸らしたくなる。
でも今日は、少しだけ踏みとどまれた。
◇ ◇ ◇
昼休みの終わりが近づいて、教室からざわざわした音が流れてくる。
戻らないといけない。
分かっているのに、この廊下の時間が終わってしまうのが少し惜しいと思ってしまった。
「……一条くん」
「うん」
「私、まだ」
「うん」
「そんなにすぐ、上手に気持ちを返せないと思う」
「知ってる」
「……」
「でも、知ってるうえで言ってる」
「……」
「だから、急がなくていい」
急がなくていい。
そのひと言に、私は少しだけ肩の力が抜けた。
この人は時々、心臓に悪いくらいまっすぐなのに、逃げ道をなくすほどは追い詰めない。
そこがずるくて、でもたぶん、好きになってしまうところなのだろう。
「……ありがとう」
小さく言うと、恒星は笑った。
「どういたしまして」
「でも」
「うん」
「急がなくていいって言われると、それはそれで意識します」
「知ってる」
「……」
「だから、俺も我慢してる」
「何を」
「抱きしめたいのとか」
「……!」
私は本気で言葉を失った。
何を言っているんだこの人は。
こんな昼休みの廊下で、そんな顔で、そんなことを。
「……っ、一条くん」
「ごめん」
「ごめんじゃないです」
「うん」
「急にそれは反則です」
「ちょっと本音が漏れた」
「漏らさないでください!」
もうだめだ。
顔が熱いどころじゃない。
耳まで、首まで全部熱い。
でも恒星は、そんな私を見てほんの少しだけ満足そうに笑った。
その笑い方が甘くて、私はますます悔しくなる。
「……戻ります」
「うん」
「今すぐ」
「分かった」
「ついてこないでください」
「教室別だから大丈夫」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、放課後は?」
「……知りません」
「そっか」
「その顔やめてください」
「どの顔?」
「嬉しそうな顔」
「だって、前よりずっと期待していい顔してるから」
そんなことを言われたら、もうほんとうに何も返せない。
私は半分逃げるみたいに教室へ戻った。
◇ ◇ ◇
席に着くと、ひまりが私の顔を見て、盛大に目を丸くした。
「何その顔」
「……何」
「いやいやいや」
「何」
「思い出した?」
「……」
「思い出したんだ」
「……少し」
「少し、の顔じゃないけど!?」
「うるさい」
「え、待って、何があったの」
「……」
「栞」
「……あの子だった」
そこまで言うと、ひまりの口がきれいに開いた。
「やっぱり!」
「声大きい」
「ごめん、でもそれは上がる」
「……」
「で?」
「で、って」
「そこで終わるわけないでしょ、その顔」
私はしばらく黙っていたけれど、結局、小さく言った。
「……昔のこと思い出してくれたのはうれしいけど、欲しいのはそれだけじゃないって」
「うわ」
「あと、今の私に、今の俺をちゃんと好きになってほしいって」
「うわぁ」
「やめて」
「いや、それはやばいって」
「分かってる」
「で、栞は?」
「……」
「栞?」
「……心臓がずっと壊れてる」
ひまりは数秒黙って、それから机に突っ伏した。
「ごめん、今のめちゃくちゃ可愛かった」
「何で」
「もう完全に恋してる人の台詞だから」
「……」
否定できなかった。
否定したくても、たぶんもう無理だった。
◇ ◇ ◇
放課後、ひとりで駅へ向かいながら、私は何度も今日のことを思い返していた。
思い出したくなかったんじゃない。
失いたくなかっただけだ。
それは本当にその通りだった。
私は、あの男の子との記憶を嫌っていたわけじゃない。
むしろ、たぶんどこかでずっと大事だった。
だからこそ、今とつながってしまうのが怖かった。
でも今日、その怖さごと認めてしまった。
そして彼は、それを嬉しいと言った。
そんなの、ずるい。
ずるいけど、嬉しい。
夕方の風は少しだけやわらかくて、春の匂いがした。
私は黒縁眼鏡の位置を直しながら、小さく息を吐く。
昔の約束は、たしかにそこにあった。
でも彼が欲しいのは、それだけじゃない。
今の私に、今の彼を好きになってほしい。
その言葉は、胸のいちばん奥に残っている。
「……そんなの、もう」
困る。
でも、嫌じゃない。
むしろたぶん、かなりうれしい。
私は駅の改札を抜けながら、少しだけ頬が熱いのを自覚していた。
昔の記憶を取り戻したことより、今の彼にまっすぐ求められたことの方が、私をずっと揺らしている。
それがもう、答えに近いのかもしれない。




