第11話 あの頃の君と、今の私じゃ釣り合わない
月曜日の朝、私はいつもより少しだけ早く目を覚ました。
正確には、目が覚めてしまった、の方が近い。
昨日のことが、まだ胸の中に残っていたからだ。
一条家の庭。
白い噴水。
石の縁。
春の匂い。
そして、泣きそうな顔をした小さな男の子。
記憶はまだ断片のままだ。
はっきりと顔が浮かぶわけでも、名前が戻ってくるわけでもない。
でも、もう完全に“何も分からない”とは言えなくなっていた。
あの場所はたしかに知っていた。
あの水音にも、石の感触にも、覚えがあった。
それなのに私は、答え合わせの直前で立ち止まってしまった。
どうしてか。
その理由も、もう薄々分かっている。
怖いからだ。
もし、あの男の子が本当に一条恒星だったと確定してしまったら。
学校での彼の言葉や視線や優しさが、全部一本の線でつながってしまう。
そうなったら私は、もう“勘違いかもしれない”という逃げ道を失う。
「……最悪」
布団の中で小さくつぶやいてから、私は天井を見上げた。
最近、朝いちばんに考えることが、全部一条くん絡みだ。
これは本当に健全じゃないと思う。
でも、考えないようにしようとするほど、余計に思い出してしまう。
噴水のそばで、彼が言った。
『思い出しかけてるだけで、俺はうれしい』
『今の君が、こうしてここにいることの方が大事だから』
どうして、あんなことを言うんだろう。
責めればいいのに。
昔のことを忘れてるなんてひどい、くらい言ってくれた方が、こっちだって楽なのに。
でも彼はそうしない。
いつだって、私が傷つかない方の言葉を選ぶ。
それが優しくて、苦しくて、ずるい。
私は布団を跳ねのけて起き上がった。
今日は学校だ。
そして、学校でまた彼に会う。
昨日の続きみたいな顔をされたらどうしよう。
何もなかったみたいにいつも通り話しかけられても困る。
でも、距離を取られたらたぶんもっと困る。
ほんとうに、自分が面倒くさい。
◇ ◇ ◇
家を出るまでの時間、私はあまり喋らなかった。
母が「栞、パンもう一枚食べる?」と聞いてきても「いらない」としか言えず、父が「そんなに難しい顔してると美人が台無しだぞ」とふざけてきても、「朝から意味分かんないこと言わないで」と返すのが精一杯だった。
「絶対何かあるな」
父がにやにやしながら言う。
「ないよ」
「その言い方、あるやつだろ」
「ない」
「栞」
母が少しだけ笑いを含んだ声で言った。
「お父さんはほっといて、パン食べなさい」
「……」
「考えごとするときほど、ちゃんと食べないとだめよ」
「……うん」
私はしぶしぶトーストを一口かじった。
バターの味がする。いつもと同じ朝食なのに、今日は妙に喉を通りにくい。
母は私の顔をちらりと見て、それ以上何も言わなかった。
ありがたかった。
私は食べ終えてから、玄関で靴を履いた。
鏡代わりのガラスに映る自分は、いつも通りの黒縁眼鏡に、少し固い顔をしていた。
こんな顔で学校へ行って、ちゃんと普通に過ごせるんだろうか。
答えはたぶん、無理だ。
◇ ◇ ◇
でも、もっと無理だったのは、学校に着いてすぐのことだった。
昇降口を上がって廊下へ出たところで、私は前方に彼の姿を見つけてしまったのだ。
一条恒星。
同じ時間に登校しているだけ。
偶然だ。
そう分かっているのに、胸の奥が一気に熱くなる。
彼も私に気づいたらしく、少しだけ目を見開いた。
それから、穏やかに笑う。
「おはよう」
「……お、おはようございます」
「その反応だと、まだ緊張してるね」
「……してません」
「してるよ」
「してません」
「昨日の続きみたいな顔してる」
「……」
「図星?」
困る。
朝からこういう会話は心臓に悪い。
しかも彼は、昨日のことに妙な重たさを持ち込まない。
それが逆に、私の方ばかり昨日を引きずっているみたいで、少し悔しい。
「……一条くんは」
私はぎこちなく言った。
「平気なんですか」
「何が?」
「昨日のこと」
「平気じゃないよ」
「……え」
「君がすごく考え込んでるの見てたし」
「……」
「でも、だからって避けたくはない」
その返し方があまりにも彼らしくて、私は言葉に詰まった。
避けたくはない。
そう言われると、私の方だけが逃げようとしているみたいじゃないか。
いや、実際そうなのだけれど。
「……私は」
口にしてから、少し迷う。
でも、ここで何も言わずに曖昧にしてしまったら、また同じことの繰り返しになる気がした。
「うん」
「まだ、ちゃんと整理できてなくて」
「うん」
「でも……」
でも、の先が続かない。
何を言えばいいのか分からない。
恒星は急かさなかった。
ただ、ほんの少しだけ私の方へ体を向けて、待っている。
その待ち方が優しすぎるから、余計に苦しい。
「……思い出しかけたら」
私は小さく言った。
「その先も、たぶん分かっちゃうから」
「……」
「それが、怖いです」
言いながら、自分でも胸が痛くなった。
やっとのことで認めた本音だった。
彼は少しのあいだ黙っていた。
それから、静かに聞く。
「分かっちゃうって、何が?」
「……」
「朝比奈さん」
「……」
「俺が昔の男の子だってこと?」
「……そうです」
「それと?」
それと。
その言葉が、逃げていた核心を押し出してくる。
私は視線を床に落としたまま、ほとんど絞り出すように言った。
「それだけじゃ、ないです」
「……」
「学校で一条くんが私にしてることも、全部」
「……」
「意味があるのかもしれないって、思ってしまうから」
そこまで言って、私は自分の顔が一気に熱くなるのを感じた。
ここまで口にするつもりじゃなかった。
でも、もう引っ込められない。
恒星は驚いたように息を止めていた。
私はその反応を見られなくて、ますます俯く。
「……やっぱり、言わなきゃよかった」
「どうして」
「恥ずかしいからです」
「……」
「勘違いだったら最悪だし」
「勘違いじゃない」
その言葉は、あまりにも早かった。
私は思わず顔を上げる。
恒星は、まっすぐ私を見ていた。
迷いがない。
いつもの穏やかな笑顔じゃなくて、静かで、でもはっきりした目だった。
「勘違いじゃないよ」
「……」
「俺が君にしてることには、ちゃんと理由がある」
心臓が痛いくらいに鳴る。
理由がある。
その言葉を、本当にそういう意味で言われる日が来るなんて、思っていなかった。
でも、私はその瞬間、嬉しいより先に怖くなった。
逃げ場がなくなる気がしたからだ。
「……やめてください」
気づけば、そう言っていた。
恒星の表情がほんの少しだけ揺れる。
「朝比奈さん?」
「優しくしないで」
自分でも、声が少し震えているのが分かった。
「そんなふうにされる理由、私にはないから」
言った瞬間、自分で自分を殴りたくなった。
違う。
ほんとうはこんなことを言いたかったわけじゃない。
でも、怖くて、うれしくて、苦しくて、どうしても受け止めきれなくて、口から出たのは一番ひどい言い方だった。
恒星はしばらく何も言わなかった。
廊下を通る生徒の気配が遠くなる。
この場だけ、時間が少し止まったみたいだった。
「……それ」
ようやく彼が声を出す。
「本気で言ってる?」
私は答えられなかった。
本気かと聞かれたら、たぶん違う。
でも今の私は、自分の本気すらよく分かっていない。
「私なんか」
私は小さく言った。
「昔ちょっと遊んだだけの相手で」
「……」
「今だって、学校じゃ全然釣り合わないし」
「釣り合うとか」
「だって、そうでしょう」
思わず声が少し強くなる。
「一条くんは、学校中の憧れの人で、御曹司で、何でもちゃんとしてて」
「……」
「私はただの地味な女子で、噂されるだけでしんどくなるような人間で」
「……」
「そんなの、どう考えても」
――あの頃の君と、今の私じゃ釣り合わない。
そこまで言いかけて、喉の奥がつまった。
私は何を言っているんだろう。
昔の彼を勝手に切り離して、今の自分を勝手に卑下して、全部を無理だと決めつけている。
でも、それが今の私にとっては、いちばん自然な防衛だった。
恒星が低い声で言う。
「理由なら、ずっと前からある」
「……」
「でも、今それを言ったら、君はもっと怖くなるんだよね」
私は何も言えなかった。
図星だったからだ。
彼は静かに息を吐いた。
その顔は怒っていない。
でも、傷ついていないわけでもないと分かった。
それが余計につらい。
「……ごめんなさい」
私はやっとそれだけ言った。
けれど恒星は、すぐには何も返さなかった。
その沈黙が、いつもよりずっと重く感じる。
少ししてから、彼は本当に小さく言った。
「謝ってほしいわけじゃない」
「……」
「ただ」
そこで一度言葉を切る。
「君がそんなふうに自分を低く見てるの、見てるのしんどい」
その一言が、胸に刺さった。
私なんて、と思うことは、自分を守るための癖みたいなものだった。
でもそれを“見てるのがしんどい”と言われたのは初めてだった。
私の言葉は、私だけの問題じゃないのかもしれない。
そんなことを思ってしまったら、ますます苦しくなる。
◇ ◇ ◇
そのあとの私は、ほとんど何をしていたのか覚えていない。
教室へ戻ったこと。
席に着いたこと。
ひまりが何か言ってきたこと。
全部、ぼんやりしている。
「栞」
隣でひまりが小声で呼ぶ。
「何かあった?」
「……」
「顔、真っ白だよ」
「……大丈夫」
「それ大丈夫な人の顔じゃないって」
私は机の上の教科書を見たまま、小さく首を振った。
話したくないわけじゃない。
でも、今口を開いたら変なところから涙が出そうで、無理だった。
ひまりはしばらく黙って、それから何も聞かないでいてくれた。
ありがたかった。
午前中の授業は、本当に何も頭に入らなかった。
先生に指名されなかったのが奇跡みたいだと思う。
昼休みになっても、私はお弁当を開く気になれなかった。
「ねえ」
ひまりが私の机を軽くつつく。
「食べないと倒れるよ」
「……食欲ない」
「珍し」
「……」
「一条くん?」
図星すぎて、私は少しだけ肩を揺らしてしまった。
ひまりが目を細める。
「やっぱり」
「……」
「何言われたの」
「言われたっていうか……」
そこで初めて、声が出た。
「私が、ひどいこと言った」
「どんな」
「優しくしないで、とか」
「うわ」
「うわって何」
「いや、それはきつい」
「分かってる」
「しかも本人に?」
「本人以外に誰に言うの」
「それもそうだけど」
ひまりは少しだけこめかみを押さえた。
でも、すぐに真面目な顔に戻る。
「どうしてそんなこと言ったの」
「……怖かったから」
「うん」
「理由があるって、ちゃんと言われたら」
「うん」
「うれしいより先に、怖くなった」
「……」
「もう、勘違いかもって逃げられなくなる気がして」
「そっか」
ひまりはそれだけ言って、しばらく黙った。
それから、静かに聞いた。
「でも本当は、優しくしてほしいんでしょ」
「……」
「してほしくないなら、こんな顔にならない」
「……」
「栞」
「……うん」
「それ、自分が傷つく前に自分で壊そうとしてるだけだよ」
私は息を呑んだ。
壊そうとしてる。
そうかもしれない。
手の届きそうなものほど、なくしたとき痛い。
だから最初から壊れてしまえば、なくす怖さは減る。
たぶん私は、無意識にそれをやっていた。
「……最低」
ぽつりとこぼすと、ひまりが首を振った。
「最低っていうか、臆病」
「同じようなものでしょ」
「違うよ。臆病なだけなら、まだ戻れる」
「……」
「問題は、戻る勇気があるかどうか」
その言葉が、重く落ちる。
戻る勇気。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに難しいんだろう。
◇ ◇ ◇
放課後になっても、私は結局、自分から恒星のところへ行けなかった。
教室を出るとき、一瞬だけ廊下の向こうに彼の姿が見えた気がした。
でも、たぶん彼は私に気づいても来なかった。
いや、来なかったというより、来ないでくれたのかもしれない。
それが少しだけありがたくて、少しだけ寂しい。
ほんとうに勝手だと思う。
図書室での仕事中も、何度も朝の会話を思い出した。
『勘違いじゃない』
『君がそんなふうに自分を低く見てるの、見てるのしんどい』
私はあんなにひどい言い方をしたのに。
彼は最後まで私を責めなかった。
だから余計に、自分の言葉のひどさが際立つ。
仕事を終えて帰るころ、窓の外はすっかり夕暮れ色だった。
図書室の扉を閉めて廊下へ出る。
今日こそは、会わないまま帰れるかもしれない。
そう思ったのに、階段の踊り場で足を止めた。
そこに、恒星がいたからだ。
壁にもたれたりはしていない。
ただ、踊り場の窓の近くに立って、外を見ていた。
私に気づくと、少しだけ視線を向ける。
「……お疲れさま」
先に言ったのは彼だった。
私は数秒遅れて返した。
「……お疲れさまです」
前みたいな穏やかな空気ではない。
でも、完全に冷たいわけでもない。
その中途半端さが、かえって胸にくる。
「図書室、終わった?」
「……はい」
「そっか」
また沈黙が落ちる。
言わなきゃいけないことは分かっていた。
朝のことを謝らないといけない。
でも、謝ればそれで済むとも思えなかった。
私は意を決して口を開いた。
「朝のこと」
「うん」
「……ごめんなさい」
「……」
「ほんとは、あんなふうに言いたかったわけじゃなくて」
「うん」
「でも、怖くて」
「うん」
「だからって、あんな言い方していいわけじゃなかったです」
そこまで一気に言って、私は息を吐いた。
手が少し震えている。
恒星はしばらく何も言わなかった。
それから、窓の外へ一度だけ目をやって、静かにこちらを見る。
「謝ってくれて、ありがとう」
「……」
「でも、俺も」
「え」
「少し急ぎすぎたのかもしれない」
その返答が意外で、私は顔を上げた。
「急ぎすぎた……?」
「君がまだ怖がってるの分かってたのに、理由があるって言い切ったから」
「……」
「嬉しいって思ってもらえるより先に、追い詰めたかもしれない」
「そんな」
「そう思った」
彼までそんなふうに言うなんて、ずるいと思った。
私の方がひどいことを言ったのに。
どうして、自分だけが悪かったみたいに話すんだろう。
「……一条くん」
「うん」
「そういうの」
「うん」
「やっぱり、ずるいです」
「またそれ?」
「だって……」
私は少しだけ俯いた。
「私ばっかり子どもみたいになるので」
恒星が小さく息を吐く。
笑ったのかもしれない。
でも、その笑い方には前みたいな余裕だけじゃなく、少しだけ苦さも混じっていた。
「俺だって、かなり子どもだよ」
「……そう見えないです」
「見えないだけ」
「……」
「君のことになると、驚くくらい余裕ないし」
その言葉に、また胸がきゅっとなる。
どうしてこの人は、こういうところだけ不思議なくらい格好悪いことを、ちゃんと口にするんだろう。
それが、たまらなく困る。
「……私」
私は少しだけ間を置いて言った。
「まだ、ちゃんと釣り合うとか釣り合わないとか、そういうこと気にしてしまうし」
「うん」
「自分に自信もないし」
「うん」
「一条くんが優しいたびに、うれしいより怖いが勝つこともあります」
「……」
「でも」
「うん」
「それでも、全部なかったことにしたいわけじゃないです」
言ってしまってから、胸の奥が熱くなる。
それはもう、ほとんど告白みたいなものじゃないかと思った。
いや、違う。
告白なんて、そんな綺麗なものじゃない。
もっとずっと、情けなくて中途半端だ。
でも恒星は、その言葉を大事に受け取るみたいに、静かに目を細めた。
「……それだけで十分」
「十分、って」
「うん」
「一条くん、すぐそう言う」
「だって本当だから」
私は少しだけ、困ったように笑ってしまった。
完全には楽にならない。
でも、朝よりはずっと呼吸がしやすい。
「じゃあ」
恒星が小さく言った。
「今日はもう、それでいい?」
「……はい」
「無理に答えを出さなくていい」
「……」
「ただ、君が自分を低く見て逃げるたびに、俺はたぶん止めたくなるけど」
「……」
「それだけは、覚悟しておいて」
その言い方に、私はまた何も言えなくなる。
止めたくなる。
それがこの人の本音なんだろう。
私を責めたいんじゃなくて、そういうふうに自分を傷つける言葉を止めたいのだと。
そこまで分かってしまうと、余計に胸が痛い。
でも、その痛みはもう、前みたいな苦しさだけではなかった。
少しだけ温度がある。
少しだけ救われる痛みだった。
◇ ◇ ◇
その日、帰りの電車の中で私は窓に映る自分をじっと見ていた。
黒縁眼鏡。
まとめた髪。
相変わらず地味で、相変わらず普通だ。
でも、今日はほんの少しだけ、その“普通”の中で息がしやすかった。
あの頃の君と、今の私じゃ釣り合わない。
そう思う気持ちは、まだ消えていない。
たぶん、簡単には消えない。
昔の彼は、泣きそうな顔で私の手を引いてくれた男の子で。
今の彼は、学校中の憧れの的で、何でも持っているように見える人だ。
その差を思えば、自分が尻込みするのも当然だと思う。
でも、今日少しだけ分かったことがある。
彼はその差を、私ほど気にしていない。
少なくとも、そこで線を引いているのは私の方だ。
それが分かっただけでも、少しは違うのかもしれない。
「……難しい」
小さくつぶやいて、私は窓の外へ目を向けた。
まだ何も答えは出ていない。
でも、朝みたいに全部壊してしまいたいわけでもない。
壊したくないと思っている自分がいる。
それが今の私にとっては、十分なくらい大きな変化だった。




