第13話 眼鏡を外した私を、彼はちゃんと見ていた
雨の日は、昔から少しだけ苦手だ。
空が低い。
音が近い。
世界全体が、いつもより狭くなったみたいに感じる。
そのうえ今日は朝から細かい雨がずっと降っていて、校舎の中まで湿った空気が入り込んでいた。廊下の窓ガラスは白く曇り、外の景色は少しぼやけて見える。
私はそういう天気の日、なんとなくいつもより静かになる。
もともと静かな方なのに、さらに声が小さくなるらしく、ひまりには「今日の栞、しっとり二割増し」と意味の分からないことを言われた。
「雨の日って、何か全部ちょっとずつ面倒になるよね」
昼休み、ひまりがストローでジュースを吸いながら言う。
「髪は広がるし、靴は濡れるし、テンションも上がらないし」
「……それは分かる」
「栞は今日いつもよりぼんやりしてる」
「いつもぼんやりしてるみたいに言わないで」
「今日はほんとにしてるよ」
「……そうかも」
素直に認めると、ひまりが少しだけ目を細めた。
「また何か考えてる?」
「……考えてる」
「一条くん?」
「……うん」
「もうそこ否定しなくなったね」
「否定する元気もない」
「それはそれで重症」
ひまりはそう言って笑ったけれど、からかう感じは薄かった。
最近の私を見ていれば、もう何が原因で私の心が忙しくなっているかなんて、聞かなくても分かるのだろう。
私は窓の外を見た。
雨粒が細く長く流れていく。
ここ数日で、私は確かに少し変わった。
彼を見ると決めた。
彼が余裕をなくすところも、疲れるところも、ちゃんと人間らしいところも見えた。
それは前よりずっと、彼を遠い存在じゃなくしてくれた。
でも、遠くなくなった分だけ、近さの怖さが増したのも本当だった。
彼が優しい理由に意味があるかもしれない。
そう思うたびに、胸の奥がやわらかくなって、その直後に怖くなる。
嬉しいと怖いが、最近ずっと隣り合っている。
「今日、交流イベントの資料整理あるんだっけ?」
ひまりが思い出したように言う。
「……放課後に少し」
「一条くんも?」
「たぶん」
「たぶん、ね」
その“たぶん”に、私は少しだけ息をついた。
最近の私は、“会いたい”と“会うのが怖い”を同時に持ちすぎていて、本当に自分でも面倒くさいと思う。
◇ ◇ ◇
午後の授業が終わるころには、雨足が少し強くなっていた。
廊下に出ると、窓の外は白っぽい灰色で、グラウンドの向こうがかすんで見える。
私は配布用の資料束を持って、図書室の隣にある小さな準備室まで運ぶ役目を頼まれていた。
「朝比奈、これ先に持って行ってくれるか」
先生に言われて、私はうなずく。
「はい」
「重かったら無理しなくていいからな」
「大丈夫です」
そう答えたものの、紙の束は思っていたより少し重かった。
持てないほどではない。でも、視界が雨の日の光で少し悪いせいか、足元に気を遣う。
廊下は雨で湿った生徒たちが行き来したせいで、ところどころ床が少し滑りやすくなっていた。
私は慎重に歩きながら、黒縁眼鏡の位置を指で直す。
そのとき、向こうから走ってきた男子生徒が、曲がり角で私に気づいて足を止めようとして――止まりきれなかった。
「うわ、ごめん!」
肩がぶつかった。
紙の束が揺れる。
体勢が崩れる。
その瞬間、私は無意識に資料の方を守ろうとしてしまった。
そのせいで自分の足元への意識が遅れた。
ひやっとする。
滑る。
「きゃ……」
声になりきらない息が漏れた瞬間、誰かの手が腕をつかんだ。
強くはない。
でも、落ちるのを止めるには十分な力だった。
私はそのまま半歩よろめいて、どうにか転ばずに済んだ。
でも、代わりに別のものが飛んだ。
眼鏡だ。
黒縁眼鏡が顔から外れて、廊下の床に落ちる。
乾いた音がした。
レンズの片方がまた少しずれたらしい。
あ、と思ったときにはもう遅かった。
視界が、一気に甘くぼやける。
それだけでもう、心臓が跳ね上がった。
だめ。
見られたくない。
私は反射的に前髪を引き寄せて顔を隠そうとした。
けれど資料を抱えたままではうまくいかない。
「朝比奈さん」
すぐ近くから、聞き慣れた声がした。
一条恒星。
最悪だ、と思った。
よりによって、このタイミングで。
いや、私を支えたのもたぶん彼だ。
そう考えると、助かったはずなのに、気持ちは全然追いつかなかった。
「怪我してない?」
「……だ、大丈夫です」
「資料、持つよ」
「いえ、自分で」
「朝比奈さん」
少しだけ低い声。
その呼び方に、私は思わず動きを止める。
恒星は私の返事を待たず、抱えていた資料束の半分を自然に持った。
その動作があまりにも迷いなくて、私は断るタイミングを失う。
そのうえ彼は、床に落ちた眼鏡を拾い上げると、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「またずれてる」
「……すみません」
「どうして謝るの」
「……」
「ほら」
彼は壊れものを扱うみたいに、そっと眼鏡を差し出した。
「かけられる?」
「……はい」
受け取ろうとしたけれど、手が少し震えてうまくつかめない。
それが情けなくて、私はますます俯きたくなる。
恒星は一瞬だけ黙って、それから静かに言った。
「俺、向こう向いてるから」
「え」
「見られたくないなら、その方がいいでしょ」
私は息を呑んだ。
彼はすぐに背を向けた。
ほんとうに、迷いなく。
周りに誰かいないかを軽く確かめてから、私に背中を向けて立つ。
その気遣いが、あまりにも自然で、あまりにも優しかった。
私は唇を噛みしめながら、急いで眼鏡をかけ直した。
ずれたフレームをどうにか整える。
視界が戻る。
戻った瞬間、今度は別の意味で胸が苦しくなった。
こんなふうに守られると、余計にどうしたらいいか分からなくなる。
「……もう大丈夫です」
小さく言うと、恒星が振り向いた。
その目が、まず私の顔を見て、それから本当にわずかにやわらいだ。
その変化が、今日はやけに分かりやすかった。
「よかった」
「……」
「顔、少し赤い」
「言わないでください」
「ごめん」
「それ、たぶん雨のせいとかじゃないので」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「分かってる」
彼は少しだけ笑った。
その笑い方は、からかうよりずっとやさしい。
でも、どこか懐かしそうでもあった。
「……何ですか」
私が小さく聞くと、恒星はほんの少しだけ目を細めた。
「やっぱり」
「え」
「眼鏡ない顔、ちゃんと覚えてるなって思っただけ」
私はその場で固まった。
眼鏡ない顔。
ちゃんと覚えてる。
それはつまり、昔も見ていたということだ。
たぶん、今の私が思い出しかけている“あのころ”の中で。
胸の奥で、何かが強く揺れた。
夏の光。
噴水。
泣きそうな男の子。
そして、顔を覗き込む視線。
私は思わず彼の顔を見上げる。
恒星はごまかさなかった。
でも、無理に続けもしなかった。
「……一条くん」
「うん」
「そういうこと、さらっと言わないでください」
「ごめん」
「ほんとに困るので」
「知ってる」
知ってる、と言いながら、彼はあまり悪びれていなかった。
いや、悪びれていないというより、言わずにいられなかったみたいな顔だ。
それが分かるから、余計に言い返しにくい。
◇ ◇ ◇
準備室まで資料を運び終えると、雨の音は少しだけ強くなっていた。
窓ガラスを打つ音が規則的に続いている。
外はすっかり薄暗くなり始めていた。
「ありがとう」
私が資料を机に置きながら言うと、恒星はすぐに首を振った。
「俺の方こそ。間に合ってよかった」
「……」
「転んだら危なかったし」
「でも、資料まで持ってもらって」
「そっち守ったの、朝比奈さんでしょ」
「反射です」
「そういうとこ、昔から変わらない」
その言葉に、また小さく胸が鳴る。
昔から変わらない。
そう言われるたびに、私は少しずつ、彼の中にある“私”の輪郭を意識してしまう。
私はそこにちゃんといたらしい。
しかも、かなり鮮明に。
それなのに、私の中ではまだ全部が霧の向こうだ。
悔しいような、申し訳ないような、不思議な気持ちになる。
「……私」
思わず口を開く。
「そんなに、変わってないですか」
「うん」
「どこが」
「意地張るとことか」
「……」
「平気なふりするのも」
「……」
「でも、ちゃんと優しいのも」
私は何も言えなくなった。
優しい、なんて。
そんなふうに見られているとは思っていなかった。
自分では、ただ不器用で、逃げてばかりで、いざというとき変な言い方ばかりする人間だと思っていたから。
「……買いかぶりです」
やっとそれだけ返すと、恒星は少しだけ首をかしげた。
「そうかな」
「そうです」
「じゃあ俺の記憶補正かな」
「何ですか、それ」
「朝比奈さんのことになると、少し甘い自覚はある」
「……」
「困る?」
「……困ります」
「そっか」
そう言いながらも、彼は少しも困っていない顔で笑った。
そういうところが、ずるいと思う。
でも今日は、その“ずるい”の中に、少しだけ違う気持ちも混じっていた。
――ちゃんと見ていたんだ。
眼鏡の奥に隠してきたつもりのものを。
今だけじゃなくて、昔から。
その事実が、なぜかひどく胸に沁みた。
◇ ◇ ◇
帰り際、廊下に出ると、雨はまだやんでいなかった。
昇降口まで並んで歩くあいだ、私たちはいつもより少し静かだった。
気まずいわけではない。
ただ、さっきのことの余韻がまだ残っているだけだ。
「傘、ある?」
恒星が聞く。
「あります」
「ほんとに?」
「あります」
「疑ってるわけじゃないけど、今日は少し頼りないから」
「今日だけじゃなく、いつも頼りないって言いたいんですか」
「そこまでは言ってない」
「そこまでみたいな顔してました」
「見てるね」
「……」
「うれしい」
「もういいです、それ」
そんなふうに軽く言い合えることが、少しだけ不思議だった。
少し前の私なら、眼鏡を落とした時点で心が完全に閉じていたと思う。
でも今日は、もちろん恥ずかしかったし、見られたくなかったし、消えたかったけれど――それだけでは終わらなかった。
彼が背中を向けてくれたこと。
急かさなかったこと。
見慣れているみたいな顔で、“覚えてる”と言ったこと。
その一つ一つが、私の心を少しずつ別の方向へ動かした。
昇降口で靴を履き替えながら、私は小さく言った。
「……さっき」
「うん?」
「見ないでくれて、ありがとうございました」
「うん」
「助かりました」
「それならよかった」
「あと」
「あと?」
「……変に、驚いたりしなかったのも」
そこまで言って、私は顔を伏せた。
こんなの、ほとんど“うれしかった”と言っているようなものじゃないか。
恒星は少しだけ黙って、それからとても静かに言った。
「驚くわけないよ」
「……」
「だって、ちゃんと知ってるから」
その声があまりにもまっすぐで、私はもう何も言えなくなってしまった。
知ってる。
その一言の中に、どれだけ長い時間が入っているんだろう。
私はまだ全部を思い出していない。
でも彼は、その全部をたぶん持っている。
それが、少しこわくて。
でも今は、それ以上に少しだけ、あたたかかった。
「じゃあ、また明日」
恒星がそう言う。
私はうなずいて、傘を開いた。
雨音がすぐ近くに広がる。
でも、今日の私はその音の中で、自分の鼓動が前より少しだけやわらかいことに気づいていた。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私はぼんやりと窓に映る自分を見ていた。
黒縁眼鏡の奥の顔。
いつもの私。
目立たないようにしてきた私。
でも、今日改めて分かった。
私はこの顔を、ずっと“隠している”つもりだった。
それで安心していた。
それなのに彼は、その奥にいる私を、昔から知っていた。
眼鏡があっても、なくても。
たぶん、どっちでもちゃんと私だと分かっていた。
それがどうしようもなく、くすぐったくて、少しだけ泣きたくなる。
見られたくなかったはずなのに。
彼に見られていたことは、思っていたほど怖くなかった。
むしろ――。
「……知ってたんだ」
小さくつぶやくと、窓に映る自分が少しだけ困ったように笑っていた。
眼鏡を外した私を、彼はちゃんと見ていた。
今だけじゃなくて、たぶんずっと前から。
その事実は、私の中の何かをまたひとつ、静かに変えてしまった気がした。




