第14話 私なんて、の中に閉じこもっていたのは私だった
雨が上がった翌日の朝は、空気が少しだけ澄んでいた。
窓を開けると、夜のあいだに洗われたみたいな風が部屋に入ってくる。春の匂いの中に、まだ少し湿った土の気配が混じっていた。
私は制服のリボンを結びながら、鏡の前でぼんやり自分を見た。
黒縁眼鏡。
まとめた髪。
見慣れた、目立たない私。
でも、昨日のことを思い出すと、その“見慣れた私”の輪郭が少しだけ変わって見える。
眼鏡を落として、顔を見られて。
咄嗟に隠そうとして。
それでも彼は、驚きもしないで、ただ当たり前みたいに「ちゃんと覚えてる」と言った。
その言葉が、昨夜からずっと胸に残っていた。
知っていたのだ。
彼は、私が隠していたつもりのものを。
今だけじゃなく、昔から。
そして私は、そのことが怖いのに、思ったほど嫌じゃなかった。
そこが、いちばん厄介だった。
「栞ー、朝ごはん冷めるわよ」
母の声に、私は「今行く」と返事をした。
階段を下りながら、胸の奥が少しそわつく。
今日、学校へ行ったら、また一条くんに会う。
昨日の続きみたいな顔をされるんだろうか。
それとも、何もなかったみたいに自然に「おはよう」と言うんだろうか。
どっちにしても、私はきっと落ち着かない。
もう最近そればかりだ。
会う前から心臓が忙しいなんて、どう考えてもよくない。
「おはよう」
食卓につくと、母が笑って言った。
「おはよう」
父は新聞をめくりながら、ちらりと私を見た。
「今日はちょっと顔やわらかいな」
「……そう?」
「昨日までよりは」
「お父さん、最近ほんとに人の顔ばっかり見てるよね」
「父親だからな」
「雑な理由」
でも、父の言葉に私は少しだけ引っかかった。
昨日までより、やわらかい。
そう見えるなら、たぶん少しは本当なんだろう。
もちろん、悩みが消えたわけじゃない。
自信がついたわけでもない。
でも、何かがほんの少しだけ変わっているのかもしれない。
それが何なのか、まだうまく言葉にはできなかった。
◇ ◇ ◇
学校へ着くと、ひまりは私の顔を見るなり、すぐににやっとした。
「おはよ」
「……おはよう」
「はい、今日は昨日よりちょっとだけ可愛い」
「何その評価」
「昨日は“動揺してます”が顔に出すぎてた」
「今日は出てないの?」
「出てるけど、方向が違う」
「方向?」
「“困ってるけど、少しだけうれしくもあります”の方向」
「ひまり」
「図星だ」
「朝からうるさい」
「でも違わないでしょ」
私は返事をせずに席に着いた。
返事をしないのは、違うからじゃない。
違わない部分があって、認めたくないだけだ。
ひまりは私の前の席に座って、頬杖をついた。
「で?」
「何が」
「昨日のあと、何か考えた?」
「……考えた」
「うん」
「私、ずっと“私なんて”って言って逃げてたのかもって」
「お」
ひまりの目が少しだけ真面目になる。
「それ、かなり大事なやつでは」
「大事かは分からないけど……」
私は鞄から教科書を出しながら、小さく息を吐いた。
「一条くんに優しくされると、うれしいのに苦しくなるじゃん」
「うん」
「それって、優しさが嫌なんじゃなくて」
「うん」
「受け取っていいって思えないからなんじゃないかなって」
「……」
「私なんて、って思ってれば、最初から受け取らなくて済むし」
「傷つく前に?」
「……たぶん」
ひまりはしばらく黙って、それから机に頬を乗せるみたいにしながら言った。
「栞」
「何」
「それ、気づけたのえらい」
「急に褒めるのやめて」
「いや、ほんとに」
「……」
「だって今までのあんた、自分が怖がってることすら、“釣り合わないから”で済ませようとしてたじゃん」
「……そうかも」
「でも実際は、“大事にされたらどうしよう”が怖かったんでしょ」
「……うん」
その“うん”は、思ったよりすんなり出た。
やっぱりそうなのだと思う。
噂が怖いのも本当。勘違いしたくないのも本当。自分に自信がないのも本当。
でも、そのいちばん奥にあるのは、たぶん“大事にされたときにどうしていいか分からない”という怖さだ。
私はそういうものに、ずっと縁がないと思っていたから。
「でもさ」
ひまりが少しだけ笑う。
「それって裏返すと、もうかなり大事にされてるって感じ取ってるってことだよね」
「……そこ、わざわざ言わなくていい」
「ごめんごめん。でも事実じゃん」
「……」
「しかも、最近の栞、それが嫌じゃないんだもん」
「……嫌では、ない」
「はい出ました」
ひまりが机を軽く叩いて笑う。
私は顔が熱くなるのを感じながら、視線を逸らした。
嫌じゃない。
それどころか、たぶん、かなり嬉しい。
でも嬉しいと言い切ってしまうには、まだ私の中に怖さが多すぎた。
◇ ◇ ◇
一時間目と二時間目のあいだの休み時間、教室の入口が少しざわついた。
私はもう、その空気だけで分かってしまうようになっている自分をどうにかしたい。
顔を上げると、やっぱり恒星が立っていた。
いつものように整っていて、いつものように目立つ。
でも、私が見ると決めてからは、それだけじゃない部分も見えるようになっていた。
今日は、昨日より少し楽そうだ。
疲れた感じは薄い。
目元もやわらかい。
そのことにほっとした自分がいて、私は内心で少しだけ驚く。
「おはよう」
彼が穏やかに言う。
「……おはよう」
私も返した。
名字ではなく、ちゃんと目を見て。
ほんの数秒のことなのに、その瞬間、彼の表情がふっと変わる。
嬉しそうに、やわらかく。
「今日、ちょっと違うね」
「……何がですか」
「ちゃんと目、合わせてくれた」
「……」
「うれしい」
またそれだ。
でも今日は、それを聞いてすぐに苦しくはならなかった。
もちろん恥ずかしいし、胸は変に落ち着かない。
でも、そのうれしさを“なかったこと”にしたくはないと思えた。
「……一条くん」
「うん」
「毎回それ言うの、ずるいです」
「でも本当だから」
「本当でも、です」
「じゃあ、今日は心の中だけにしようか」
「それはそれで、たぶん顔に出ると思います」
「そこまで分かる?」
「最近ちょっとだけ」
そう返すと、恒星が少しだけ目を見開いた。
それから、今度は本当に甘く笑った。
「それ、かなりうれしいかも」
「……だから、そういうの」
「ごめん」
「全然ごめんって顔じゃない」
「ばれた?」
「ばれます」
前より、少しだけ会話が自然だった。
自然というか、私が前ほど全部を拒絶しなくなっている。
それに気づいたとき、胸の奥がまた少しだけそわついた。
こうして少しずつ変わっていくこと自体が、やっぱり怖い。
でも、嫌じゃない。
そこがもう、かなりまずい。
◇ ◇ ◇
昼休み、ひまりと中庭のベンチでお弁当を食べながら、私はぽつりとこぼした。
「私、あれなのかも」
「どれ」
「閉じこもってたのかも」
「どこに?」
「“私なんて”の中に」
ひまりが一瞬だけ黙る。
それから、すごくゆっくり頷いた。
「うん」
「……うん、なんだ」
「だって、たぶんそうでしょ」
「……」
「“私なんて”って、便利だもん」
「便利」
「最強の防御」
ひまりは卵焼きを箸で持ち上げながら言う。
「期待しなくて済む。自分から手を伸ばさなくて済む。相手の好意も“そんなわけない”で止められる」
「……」
「でも、その代わり、うれしいことまで全部外に置くことになる」
「……」
その言葉に、胸の真ん中をつかまれたみたいな気持ちになった。
うれしいことまで全部外に置く。
たしかに、そうだったのかもしれない。
私はずっと“傷つきたくない”を優先して、その代わりに、受け取れるかもしれないあたたかいものも、最初から自分の外へ押しやっていた。
彼の優しさも。
彼のまっすぐな言葉も。
たぶん、その中にあった甘さも。
「……もったいないことしてたのかな」
小さく言うと、ひまりはちょっとだけ笑った。
「まあね」
「容赦ない」
「でも今からでも遅くないじゃん」
「……」
「まだ終わってないし」
「……うん」
「むしろ始まったばっかり感あるし」
「それは、ちょっと」
「ちょっと?」
「恥ずかしい」
「はいはい、可愛い可愛い」
私はひまりの雑な言い方に少しだけ笑ってしまった。
そのとき、ふと気づいた。
最近の私は、彼の話をしながら笑うことが増えている。
前は戸惑うか、苦しくなるか、逃げたくなるかだったのに。
それだけでも、だいぶ違うのかもしれない。
◇ ◇ ◇
放課後、交流イベントの資料整理のために準備室へ行くと、恒星がすでに来ていた。
「お疲れさま」
「……お疲れさまです」
「今日はちゃんと来てくれた」
「ちゃんと来ますよ。必要な作業なので」
「それだけ?」
「……」
「ごめん、意地悪だった」
少しだけ笑うその顔が、今日は前よりやわらかく見える。
準備室の中には資料の束や案内板が並んでいて、二人で仕分け作業をするには少し狭いくらいだった。
机をはさんで向かい合いながら、配布順に並べる。
作業そのものは単純なのに、彼と向かい合っているだけで妙に集中しづらい。
「朝比奈さん」
「……はい」
「この間のこと、少し聞いてもいい?」
「この間?」
「“私なんて”ってやつ」
私は手を止めた。
どうしてこの人は、そういうところを逃さないんだろう。
さっきひまりと話したばかりのことを、また別の角度から突かれた気がして、少しだけ息が詰まる。
「……聞いて、どうするんですか」
「知りたい」
「……」
「君がどこで止まってるのか」
その言い方が、やっぱり優しすぎる。
責めるためじゃなくて、私の中のつっかえを知ろうとしている声だ。
私は視線を資料に落としたまま、小さく言った。
「……一条くんに何か言われるたびに」
「うん」
「うれしいんです」
「……」
「でも、同じくらい、“そんなわけない”って思う」
「うん」
「その“そんなわけない”の方に、ずっと逃げてたんだと思います」
「……」
恒星は何も言わずに聞いている。
その沈黙が、今日は少しだけありがたい。
「私なんて、って思ってれば」
私はゆっくり続けた。
「受け取らなくて済むから」
「……」
「期待しなくて済むし、勘違いで終わったときも、最初からなかったことにできるし」
「……」
「でも、たぶん」
そこで一度息をつく。
「閉じこもってたの、私の方だったのかもしれないです」
言い切った瞬間、準備室の静けさが少しだけ変わった気がした。
彼はすぐには口を開かなかった。
でも、机の向こうで、指先がほんの少しだけ止まったのが見えた。
「……そっか」
やがて、恒星が静かに言う。
「それ、自分で気づいたの?」
「ひまりにも言われました」
「瀬名さん、いい友達だね」
「……うん」
「でも、気づけたのは朝比奈さんだよ」
その言葉に、胸の奥がやわらかくなる。
認められることに慣れていないから、こういうひと言で簡単に揺れてしまう。
「……一条くん」
「うん」
「そうやって、すぐ優しくするの、だめです」
「どうして」
「だから、甘いこと言われると困るので」
「甘いこと言ってるつもりはないよ」
「余計だめです」
「じゃあどうしたらいい?」
「……もう少し普通にしてください」
「難しい」
「即答しないでください」
「だって、君がそういうこと言うと、可愛くて余計無理」
「……っ」
私は思わず持っていた資料を落としかけた。
いま、何て言った?
可愛い?
こんな、机の向かいで、普通みたいな顔で?
顔が一気に熱くなる。
耳まで熱いのが分かる。
「……一条くん」
「うん」
「そういうの、本当に反則です」
「ごめん」
「全然ごめんって顔してない」
「うん、ちょっと嬉しい」
「何でですか」
「朝比奈さんがちゃんと困ってくれるから」
だめだ。
この人はほんとうにだめだ。
前なら、この手の言葉は怖い方が勝った。
でも今は、怖いのに、それ以上に甘くて、胸の奥が変にふわふわしてしまう。
私は慌てて視線を資料へ戻した。
「……作業、続けます」
「うん」
「話しかけないでください」
「それは無理かも」
「無理なんだ」
「好きな子が、目の前でそんな顔してたら」
「……」
「静かにしてる方が難しい」
私はもう返事ができなかった。
好きな子。
今、たしかにそう言った。
さらっと。
でも、絶対に聞き間違いじゃない。
机をはさんで向かい合っているだけなのに、距離が急に近くなった気がした。
近すぎて、呼吸の仕方が分からなくなる。
◇ ◇ ◇
そのあとの作業は、正直あまり覚えていない。
資料を仕分けして、案内板をまとめて、確認表にチェックを入れて。
手は動いていたと思う。
でも頭の中は、さっきの“好きな子”でいっぱいだった。
いや、文脈としてはそういうことだと前から薄々分かっていた。
でも、分かっているのと、言葉として耳に入るのとでは、全然違う。
私は何度か深呼吸して、どうにか心拍数を落ち着かせようとした。
そして、そのたびに思ってしまう。
私、こんなふうに甘やかされることに、ほんとうに慣れてないんだな、と。
作業が終わって準備室を出るころには、外は夕焼けに変わっていた。
雨上がりの空は少しだけ透き通っている。
「今日はありがとう」
恒星が言う。
「……必要な作業だったので」
「またそれ」
「事実です」
「うん。でも、来てくれてうれしかったのも事実」
「……」
「それに」
彼は少しだけ目を細めた。
「今日の朝比奈さん、前よりずっとちゃんと話してくれた」
「……たぶん」
「うれしい」
「……」
「だから、たまには素直に受け取って」
その言葉に、私は立ち止まりそうになった。
素直に受け取って。
それはたぶん、彼の好意だけじゃなくて、私自身に向けられた評価や優しさのことも含んでいる気がした。
私はずっと、自分なんて、と言って閉じこもっていた。
でも、もしその扉を少しだけ開けるなら。
入ってくるのは、傷つく可能性だけじゃないのかもしれない。
「……少しずつ、なら」
気づけば、そう言っていた。
恒星が目を見開く。
「少しずつ?」
「……素直に、受け取るの」
「……」
「いきなりは無理なので」
「うん」
「でも、少しずつなら……やってみます」
言い終わって、また自分で顔が熱くなる。
こんなの、かなり恥ずかしい。
でも、彼は笑わなかった。
むしろ、ひどくやわらかい顔で笑った。
「……ありがとう」
「その、だからって」
「うん」
「急に余裕が出るわけじゃないです」
「分かってる」
「今もだいぶ無理です」
「それも分かる」
「……」
「でも、そうやって言ってくれるの、すごくうれしい」
私はもう何も言えなくなって、小さく頷くしかなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道、ひとりで駅へ向かいながら、私は何度も今日の会話を思い出していた。
“私なんて”の中に閉じこもっていたのは私だった。
そのことを、ようやく少しだけ認められた。
そして、その扉の外には、怖さだけじゃなくて、甘くてやわらかいものもあるのだと知ってしまった。
知ってしまったから、前よりずっと戻れない。
でも、それでいいのかもしれないとも思い始めている。
駅前の風が少し冷たくて、火照った頬に気持ちよかった。
私は黒縁眼鏡の位置を直して、小さく息をつく。
「……ほんとに、少しずつだけど」
それでも私は、前へ進んでいる。
怖いまま。
恥ずかしいまま。
でも、うれしい気持ちをごまかしきれなくなりながら。
それはたぶん、じれったいけれど、ちゃんと恋に近づいているということなのだろう。




