家出少年②
冷えた身体を暖炉の炎で温めながら、シオンはユリアナの濡れた短髪を大きめのタオルで優しく拭き取っていた。
「こうしてると、やっぱり長い髪を乾かすのって大変なんだろうなって思うよ」
「そうなんだよ。ユリアナは元々侍女をあまり近づけないから、全部一人でやらなきゃいけなかったんだ。だから思い切ってバッサリ切ったんだけど……今日も本当はさらに短く切りに行こうと思ってたんだよね。まぁ、もういいや」
とりとめのない会話を交わしているうちに、窓の外の景色は急速に濃紺へと染まっていく。
「冬は本当に日が暮れるのが早いな……」
「これじゃあ、今日はもううちに泊まっていくしかないね」
そう答えながらも、英二の脳裏には現実的な問題が浮かんでいた。
(本当は、もっとちゃんとシオンが家出をした根本的な理由を聞き出したいんだ。この問題をうやむやにしたままじゃ意味がないし、ずっとここに匿い続けるわけにもいかない。それはシオンの将来のためにもならないからな)
そんな思案に耽っていると、タイミングを見計らったように窓の外の廊下から、いつもの侍女の声が響いた。
「お嬢様、ご夕食の準備が整いましたがいかがされますか?」
「今日は少し疲れてしまいましたの。お部屋で一人でいただきたい気分ですわ!」
ユリアナがとっさに令嬢の声を張り上げると、「かしこまりました」と足音が遠ざかる。
ホッとしたのも束の間、シオンが後ろからユリアナの肩にそっと顎を乗せ、背中から抱きついてきた。
「……寒い」
「ずっと雪の中を歩いてきたんだもんな……」
冷え切ったシオンの体温を感じながら、少しだけしんみりとした空気が流れる。しかし、その甘やかな雰囲気を破るように、コンコンと激しくドアがノックされた。
「お嬢様! お食事を持ってまいりました!」
「うわっ、やべっ!」
ユリアナは慌ててシオンの背中を押し、自分のベッドの掛け布団の中に無理やり隠した。息を整えてドアを開け、手早く食事のトレイを受け取る。
「大丈夫、もう行ったよ」
ユリアナが声をかけると、シオンは布団からすっと顔を出した。
用意された食事を二人でつつく時間は、何故か少しだけ気まずかった。それは先ほどの絶妙なタイミングの悪さを引きずっているからではなく、ユリアナ自身がシオンの抱える深い悩みを一緒に背負いきれていないことに、一種の負い目を感じていたからだ。
それに、今日のシオンはやたらと距離が近い。さりげないボディタッチも多い。そして、ここまで近くにいて初めて、英二は視覚的な違和感に気づいた。
(……こいつ、成長してやがる)
出会った頃は同じくらいの身長だったはずなのに、いつの間にかシオンの肩幅は広くなり、目線の位置も圧倒的に高くなっていた。
きっと、厳格な父親と衝突して家出をしてきて、心細くてたまらないのだろう。普段は意地を張っていても、中身はまだ十二歳の少年だ。
(俺をこの世界で最初に受け入れてくれた大切な存在だからな。シオンがいてくれたからこそ、俺はユリアナとして生きていけてるんだ。今夜くらいは、こいつの心の支えになってやるか)
「もうこんな時間だ。そろそろ寝ようぜ」
食器を片付けたユリアナが言うと、シオンは少しバツが悪そうに部屋の隅を指差した。
「……じゃあ、俺はこのソファで寝るよ」
「何言ってんだよ。ベッドで一緒に寝ようよ」
「いや、さすがにもう俺たち十二歳、もうすぐ十三歳だよ!? 俺もユリアナも、その……身体が大きくなってるし……」
「何を今更。今日ずーっとベタベタ甘えてたくせに、変なところで気にするなよ」
ユリアナは先にベッドに潜り込むと、掛け布団をめくって「おいで」とばかりに隣のスペースをポンポンと叩いた。その仕草に引き寄せられるようにして、シオンも観念したようにベッドに入ってくる。
「……手、繋いでいい?」
「今日のシオンは本当に甘えん坊さんだな」
苦笑しながらユリアナが右手を差し出すと、シオンはその手をぎゅっと握り、さらに指を交差させる『恋人繋ぎ』に握り直してきた。その手のひらは、少し熱を帯びている。
「……今日ね、父上と人生で初めて大喧嘩したんだ。父上から、ユリアナとの関係を見直せって言われてさ。そうしないなら、この婚姻は破棄させるって」
「えっ……なんでだよ?」
「その……最近の俺たち、当初の『設定』をすっかり忘れてるだろ?」
「え? 俺は外ではちゃんとお淑やかなお嬢様をやれてるはずだけど……」
「いや、そこじゃないんだ。父上が求めているような『男尊女卑的な、男が女を支配する関係』じゃなくて、今の俺たちって、外から見たら単に俺がお前を溺愛して甘やかしているだけに見えるじゃないか」
(確かに……)
英二は胸の中で納得した。最近はシオンから高圧的な命令を受けることなんて皆無だ。俺自身は尽くそうと動いているつもりだったが、シオンがしれっと先回りして色々と世話を焼いてくれることの方が多かった。
「だから、父上が『男のくせにたるんでいる! そんな腑抜けた様子では良い夫婦になれんから、別の家に替える』って激怒してさ……」
「俺は嫌だね」
ユリアナは握られた手に少し力を込めた。
「シオンと婚約解消なんてされたら、会える機会が激減しちゃうじゃん。俺はこれからもずっと一緒にいたいよ。……っていうか、さっきからやたらと距離が近かったのって、もしかして俺と離れるのが寂しかったからか?」
「……そうだよ」
シオンはあっさりと認めると、少しだけ真剣な目をしてユリアナを見つめた。
「ユリアナのことをもっと大切にしたいし、ずっと隣にいたい。だから……その、キスとか、していい?」
「まだ駄目だろ。何言動が飛躍してんだよ」
「まだ? じゃあ、いつかならいいの?」
「そりゃ、将来ちゃんと結婚初夜を迎えた時とかならな……」
「ふっ……そうか」
シオンは少しだけ安心したように、満足げな笑みを浮かべた。
「なら、やっぱり絶対に婚約破棄なんてさせられるわけにはいかないな。明日になったらちゃんと家に帰って、父上ともっとしっかり話し合ってくるよ」
「あらやだ、私と離れたくない理由って、まさか将来の身体目的ですの!?」
ユリアナはお嬢様口調に戻して、面白半分でからかってみせた。
「違うよ! 俺はただ、ユリアナと本気で結婚したいし、将来は子供だって欲しいって思ってるんだ。お前といる時が、俺の人生で一番楽しい時間だからさ」
シオンはそう真っ直ぐに告げると、照れ隠しのようにユリアナの枕元にある魔石灯の明かりをパチンと消した。暗闇の中、繋いだ手の温もりだけが優しく残っていた。
翌朝の早朝。ローゼンベルク邸の玄関ホールは大騒ぎになっていた。
「シオンはここにいないか!?」
「ああ、うちの可愛いシオンが家出なんて……ううっ、メソメソ……」
「エンヴァス侯爵閣下、夫人、落ち着いてください。私どもは何も把握しておりませぬが……」
早朝から怒鳴り込んできたエンヴァス夫妻に対し、ローゼンベルク家の面々が必死に対応している。その時、後ろから冷徹な足音が響いた。
「奥様、旦那様、ローゼンベルク邸の皆様。これはおそらく、ユリアナ様がこっそりお部屋にかくまっている可能性が極めて高いかと存じます。アタシの勘は百発百中ですよ。さあ、案内しますので確認しに行きましょう」
エマを先頭に、総勢十数人の大人たちが静かにユリアナの部屋の前に集結した。
「お邪魔します……」
「失礼いたしますわ……」
エマが器用に鍵を開け、そっと扉を開け放つ。
「ほら、いた。いつも通りですね」
エマが呆れたように指差した先。そこには、広いベッドの中でしっかりと手を繋ぎ合い、実になかむつまじく眠る二人の姿があった。
「いたか!?」
背後からシオンの父親が険しい顔で覗き込み、続いて母親も顔を出した。
「あらまあ! なんて可愛らしい……じゃなくて、これなら元気な孫の顔が早く見られそう……でもなくて! あなた、こんなに仲良しな二人を別れさせるなんて、あまりにも可哀想ですわよ!」
「んっ……ま、まあ、そうだが……しかし近頃のシオンは浮かれすぎて……」
父親がなおも苦言を呈そうとした、その瞬間だった。
すやすやと呑気に眠っていたシオンが、小さく寝言を漏らした。
「……んぅ……ユリアナ……だいすき……」
その場にいた侍女たちやシオンの母親は、必死に笑いを堪えて肩を震わせる。
父親はしばらく息子の無防備な寝顔を見つめていたが、やがて大きなため息を吐き、半分呆れたような笑みを浮かべた。
「はぁ……。本当に仲が良いのだな、この二人は。……エマ、すまないが、私たちは食堂で待っているとシオンに伝えてくれ」
「ふふ、かしこまりました。この幸せそうな寝顔を見ては、起こす気にもなれませんね」
大人たちは静かに扉を閉め、廊下へと去っていった。
「ん……。――ハッ! ユリアナ! ……ああ、そうか、俺、家出してここに来たんだった……」
完全に朝陽が昇った頃、シオンが勢いよく飛び起きた。
その隣で、すでに完璧に赤毛のウィッグを被り、身支度を整えていたユリアナが冷ややかな視線を送る。
「なぁ、シオン。やっぱりお前と一緒の布団で寝るの、もう絶対にやめるわ。恥ずかしすぎる」
実はユリアナ(英二)、シオンの父親たちが部屋に怒鳴り込んできた気配を察した瞬間から、完全に目が覚めていたのだ。とっさに起き上がってウィッグを被り、寝たふりをしてやり過ごしたのである。
「え? なんでだよ?」
寝ぼけ眼で首を傾げるシオンの額を、ユリアナは人差し指でパチンと弾いた。
「つーか、お前さっきどんな夢見てたんだよ!『ユリアナ、大好き』って寝言、お前の両親とエマさんたち全員にバッチリ聞かれてたからな! その破壊的な寝言、マジでどうにかしろよな!」




