第12話 完璧な王子様だって、傷つけば余裕をなくす
次の日の朝、教室に入った瞬間、私はすぐに気づいた。
――いない。
それだけで、胸の奥が変にざわついた。
一条恒星の席は、ちゃんとそこにある。
鞄もない。まだ来ていないだけだ。
遅刻なんて珍しいのかな、と、そんなことを考えてしまうくらいには、私はもう彼のことを学校の風景として意識してしまっていた。
「おはよ」
ひまりがやってきて、私の視線の先を見た。
「あれ、一条くんまだなんだ」
「……そうみたい」
「へえ、珍し」
「珍しいの?」
「わりと。あの人、時間きっちりしてそうじゃん」
「……たしかに」
私は席に座りながら、小さく息をついた。
別に、来ようが来まいが関係ないはずなのに。
昨日だって、少しだけ話して、それで終わっただけだ。
無理に答えを出さなくていい、と言われて、少しだけ呼吸がしやすくなった。それだけ。
それだけなのに、こうして朝からいないと、変に落ち着かない。
ひまりが私の顔を見て、すぐににやっとした。
「何その顔」
「何が」
「“別に気にしてませんけど、いないのは普通に気になります”って顔」
「……してない」
「嘘」
「してないって」
「栞」
「何」
「もうちょっと自分の気持ちに素直になった方が、顔の筋肉に優しいよ」
「意味分かんない」
そう言い返したけれど、図星だった。
私はたしかに気にしている。
ただ、それを認めるのがまだ少し悔しいだけだ。
ホームルームが始まるぎりぎりのタイミングになっても、恒星は来なかった。
担任が「一条は少し遅れるそうだ」とだけ告げて、何事もないように出席を取る。
少し遅れる。
それだけのことなのに、なぜか私はほっとできなかった。
だって、“来る”と分かったからだ。
遅れてでも来る。
じゃあ、いつ来るんだろう。
どんな顔で来るんだろう。
普通に来るのか。
昨日の続きみたいな空気になるのか。
考えたくないのに、頭が勝手に考えてしまう。
◇ ◇ ◇
二時間目が終わった休み時間だった。
教室の前が、少しだけざわつく。
ほんの小さな気配だったのに、私はすぐに顔を上げてしまった。
そこにいたのは、やっぱり恒星だった。
でも、いつもと少し違った。
制服も髪も乱れているわけではない。
むしろ外から見ればいつも通り整っている。
けれど、ほんの少しだけ空気に余裕がない。
それは表情がきついとか、機嫌が悪いとか、そういう露骨なものじゃない。
たとえば、普段なら教室の空気をひと呼吸ぶん整えるように入ってくるのに、今日はまっすぐ席へ向かう。
誰かに軽く声をかけられても、笑って返すのが半拍遅れる。
そういう小さな違和感だった。
ひまりもそれに気づいたらしく、小さくつぶやく。
「……あれ、ちょっと珍しい」
「何が」
「なんか、余裕なくない?」
私は返事をしなかった。
返事をしなかったというより、できなかった。
たぶん私も同じことを思ったからだ。
恒星は席に着く前に、ほんの一瞬だけこちらを見た。
目が合う。
すぐ逸らされる。
その一瞬の短さに、胸が少しだけ痛くなった。
避けられたわけじゃない。
でも、いつもみたいに穏やかに留まってくれなかった。
……当たり前かもしれない。
昨日の私は、結局また彼を怖がらせるようなことを言ったのだ。
全部なかったことにしたいわけじゃない、と伝えたあとでも、なお私は釣り合わないだの何だのと言っていた。
彼だって人間だ。
何度も同じところで弾かれたら、疲れるに決まっている。
そう思うと、胸のざわつきはますますひどくなった。
◇ ◇ ◇
三時間目のあと、私はトイレへ行くふりをして廊下に出た。
少しだけ頭を冷やしたかったのだ。
教室にいると、どうしても彼の気配を探してしまうから。
窓の外はよく晴れていた。
春の光は明るいのに、私の気分は全然晴れない。
「……何してるんだろ」
最近、こればっかりだと思う。
彼に近づきたいのか、近づきたくないのか。
見たいのか、見たくないのか。
嬉しいのか、怖いのか。
全部が中途半端で、全部が本当だ。
そのとき、向こうの階段から聞き慣れた声がした。
「だから、それは午後でも間に合うだろ」
恒星だった。
私は反射的に足を止める。
別に盗み聞きするつもりじゃない。
でも、名前を呼ばれたわけでもないのに心臓が反応してしまった。
彼はスマホを耳に当てていた。
電話らしい。
「分かってる。でも今は学校だ」
声が低い。
怒鳴っているわけじゃない。
けれど、はっきり苛立っているのが分かる。
私は見てはいけない気がして、すぐに踵を返しかけた。
でも、その瞬間に恒星がこちらに気づいたらしい。
視線がぶつかる。
私は固まった。
恒星も一瞬だけ動きを止めた。
それから、電話の向こうへ「あとでかけ直す」と短く告げて通話を切る。
「……ごめん」
先にそう言ったのは彼だった。
「え」
「聞かせるつもりじゃなかった」
「……いえ」
私はどうしていいか分からなくて、曖昧に首を振った。
気まずい。
でもそれ以上に、今見たものが少し衝撃だった。
一条恒星が、あんなふうに苛立つんだ。
しかも、学校で。
しかも、少しだけ余裕をなくした顔で。
完璧な王子様みたいに見える人にも、ああいう顔があるのだと、なんだか急に実感してしまった。
「何か、あったんですか」
気づけば、私はそう聞いていた。
恒星は少しだけ意外そうに目を瞬いた。
たぶん、私が自分からそういうことを聞くと思っていなかったのだろう。
「……家のこと」
「家」
「うん。大したことじゃない」
「でも」
「大したことじゃないよ」
その言い方が、逆に“大したことがある”時のものだと分かってしまった。
分かってしまう程度には、私はもう彼の声を聞いている。
私は少しだけ迷った。
踏み込むべきじゃない。
そういう線引きはまだ必要だ。
でも、放っておくのも違う気がした。
「……顔」
小さく言うと、恒星がこちらを見る。
「顔?」
「ちょっとだけ、いつもと違うので」
「……そんなに分かる?」
「少しだけ」
「そっか」
恒星は小さく息を吐いた。
それは笑いにもため息にも聞こえた。
「見てくれてるんだね」
「……昨日、ちゃんと見るって言ったので」
言ってから、自分で恥ずかしくなる。
でも恒星は笑わなかった。
むしろその言葉を、少し大事そうに受け取ったみたいに目を細める。
「うれしい」
「……」
「でも、今日の俺はあまり見栄えよくないかも」
「そんなこと」
「あるよ。ちょっと余裕ないし」
自分でそう言うところが、やっぱり不思議だった。
普通、こういう人はもう少し綺麗に取り繕うものじゃないのだろうか。
でも彼は、時々ちゃんと格好悪いことも口にする。
そのことに、私はまた少しだけ胸が熱くなる。
「……大丈夫ですか」
ほとんど反射みたいにそう言うと、恒星はほんの少しだけ目を見開いた。
「心配してくれるんだ」
「……」
「いや、ごめん。うれしくて」
「毎回それ言うのやめてください」
「難しい」
「……」
いつもならここで少しだけ笑って終わるのに、今日はそうならなかった。
彼の目の下には、ほんのわずかに疲れが見えた。
昨日の私とのやり取りのせいだけではないだろう。
さっきの電話もある。
家のこと、と言っていた。
彼にも、学校の外でいろんなものがあるのだ。
そう考えると、胸の奥が少しきゅっとした。
私は、彼のことを見ようと思う、と言った。
なら、こういうときに何も見ないふりをするのは違う気がした。
「……無理、しないでください」
小さく言うと、恒星は少しだけ黙った。
それから、静かに笑う。
「それ、君に言われると効く」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味」
「またそういう」
「本当だから」
私は少しだけ眉を寄せた。
でも今日は、いつもみたいに“ずるい”と言う気にもなれなかった。
だって彼は今、本当に少し疲れている顔をしているから。
◇ ◇ ◇
教室へ戻ってからも、私は妙に落ち着かなかった。
恒星は普段通りを装っていた。
実際、クラスの誰も特に不自然とは思っていないだろう。
でも、さっきの電話と、あの短いやり取りを知ってしまった私には分かる。
少しだけ、無理をしている。
そう思うと、今までとは違う種類のざわつきが胸の中に広がった。
「栞」
ひまりが昼休みにそっと声をかけてくる。
「何」
「今日、なんか変」
「私が?」
「栞も変だけど、一条くんも」
「……」
「何かあった?」
「……たぶん、家のこと」
「家?」
「詳しくは知らない」
「そっか」
ひまりはそれ以上無理に聞いてこなかった。
私の顔を見て、今は深掘りしない方がいいと思ったのだろう。
「でも」
彼女は少しだけ声を落とした。
「そういうとこ見えると、一気に人間になるよね」
「……人間?」
「うん。なんか、学校の王子様じゃなくて、普通にひとりの男の子って感じ」
「……」
「それで栞、余計気になってるんじゃない?」
私はすぐには否定できなかった。
その通りだからだ。
今までも彼が完璧じゃないことは少しずつ見えていた。
私のことで余裕をなくしたり、少し傷ついた顔をしたり、格好悪いことを口にしたり。
でも今日見たのは、もっと別の部分だった。
私とは関係のないところで、彼がちゃんと疲れたり、苛立ったりするということ。
それは、今までよりももっと現実的だった。
彼は、私の前でだけ揺れる特別な存在じゃない。
学校の外でも何かを抱えていて、それでも笑ってここにいる普通の高校生でもある。
そのことが、なぜか胸に沁みた。
◇ ◇ ◇
放課後、私は図書室の仕事をしながら、何度も窓の外を見てしまった。
彼が来るかもしれない。
でも来ないかもしれない。
今日は来ない方がいいのかもしれない。
でも、もし来なかったらそれも気になる。
もう本当に、自分が面倒くさすぎる。
仕事を終えて図書室の扉を開けたとき、廊下には誰もいなかった。
少しだけほっとする。
少しだけ、物足りない。
私はその複雑な気持ちを抱えたまま、靴箱へ向かって歩いた。
校舎を出る直前、ふと視線の先に見慣れた姿が入った。
昇降口の外の柱のそばに、恒星が立っていた。
待っていたのだろうか。
そう思ったけれど、彼の手にはスマホがあって、今しがた何かの連絡を終えたように見えた。
本当にたまたまかもしれない。
でも、私に気づくと、彼はいつもより少し遅れて笑った。
それだけで、ああやっぱり余裕がないんだなと分かってしまう。
「お疲れさま」
「……お疲れさまです」
「今から帰る?」
「はい」
「そっか」
少し沈黙が落ちる。
風が制服の裾を揺らした。
私は迷った。
ここで何も言わずに帰るのは簡単だ。
でも、それだと今日ずっと気になっていたことが、たぶん帰ってからもっと膨らむ。
「……一条くん」
「うん」
「今日」
「うん」
「ほんとに、大丈夫ですか」
聞いてしまった。
恒星は少しだけ驚いたように目を見開いて、それから困ったみたいに笑う。
「大丈夫って言ったら、信じる?」
「……半分くらい」
「正直」
「だって、今日はちょっとだけ無理してる顔だったので」
「……」
彼は一瞬だけ黙った。
その沈黙に、私は踏み込みすぎたかもしれないと不安になる。
でも次の瞬間、恒星は小さく肩の力を抜いた。
「やっぱり、見てるね」
「……見ますって言ったので」
「うん。ありがとう」
ありがとう。
その言葉が、今日はいつもより低くて、少しだけ疲れて聞こえた。
「家のこと、少しだけ面倒で」
彼はぽつりと言った。
「でも、たぶん時間が経てば落ち着く」
「……そうですか」
「うん。だから、君が気にしすぎなくていい」
気にしすぎなくていい、と言われても、気にしてしまうのだから仕方ない。
「でも」
私は少しだけ言い淀んで、それでも続けた。
「……もし、あの」
「うん」
「聞いてほしいなら、聞きます」
自分で言っておいて、顔が熱くなる。
何を言っているんだろう私は。
そんなことを言える立場なのか。
でも、言ってしまったものは戻らない。
恒星はしばらく黙っていた。
それから、ほんとうに少しだけ目を細めた。
「それ、かなりうれしい」
「……」
「でも今日は、まだ甘えるほど整理できてない」
「……そうですか」
「うん」
「じゃあ」
私は少しだけ視線を泳がせた。
「整理できたら、にしてください」
言い終わってから、自分でびっくりした。
今のはつまり、いつかなら聞く、という意味だ。
そんなことを、私はこんなふうに自然に言えるようになっていたのか。
恒星も驚いたみたいだった。
でもすぐに、やわらかく笑う。
「覚えておく」
「……忘れてください」
「無理」
「即答」
「だって、大事だから」
その返しに、私はもう何も言えなくなる。
でも、前みたいに怖いだけではなかった。
彼がちゃんと疲れること。
少し苛立つこと。
余裕をなくすこと。
そういうところを見たあとだと、彼の言葉は前より少しだけ“届く”気がした。
完璧な王子様が言っているのではなくて、ひとりの男子高校生が、今の自分の気持ちをそのまま口にしているのだと分かったから。
◇ ◇ ◇
帰りの電車の中で、私はぼんやりと窓の外を見ていた。
今日の私は、ずっと不思議な感覚の中にいた。
恒星が少し疲れている。
余裕がない。
苛立つこともある。
そんなの、考えてみれば当たり前のことだ。
彼だって人間なのだから。
でも私はどこかで、彼を“少し遠いところにいる人”として見続けていたのかもしれない。
だからこそ、今日みたいな顔を見ると、急に現実味が増してしまう。
近づきたいのに、近づくほど怖い。
その気持ちは相変わらず消えない。
でも、今日見た彼は、私にとって少しだけ“怖い相手”ではなくなっていた。
うれしいこともある。
苦しいこともある。
そしてたぶん、彼だって同じように揺れている。
そう思えたことが、ほんの少しだけ私を楽にした。
「……王子様でも、ちゃんと人なんだ」
小さくつぶやいて、私は自分で少しだけ笑ってしまった。
そんな当たり前のことを、今さらみたいに。
でもたぶん、恋ってそういうものなのかもしれない。
遠くから見ている憧れのままではいられなくなって、その人がちゃんと不完全な人間だと知って、それでも目が離せなくなっていく。
そこまで考えて、私は慌てて首を振った。
「……いや、まだそこまでは」
誰に言い訳しているのかも分からない。
でも、窓に映る自分の顔は、少しだけ困ったように、少しだけやわらかくなっていた。




