家出少年
第8話:雪の日の脱走兵と、甘やかしの理由
「ロイヤル・ソワレ」からさらに一年が過ぎた、凍えるような冬の日のことだった。
ユリアナはいつものように窮屈なドレスと赤毛のウィッグを放り出し、動きやすいブラウスとハーフパンツ姿に着替えていた。たまには男の格好で夜の街へ気晴らしに出かけようと、自室の風呂場にある隠し通路へ向かおうとした、その時である。
パタン、と裏口の扉が内側からかすかに開いた。
(あん? 侵入者か!?)
ユリアナが身構えた瞬間、滑り込んできた影を見て思わず大声を上げそうになった。
そこに立っていたのは、両手いっぱいに大量の荷物を抱え、頭にうっすらと雪を積もらせた、汗だくの美少年だったからだ。
「は!? シオン!?」
「うわぁぁ! しーっ! しーっ、声が大きいって! 俺、今絶賛家出中なんだよ!」
青い目を泳がせて焦るシオンを、ユリアナは咄嗟に自分の部屋へと引きずり込んだ。急いで扉を閉め、鍵をかける。
荷物を床にドサドサと落として肩で息をしているシオンを見つめ、ユリアナは呆然と呟いた。
「……なぁ。お前、見たところ怪我もしてないしピンピンしてるけど、まさかローゼンベルク邸まで歩いて来たんじゃないだろうな……?」
「いや、歩きだけど。だって俺、乗合馬車とか公共交通機関の乗り方なんて知らないもん」
「正気かよ!? 大人の足でもここまでするのに2時間以上かかるぞ!?」
「まぁ、道はほぼ一直線だし……なんとかなるかなって……」
へらりと頼りなく笑うシオンだったが、十二歳の少年が雪の中を二時間激走してきたのだ。部屋の暖房も相まって、彼の身体からは湯気と共に強烈な男汗の匂いが立ち上り始める。
ユリアナは思わず鼻をつまんだ。
「お前、とりあえず服を脱げ。……ぶっちゃけめちゃくちゃ臭い」
「嘘っ!? 俺、今そんなに臭い!?」
シオンはショックを受けたように自分の服の匂いを嗅ぎ、顔をしかめた。
「待ってろ、今風呂の準備をしてやるから」
ユリアナは部屋に隣接するバスルームへと向かい、手際よくシャワーの準備を始めて湯船に熱いお湯を沸かし始めた。
しばらくして、シオンが広々とした湯船に浸かってようやく人心地ついた頃。
脱衣所からバタバタと足音が聞こえ、バスローブを身に纏ったユリアナがバスルームへと入ってきた。
「うわっ、ユリアナ!? 何入ってきてるんだよ!」
「声が大きいっての。いいだろ、うちの侍女たちには『私が今お風呂に入っているから近づくな』って言ってあるんだから。ここなら誰にも会話を聞かれないしな」
ユリアナは湯船の縁に腰掛け、浴槽で小さくなっているシオンを見下ろした。
「で? 何があったんだよ。あの過保護なエンヴァス侯爵家から、お前みたいな三男坊が家出なんて大事件だろ。どうして家出しようと思い立ったんだ?」
「……父上と、喧嘩したんだ」
シオンは気まずそうに湯船のお湯を手でいじりながら呟いた。
「お前が!? あの厳格そうな父親と? 珍しいじゃん」
「うん。……お前のことで、ちょっと言い合いになってさ」
「えっ……」
ユリアナの胸に冷たいものが走る。
(まさか……俺の中身が男だってことや、普段のガサツな態度が向こうの親にバレたのか……!?)
「もしかして、俺がこんなんだからか……!?」
「いや! 違うんだ!」
シオンは慌てて顔を上げ、激しく首を振った。
「ユリアナは何も悪くない! 俺が悪くて……その、何て言うか、思い出すだけでも恥ずかしいから詳しくは言えないんだけど……!」
耳まで真っ赤にしてお湯に顔を半分沈めてしまったシオンを見て、ユリアナは首を傾げた。
実際のところ、数時間前のエンヴァス侯爵邸では、シオンの人生最大の反抗期が爆発していた。
『シオン、お前は近頃たるんどる!』
書斎で父親の怒号が響く。
『たるんでなどいません! 私は日々の勉学にも、騎士団直伝の剣術の稽古にも、一切の手抜きなく取り組んでおります!』
『そういう表面的な話をしているのではない!』
侯爵は机を強く叩いた。
『近頃のお前は、自分の婚約者であるローゼンベルク嬢を甘やかしてばかりではないか! 男たるもの、女には厳しく教育を施し、こちらの意のままに従わせるのが当然の義務。それを、お前がへりくだってどうする!』
その言葉を聞いた瞬間、シオンの頭の中で何かがブチ切れた。
目の前の父親が信奉する、この世界の歪んだ価値観。優しく頼れる相棒であるユリアナを「教育して従わせる」など、不快極まりないことだった。
『お言葉ですが父上! ユリアナ嬢は、そんな傲慢な教育など施す必要がないくらい、私の理想の女性です! 私は彼女に、彼女のままで、ありのままでいてほしいと心から願っているのです!』
『それがたるんどると言っているのだろうがぁぁ!』
父親の顔が怒りで真っ赤に染まる。
『お前のような意気地なしに、我が家の看板を背負った婚姻など任せられるか! そんなにその小娘が大事なら、今すぐ婚約破棄にしてやる!』
『婚約破棄!?』
シオンは目を見開いた。
ユリアナと離れる? あの楽しくて、何でも本音で話せる唯一無二の相棒を失う?
そんな未来、絶対に認められるはずがなかった。
『それだけは絶対に嫌だ!!!』
シオンは叫んでいた。
『だったら、出ていってやる! こんな理不尽な家、こっちから出ていってやるッ!!』
部屋を飛び出し、自室にあった金目のものと着替えをありったけ鞄に詰め込み、シオンはそのまま雪の降る夜の街へと駆け出したのだった――。




